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2024年1月2日 (火) 09:58時点における版
江戸時代の伝統芸能の中の責めから始まり明治の壮士芝居、大正時代の伊藤晴雨の責めの劇団、戦後の向井一也、映画館でのピンク実演、ストリップ劇場での「残酷ショー」など現代に続くSMショーの歴史をまとめている。
歴史
1678年(延宝6年)、菱川師宣『古今役者物語』の中の「山ぜうだゆふ あんじゆのひめ(三庄太夫 安寿の姫)」に「いたはしやひめ君を、たかてこてにいましめて」とあり[1]、既にこの時代の歌舞伎で責めのシーンが使われていたことを示唆する。
18世紀(江戸時代)、人形浄瑠璃や歌舞伎などの折檻シーンが一部の人の心を揺さぶっていたと思われる。1740年(元文五年)並木宗輔作『鶊山姫捨松』の三段目「中将姫雪責の段」や1772年(安永元年)の新内『明烏夢泡雪』など。
1865年(慶応元年)3月、守田座で河竹黙阿弥の魁駒松梅桜曙微が初演。澤村田之助が演ずる欠皿が吊り上げられ割竹で打たれ、束にした針で刺され、胸に蛇を入れられ責められる。
1872年(明治2年)3月、守田座で三世沢村田之助が河竹黙阿弥の『怪談敷島譚』を初演[2]。
1889年(明治22年)6月12日[注 1]、大阪新明座[注 2]で公演で角藤定憲を座長とした壮士芝居が誕生。1903年(明治36年)頃まで続く壮士芝居の1つの特徴として、女の責め場が多用されたことがあげられる[3]。
1891年(明治24年)11月、浅草吾妻座で依田学海の済美館「男女合同改良演劇」による壮士芝居「政党美談淑女の操」が上演。この芝居に責め場があったかどうか不明だが、小説雑誌「都の花」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された際、小林永濯が責め絵的な挿絵を描いている[4]。
1894年(明治27年)12月、松廼家梅河『日清戦争浄瑠璃天狗』(博多成象堂)に「中将姫雪責の段」をもじった段がある。
1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での壮士芝居『日清戦争・夜討之仇譚』の看護婦の拷問シーンが話題となり、同種の拷問芝居がブームになる[5][3][注 3]。
1897年(明治30年)4月、歌舞伎座での大口屋暁雨『侠客春雨傘』でせっかん場面。九代目市川團十郎で大ヒット。
1921年(大正10年)、鈴木泉三郎が伊藤晴雨をモデルとした『火あぶり』を早稲田大学紀要(要確認)に発表。責め場を含む戯曲で、戦前・戦後に上演されていた[6]。
1920年代?、浅草観音劇場で曾我廼家五九郎が『人肉の市』を舞台化[7][8]。
1925年(大正14年)夏、伊藤晴雨が責め専門の劇団を設立[注 4][9]。
1933年(昭和8年)、伊藤晴雨が2度目の責め専門の劇団設立[注 5][9]。
1937年(昭和12年)頃、伊藤晴雨が3度目の劇団設立[注 6][9]。
1947年(昭和22年)8月1日-15日に帝都座五階劇場にて「空気座」による『肉体の門』公演[10]。リンチシーンが話題に。
1951年(昭和26年)暮、百万弗劇場が伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』を上演し大ヒット[11][12]。
1952年(昭和27年)、百万弗劇場での伊藤晴雨の責め芝居のヒットに刺激され、浅草フランス座で『毒婦暴状傳』を上演し大ヒット[注 7]続いて『妖婦火あぶり地蔵』[11]。
1952年(昭和27年)、奇譚クラブ11月号, p64の朝見速夫『ストリップ変態記』でサドマゾを取り入れたストリップショーのことが紹介。
1953年(昭和28年)、4度目の劇団「責めの劇団」を結成。中村座を活動拠点とする[9]。
1953年(昭和28年)6月4日、「責めの劇団」の第1回公演を市川鈴本でおこなう[注 8][9]。
1953年(昭和28年)7月11日、「責めの劇団」の第2回公演を中村座でおこなう[注 9][13][注 10][9]。
1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号, グラビアに『捕物の舞台写真』が紹介。
1954年(昭和29年)、新劇の新協劇団による『山の民』に拷問シーン[14]。
1955年(昭和30年)、奇譚クラブ2月号, p283に浅草の大衆劇場で上演されていた音羽照子一座の責め芝居に関する観劇レポート。伊藤晴雨が関係したような記述。
1960年(昭和35年)、浅草で「残酷ショー」の『花嫁と山男』の公演[15]。
