浅草フランス座
あさくさふらんすざ。1951年(昭和26年)に開館した名門ストリップ劇場。 井上ひさし、渥美清、北野武など在籍。1952年(昭和27年)には既にSMショーを。
概要
1950年代に創立された浅草の東洋興業系のストリップ劇場。現在は落語以外の演芸をおこなう寄席、通称「東洋館」として引き継がれている。何回か閉鎖、再オープンを繰り返しており、同系列の「浅草東洋劇場」や「浅草演芸ホール」も同じ建物にあった。渥美清、長門勇、由利徹、東八郎、佐山俊二、谷幹一、関敬六、北野武らを育てた喜劇役者の登竜門。
所在地
東京都台東区浅草1-43-12
歴史
1951年(昭和26年)10月28日、松倉宇七が三友館の跡地に浅草フランス座を開場。3階建てで1、2階の客席は総数400席強。楽団席もあった[1]。
1952年(昭和27年)、1951年(昭和26年)暮の百万弗劇場での伊藤晴雨の責め芝居のヒットに刺激され、浅草フランス座でも『毒婦暴状傳』を上演し大ヒット[注 1]続いて『妖婦火あぶり地蔵』[2]。
1952年(昭和27年)、ロマンス生活4月号に『花吹雪猟奇演劇』と題して浅草フランス座での『毒婦暴状傳』(桃山朝子、佐藤衛)の舞台写真。緊縛シーンがある。他に『妖婦火あぶり地蔵』(辰巳洋子、桃山朝子、佐藤衛)、『濡れ燕女賊捕物帖』(佐藤一郎、桃山朝子、雪丘純)の舞台。
1953年(昭和28年)、渥美清が百万弗劇場[注 2]から浅草フランス座に移る[1]。
1955年(昭和30年)、日本最初の女子プロレス・ショー開催[3]。
1956年(昭和31年)、井上ひさしが浅草フランス座の文芸部員になる[1]。
1957年(昭和32年)、渥美清がTV業界に転出。井上ひさしもフランス座をやめる[1]。
1959年(昭和34年)11月、浅草フランス座を5階建てビルに改築。1-3階が「浅草東洋劇場」で4、5階がフランス座。萩本欽一が浅草東洋劇場に入る[1]。
1960年前後、山本昌平がフランス座の座員。
1964年(昭和39年)、浅草フランス座が閉館。1-3階は「浅草東洋劇場」のままで4、5階が「浅草演芸ホール」となる[1]。
1967年(昭和42年) 頃、杉浦則夫が浅草東洋劇場の進行係・照明係をしていた。
1971年(昭和46年)、1-3階の「浅草東洋劇場」を閉館。それまで4、5階にあった「浅草演芸ホール」が1階に移る。階上には浅草フランス座が再オープン[注 3]。
1972年(昭和47年)8月、北野武が深見千三郎[注 4]にあこがれ浅草フランス座のエレベーターボーイとなる。秋には初舞台[4]。
1973年(昭和48年)頃、浅草フランス座でも前衛舞踏系の踊りやSM系のショーがおこなわれる[4]。
1982年(昭和57年)、浅草フランス座が閉館。1階は「浅草演芸ホール」のまま。
1987年(昭和62年)、浅草フランス座が再オープン。浅草駒太夫が出演。1階は「浅草演芸ホール」のまま。
1988年(昭和63年)、浅草駒太夫の『花魁ショー」がブームとなる。浅草駒太夫のマネージャーで夫は演出家の佐山淳[5]。
1998年(平成10年)、浅草駒太夫の引退興行。
1999年(平成11年)、浅草フランス座が再度閉館。1階は「浅草演芸ホール」のまま。
2000年(平成12年)1月、改装後、「浅草フランス座演芸場東洋館(社)」として演芸場に転向。1階の「浅草演芸ホール」では落語を、4階の「東洋館」では落語以外の演芸をおこなっている。
エピソード
- 永井荷風が通っていた。
- 『1回の興業は2部に分かれていた。第一部はギャグのたくさん入った一時間程度の芝居。出演者は6, 7人で作者が台本を書いていた。毎回新作で演出者もいた。15分の休憩をはさんで1時間半の第2部。24,25景からなり、踊り子の数は20人前後。ソロ、デュエット、カルテット、群舞があり、他にコントや歌。振り付け師は国際劇場のSKDからきていた。音楽はもちろん生で7人編成の専属楽団。専属歌手も二人いた。』[6]
- 当時の喜劇役者のコースとして、百万弗劇場・カジノ座→フランス座→日劇ミュージックホール→日劇→映画、というコースだった。
- 新宿フランス座(新宿ミュージックホール)、池袋フランス座、浅草ロック座、浅草東洋劇場も同じ東洋興業系列。新宿フランス座の脚本を深井俊彦が書いていた。
- 初期のフランス座では武満徹がピアノを弾いていたいう話がある[1]。
- 東洋興業は日本ストリップ劇場興行組合を設立し、廃業時まで温泉場劇場・街場劇場を束ね、全劇場・全踊り子必携の「劇場手帳」を毎年発刊していた。
- 1971年頃の「六区興行街には、フランス座、カジノ座、ロック座、浅草座の計四館がひしめき合っていた[7]。」