本田富朗

提供:SMpedia
丸茂ジュン女王の時代S&Mスナイパー1989年1月号より
エピキュリアン1992年(平成4年)10月No.5での『隷女絶叫』(ファミーホームソフト)の紹介記事
黒鬼調教録・淫モラルエクスタシー6』(ファミーホームソフト, 1997?)のパッケージ写真
レモンノート1997年(平成9年)5月増刊号『黒鬼調教シリーズ 緊縛隷嬢飼育』(英和出版社)より


ほんだ とみおくろおに、1940??年(昭和??年)-1999年(平成11年)8月8月。1970年代以降、Roo夢中野クィーンマイウェイなどの名店をプロデュース。90年代にはマリンブルーファミーホームソフトを設立。黒鬼軍団の名でSMビデオを多数製作。

概要

緊縛師。仕掛人。Roo夢中野クィーンマイウェイファミーホームソフトのオーナーとして1980年代から1990年代の終わりまで活動。

別名

黒鬼日風倹、黒鬼尊師、本田富朗、お父さん。

略歴

1940年前後の生まれではないかと思われる。

1971年(昭和46年)頃[注 1]本田富朗によって新宿にRoo夢がオープン[1]

1980年(昭和55年)、女王様SMクラブとして本田富朗により設立。関和子が初代女店主[2]

1980年(昭和55年)頃、本田富朗中野クィーンオープンに伴いRoo夢の権利を初代クインローズに譲渡。

1980年前半に桜田伝次郎GSG企画による『SMボンバー』が定期開催されていた大塚の「マイウェイ」のオーナーでもある[3][注 2]

1980年前後に目黒に日本風俗研究会を設立。会長。

1990年(平成2年)頃、マリンブルーから日風倹名でSMビデオを製作。

1990年代、ファミーホームソフトを設立。黒鬼レーベルビデオを出していた。

1999年(平成11年)8月8月、心筋梗塞で永眠。

エピソード

  • 中野クィーンのオーナーで、スタジオを長田英吉明智伝鬼に貸していた。
  • 長田英吉は「昔、オサダ・ゼミの公演の際に陰で滑車のロープをひいてくれたりしてた」「ゼミの会合にも来てくださり、一緒にSMしてた仲。ゼミの会合では会場をお借りしてた。」と述懐している[4]
  • 遅くとも92年頃にはビデオで電マ責めを取り入れている。

代表作

  • 1991年(平成3年)2月、『緊縛美囚2(第1巻第6号)』が発行:パワー企画出版株式会社(新宿区馬場下町61番山口ビル1F、発行:スピリッツ映像出版社:新宿区早稲田町74番地田久保ビル)から出ている。ビデオのスチルのよう。「黒鬼グループ特撮部」「黒鬼特別資料室」「アダルト21」などが記載。写真は高橋景一。表紙に「世田介一の緊縛術入門」とあるが、該当記事はなし。「嗜趣愉悦」などが内扉に書いてあり世田介一が関わっている様子。平成1・2年度分の133冊の写真集の広告が出ている。
  • 1992年(平成4年)から「企画制作:アブ」「受審・販売:ファミーホームソフト」で黒鬼調教録回顧録等の多数のビデオを制作。
  • ファミーホームソフトの作品でしばしば登場する監督、日風倹(けん)は、「ファミーホームソフトは東京 ・中野に拠点を置くSMビデオメーカー で、監督が経営する同所のSMクラブの調教ドキュメントなどを商品化して発売」[5]から本田富朗の変名を考えられる。

雑誌

ビデオ

  • SM調教 淫化華II』(マリンブルー, 1990.2.21)(監督:日風倹、出演:高木なぎさ
  • 「女教師鞭の洗礼」
  • 「みかほ「口責め洗礼」編」
  • 「女子大生明美」
  • 「のり子とさち子」
  • 「インターン由紀」
  • 「女子大生歓喜絶叫」
  • 「おもちゃ隷女二匹」
  • 「セールスレディ恵里」
  • 「OL絶叫」
  • 「巨乳千鶴の涙感調教」
  • 「OL奴隷達夏の夜の狂態」
  • 「隷奴2匹悲哀女子校生」

引用文献

  1. マゾヒズムに花束を!:拝啓クィンローズ様
  2. 北原童夢SMクラブの考現学S&Mスナイパー1989年(平成元年)3月号
  3. 桜田伝次郎『ライブショーのM女たち』SMマニア1996年(平成8年)2月号〜7月号。
  4. 長田一美長田英吉はNOW」(1999.8.21)
  5. 藤木TDCアダルトビデオ最尖端~身体と性欲の革命史~』(コアマガジン, 2011)

注釈

  1. S&Mスナイパー1996年(平成8年)]11月号の宣伝に「熱烈な支持を得て25年」とあるのから逆算。ただし、1999年(平成11年)のS&Mスナイパーの宣伝でもやはり「25年」となっている。
  2. ジーナが在籍。

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