1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)すぎに「残酷ショー」が流行る。ロベルト秋山(=ローズ秋山?)、伊藤残酷ショー(=伊藤一夫?)。鉄の五郎ショーとか次々現れた[16][注 11]。
1963年(昭和38年)1月26日、濡木痴夢男台本による『虻川画伯のアトリエ』初演。ニュー内外ミュージックホールにて。演出は深井俊彦。縛りを含む。
1964年(昭和39年)年頃、向井一也と青木順子がSMショウを東京や名古屋のストリップ劇場でおこなう。
1964年(昭和39年)7月、日劇ミュージックホールでの英国人P・モーリスの鞭打ちショーの写真が「秘蔵版風俗画報」に出ている。
1964年(昭和39年)、辻村隆のSMカメラ・ハント第1回目のモデルが青木順子。奇譚クラブ1964年(昭和39年)11月号、p174
1965年(昭和40年)頃、深井俊彦が「残酷ショー」を始める。全盛期は30組ほど存在[17]。
1965年(昭和40年)頃、ローズ秋山が「残酷ショー」で有名に。
1966年(昭和41年)、ピンク実演の走りとされるカジバシ座での劇団「赤と黒」の芝居[18]。
1966年(昭和41年)、映画『新拷問刑罰史 拷問』(小森白プロダクション, 1966.7)が京都の「田園キネマ」で上映される際、舞台で「残虐物語二景」と題したストリップが上演された[19]
1966年(昭和41年)暮、ローズ秋山がアブノーマル演劇と銘打った<女体責め>の劇をダイコーミュージックでやっていたと奇譚クラブ1967年(昭和42年)1月号に紹介。
1967年(昭和42年)1月、奇譚クラブ5月号の春風春太郎『緊縛映画万歳』に「丁度その頃(1月)、東京カジバシ座で『拷問』」を公演したいたと。
1967年(昭和42年)1月、奇譚クラブ5月号の春風春太郎『緊縛映画万歳』に浅草ロック座での日舞ショーで「踊り子さんが客席でお客さんに縛ってもら」っていたと。
1967年(昭和42年)、池袋名画座の正月興行の松井康子らのピンク実演が人気を集める。演出は小林悟[20][注 12]。
1967年(昭和42年)、風俗奇譚9月号に『劇団赤と黒「拷問くの一」より』
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号, p246に「青木順子のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。
1967年(昭和42年)、銀座地球座が邦画名画座からピンク映画上映館に路線変更すると同時に、ピンク実演を開始。こけら落としに内田高子、松井康子、谷ナオミが舞台挨拶[18]。
1968年(昭和43年)、向井一也が劇団「新しい波」の設立[21][注 13]。
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ7月号の「最近の縛り演劇・映画から」で忍妙子の「地獄絵ショー」が紹介。
1968年(昭和43年)、既にカシバシ座でのピンク実演に劇団「炎」[注 14]が加わっている[18]。
1969年(昭和44年)、奇譚クラブ1月号,p233「奇クサロン」に谷ナオミの実演の観劇レポートが[注 15]。
1969年(昭和44年)8月頃、木川ヌードショー劇場にて映画「徳川女刑罰史」の一場面『処刑』。出演:忍好子。構成:関五郎[22]。
1969年(昭和44年)10月28日、ローズ秋山が辻村隆、福田和彦と11PM「サド侯爵もびっくり」に出演[23]。
1970年(昭和45年)、奇譚クラブ2月号, p234にローズ秋山が「大阪ダイコー、東大阪市のコーセー劇場で公演」とある。
1970年(昭和45年)、奇譚クラブ9月号, p247に池袋アートシアターでの人間座「奴隷」の観劇レポート。
1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場にいた杉浦則夫が団鬼六の鬼プロに参加。たこ八郎が中心の鬼プロピンク実演の第1回目の制作に関わる。
1972年(昭和47年)2月、玉井敬友が関西で劇団スキャンダルを旗揚げ。
1973年(昭和48年)頃、浅草フランス座でも前衛舞踏系の踊りやSM系のショーがおこなわれる[24]。
1973年(昭和48年)3月8日〜31日、新宿アートビレッジにて向井一也による『オリジナルの会+アートビレッジ制作の『SMドキュメンタリー サディストの告白(シリーズ)「足の下の心情」「責め苦の功罪」』。
1973年(昭和48年)5月、SMキング5月号の「キングかわら版 まぼろしの劇団、探訪記!!」でSM劇団の『劇団シモーヌ』が特集されている。
1973年(昭和48年)、中島貞夫監督の『セックスドキュメント エロスの女王』(東映, 1973)でローズ秋山夫妻の「残酷ショー」が取り上げられる。
1974年(昭和49年)頃、向井一也の「オリジナルの会」[注 16]を開催しており、長田英吉が影響を受ける。
1974年(昭和49年)8月、上京前の玉井敬友が大阪の自身の劇場『シアター喫茶・スキャンダル』に向井一也(と恐らく青木順子)を招聘[25]。
1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「奇クサロン」に舟橋一郎「向井一也・青木順子の『サディストの告白』を観て」が掲載。
1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「編集部便り」に「大阪キタのサパークラブ『スキャンダル』で(向井一也氏の)『サディストの告白』が8月末に公開」とある。
1976年(昭和51年)春、玉井敬友が上京して劇団「シアタースキャンダル」設立。六本木に劇団の事務所・アトリエをオープン。
1976年(昭和51年)、玉井敬友の「シアタースキャンダル」に桜田伝次郎がスタッフとして参加。長田英吉や責め師役として参加。ここで桜田伝次郎と長田英吉が出会う。
1977年(昭和52年)頃?、桜田伝次郎は独自にSMショーを企画するGSG企画を設立。GSG企画が企画するSMショーが、GSG企画の西荻窪アトリエ、六本木のSAMM(賀山茂の店)、大塚のマイウェイ(本田富朗の店)、中野の中野クィーン(本田富朗の店)で開催される。桜田信、村井弦が責め師として出演し、女優は黒川真由美など。後のAV監督鬼沢修二は爆弾五郎という役名でマイウェイでのイベント「SMボンバー」に出演。[26]。
1978年(昭和53年)頃?、GSG企画のSMイベントは会員制をとっており、この会員として後の明智伝鬼が応募してくる。
1978年(昭和53年)頃、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得し、SMショーが始まる[注 17][16]。
1978年(昭和53年)11月1日、玉井敬友のシアタースキャンダルが「春風座」でSMショー。
1979年(昭和54年)後半、アングラ劇団の劇団員だった佐藤哲と高木常吉が代田橋の劇団スタジオでSM実験劇『日本悪魔クラブ』を定期的に公演開始。1990年頃まで続く。
1980年(昭和55年)6月5日、葵マリが赤坂ブルーシャトーをオープンしてSMショー[27]。
1980年(昭和55年)頃、明智伝鬼が「特別会員の会」を組織[28]。
1980年(昭和55年)12月、川上譲治がモダンアートにでラー企画のメンバーを使った前衛SMショー『胡弓&カラス』を上演して大人気となる[29]。
1981年(昭和56年)6月20日、賀山茂が六本木にSAMMをオープンしてSMショー[30][注 18]。
1981年(昭和56年)頃[注 19]川上譲治企画によるスカイ劇場SM大会の記者会見を兼ねたイベントを新宿ACB会館でおこなう。長田英吉、玉井敬友、GSG企画が出演し、ラー企画によるショーも[31]。
1985年(昭和60年)、池袋のスカイ劇場サヨナラ特別公演で「根暗童子夫妻のSMショー」[32]。
1985年(昭和60年)、桜田伝次郎がSMショーから引退。この時、それまでのGSG企画のSMイベント会員を明智伝鬼に譲り、明智伝鬼は引き続き独自にSMショーを続けることとなる
1987年(昭和62年)7月、明智伝鬼がスタジオファントムを組織[33]。中野クィーンで定期的にショーを[28]。
1987年(昭和62年)9月、明智伝鬼が「SM実験劇場スタジオファントム」を旗揚げ。最初月に1回、88.1より月2回の定例公演として97年6月までの10年間の長期公演[33]。
1989年(昭和64年)、明智伝鬼が一般会員撮影会を発足。不定期に野外撮影会。その後「SFの会」「伝鬼の会」など四つの会を主宰[33]。
1997年(平成9年)6月14日と19日、若松劇場にて「長田ゼミナール」。出演:長田英吉、早乙女宏美[34]。
1997年(平成9年)6月21日〜30日、DX伏見劇場にて『玉井敬友のSMシリーズ』[34]。
1997年(平成9年)8月21日〜31日、『玉井敬友SM特別公演』浅草ロック座ススキノ マドンナ[34]。
1997年(平成9年)8月21日〜30日、ショーアップ大宮にて『長田ゼミナール&早乙女宏美』[34]。
1997年(平成9年)9月21日〜30日、『玉井敬友SM特別公演』川崎ロック。
1998年(平成10年)頃から、新宿ロフトプラスワンで長田英吉、早乙女宏美、明智伝鬼、乱田舞、神浦匠、ミラ狂美、立花マリ、蕾火等がショーを開催。
1998年(平成10年)8月1日〜10日、新宿TSミュージックで『SM玉井敬友ショー』。出演:紅ユキ][34]。
1998年(平成10年)12月1日〜10日、ショーアップ大宮にて『SMの帝王 玉井敬友 特別公演』。
1999年(平成11年)、明智伝鬼がヨーロッパツアー。
1999年(平成11年)5月1日〜10日、新宿TSミュージックで『玉井敬友SMショー』[34]。
1999年(平成11年)7月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:早乙女宏美、いずみゆきこ、小沢一美(交代で)[34]。
2000年(平成12年)2月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:小沢一美[34]。
2003年(平成15年)11月1日、ショーアップ大宮にて川上譲治企画による『ザ・SM』シリーズが始まる。
2004年(平成16年)5月28日-31日、第1回Shibariconがシカゴで開催。その後定期的に開催。
2005年(平成17年)3月11日−20日、DX歌舞伎町にて『スーパーDX SM伝説 誕生篇』。
2009年(平成21年)5月23日、24日、ウクライナの第1回KinbaConに有末剛が出演。
2009年(平成21年)6月25日-28日、第1回ロンドン緊縛美の祭典が英国で開催。その後定期的に開催。
2010年(平成22年)12月23日-26日、シアターPOOにて松本格子戸企画による『ショーアップ大宮レジェンド・SM SUMMIT 2010』が開催。
2011年(平成23年)1月29日ー30日、「冬縛-World Bondage event」が東京で開催。
2011年(平成23年)9月30日、中国河南省鄭州市の国際博覧センターで開催された「第四回中原性文化祭」で中国の緊縛のデモショーが開催される[35]。
2017年2月26日(日)、キリストンカフェ東京にて全日本緊縛博覧会開催。
引用文献
- ↑ 『江戸時代文芸資料』(図書刊行会, 1916)
- ↑ 吉田弥生『江戸歌舞伎の残照』(文芸社, 2004)
- ↑ 3.0 3.1 伊藤晴雨『其の頃を語る(一) 新派劇の責場』奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
- ↑ 伊藤晴雨『其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家』奇譚クラブ1953年(昭和28年)8月号, p28
- ↑ 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)
- ↑ 伊藤晴雨『其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) 』奇譚クラブ1953年(昭和28年)11月号, p82
- ↑ 伊藤晴雨『非小説 性液(十)』奇譚クラブ1954年(昭和29年)11月号, p68
- ↑ 伊藤晴雨『非小説 性液(十一)』奇譚クラブ1954年(昭和29年)12月号, p169
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 伊藤晴雨『其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法』奇譚クラブ1953年(昭和28年)10月号, p169
- ↑ 『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
- ↑ 11.0 11.1 奈佳伸夫『近頃艶笑見世物談議』ロマンス生活1952年(昭和27年)4月号, p28
- ↑ 本田由郎『「責め」の芝居雑考』奇譚クラブ1956年(昭和31年)7月号, p68
- ↑ KK通信1953年(昭和28年)第13号
- ↑ 藤見郁『ロマンチックなサディズム』奇譚クラブ1954年(昭和29年)7月号, p36
- ↑ 中谷陽『おお特出し』(立風書房, 1974)
- ↑ 16.0 16.1 みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
- ↑ 佐山淳『外人関西ヌードショウ』新劇、1973年(昭和48年)9月号
- ↑ 18.0 18.1 18.2 『成人映画』1968年(昭和43年)4月号(通算28号)の「ピンク実演:決定的瞬間を生で見る迫力」より
- ↑ 東山映史『最近の縛り映画から』奇譚クラブ1966年(昭和41年)12月号, p14
- ↑ 成人映画 1967年(昭和42年)2月号(No. 15)
- ↑ 『サロン楽我記』奇譚クラブ 1968(S43)年11月号
- ↑ 週刊ファイト1969年(昭和44年)8月25日号広告より
- ↑ 奇譚クラブ1970年(昭和45年)1月号号「サロン楽我記」
- ↑ ビートたけし『浅草キッド』(新潮社, 1992)
- ↑ 奇譚クラブ1974年(昭和49年)12月号,「編集部便り」
- ↑ 桜田伝次郎, 私信 to U, 2014.4.9
- ↑ 葵マリー『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)
- ↑ 28.0 28.1 北原童夢『明智伝鬼と戦後日本のSM史』in 『変態さんがいく』(別冊宝島編集部, 2000)
- ↑ 川上譲治『さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
- ↑ S&Mスナイパー1981年(昭和56年)9月号
- ↑ 森美貴, 私信 to U
- ↑ FOCUS, 1985(昭和60)年9/6号
- ↑ 33.0 33.1 33.2 エピキュリアン
- ↑ 34.0 34.1 34.2 34.3 34.4 34.5 34.6 34.7 STRIPwikiより
- ↑ 中国で生活するブログなど
注釈
- ↑ Wikipediaでは1888年(明治21年)12月となっている。
- ↑ Wikipediaでは新町座となっている。
- ↑ 男優が女装で演じていた。伊藤晴雨もこの芝居を観ている
- ↑ 入場料10の「10銭芝居」と言われた劇団に属する。「大失敗に終わる」とある。
- ↑ 「自ら脚本も書き背景も描き衣装小道具の製作と買い入れもすれば鬘屋の交渉にも飛び廻り、絵看板も描けば興行先の交渉もやる」「数千円の欠損をした」
- ↑ 「日支事変突発当時、ある美しい女形を発見したので、之を座長にして半年斗り小劇団を作って、東京市内の寄席を打ち廻って、毎晩責め場の芝居ばかりを」
- ↑ 女剣劇の新人辰巳洋子、ストリッパー桃山洋子。
- ↑ 濡木痴夢男はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は鈴木泉三郎脚本の『火あぶり』(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したとある。ただし、伊藤晴雨の記録では「三〇余名の会員を前にして「雪責めの女」を上演」とある。
- ↑ 江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場、とある。入場料300円。
- ↑ おそらくその後、「番町皿屋敷青山鉄山邸に上場し会員組織を以て興行した」とある。
- ↑ 例えば季節風書店『裸か美グラフ』1962年(昭和37年)12月号のグラビアには、「バーレスクの残酷場面」と題し、いろいろな緊縛シーンの舞台写真が出ている。「チン版・羅生門」「人のいい痴漢」「誰よりもギャラを愛す」など
- ↑ 「この正月興行はどこも実演付きがにぎやかだった」「池袋名画座では正月四日から十日まで”松井康子とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出小林悟)を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:松井康子、白川昌雄。数名の女優。
- ↑ 連絡先は、新宿の実験小劇場モダンアート、あるいは名古屋の今池アングラ劇場内の向井常、とある。
- ↑ 青木マリ、水咲陽子などが出演。濡木痴夢男が「炎」のためにいくつか脚本を書いている。
- ↑ 渋谷のC座。ヤマベプロ作『人妻地獄』で団鬼六脚本。看板には「奇譚クラブ連載<花と蛇>より」と。三景。谷ナオミ、鈴木通人、南弘二、竹原あこ。併映は『鞭と淫獣』。
- ↑ 例えば奇譚クラブ1974年11月号p233に「オリジナルの会主催「矛盾の告白」の案内(10.28-31,シアター・グリーン)、p242に8月公演の後書きがある。
- ↑ 「SMとは何か」「SM調教の歴史と実験」など、けっこうおかたいテーマを作って舞台化。が、しだいに浣腸、鞭、ローソク、吊るしと過激化。
- ↑ 雑誌記事には1981年(昭和56年)6月20日にオープンとあるが、賀山茂のHPなどでは1979年(昭和54年)から活動していたことを伺わせる。
- ↑ あるいは、1982年(昭和57年)