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*[[伊藤晴雨]]『'''僕の思い出噺'''』[[人間探求]]1952年(昭和27年)21号〜26号<ref group="注">『'''ドキュメント日本人6 アウトロウ'''』(學藝書林, 1968)に再録。</ref>
*[[伊藤晴雨]]『'''僕の思い出噺'''』[[人間探求]]1952年(昭和27年)21号〜26号<ref group="注">『'''ドキュメント日本人6 アウトロウ'''』(學藝書林, 1968)に再録。</ref>
*[[伊藤晴雨]]『'''芳年の秘画'''』[[あまとりあ]]1952年(昭和27年)第2巻5号
*[[伊藤晴雨]]『'''芳年の秘画'''』[[あまとりあ]]1952年(昭和27年)第2巻5号
*[[伊藤晴雨]]『'''女の責場を描く時の心境'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195301/02/139.html p145]
*[[伊藤晴雨]]『'''女の責場を描く時の心境'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195301/139.html p146]
*[[伊藤晴雨]]『'''黒井珍平氏に答う'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)2月号
*[[伊藤晴雨]]『'''黒井珍平氏に答う'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)2月号
*[[伊藤晴雨]]『'''天下一品の責め絵々巻'''』[[讀切ロマンス]]1953年(昭和28年)2月号, [http://nawa-art.com/etc/romance/195302/03/203.html p207]
*[[伊藤晴雨]]『'''天下一品の責め絵々巻'''』[[讀切ロマンス]]1953年(昭和28年)2月号, [http://nawa-art.com/etc/romance/195302/03/203.html p207]

2012年11月24日 (土) 21:35時点における版

伊藤晴雨 (1882-1961)

いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日

概要

昭和SMの開祖。明治15年に生まれ、幼い頃から芝居や物語の責め場に強い関心をもち、恋人や妻をモデルに緊縛写真や責め絵などの作品を制作。明治後期に新聞社の挿絵画家としてスタートするが、むしろ演劇評論で頭角を現し、読売新聞社の演芸部長兼挿絵主任にまで昇進する。大正時代に入り、佐々木カネヨ(お葉)や佐原キセといった緊縛に理解のある女性と巡り会い、責め絵、責め写真を追究する。大正末期にはおりからのエログロブームに取り上げられ、「変態画家」として世間の注目を集める。1928年(昭和3年)にはわが国初の緊縛写真を掲載した『責の研究』を発刊するが発禁。戦前、粹古堂書店より『美人乱舞』などの多くの作品集を出し、アーティストとしての全盛期を迎えるが、第二次世界大戦で中断を余儀なくされる。戦後もカストリ雑誌に続き、人間探求奇譚クラブ風俗草紙などに精力的に執筆。また、写真撮影会などを頻繁に開催していたようで、そこで撮影された「晴雨風」の緊縛写真を風俗草紙風俗奇譚裏窓などで見ることができる。大正時代には既に責めを中心とした劇団を設立しており、戦後1953年(昭和28年)にも「責めの劇団」を結成、市川鈴本などで公演をしている。昭和SM文化の精神的支柱とも言える存在で、高橋鐵須磨利之も一目をおいていた特別の存在である。舞台芸術家、演劇評論家など、「責め絵画家」「緊縛師」としては括れないケールの大きな仕事をしており、時代考証家としての著作『いろは引・江戸と東京 風俗野史』も名著の誉れ高い作品である。

別名

Seiu Ito, 伊藤一(本名)、伊藤進吉(本名)[1]、伊藤静雨[2]、伊藤赳[3]、性迂生(画号)[4]

略歴

1882年(明治15年)3月3日、東京市浅草区金竜山下瓦町384に彫金師であった伊藤錠太郎の長男として生まれる。父親の名を伊藤貞次郎、母親をトラとする文献もある[2]

1886年(明治19年)頃[注 1]、弟である伊藤櫟堂が生まれる。

1887年(明治20年)頃、増上寺の大僧正[注 2]の前で龍の絵を描き、その才能と読経に感心した大僧正が、父親に是非僧侶にするように申し出を受けるが、父は断る[1]

1888年(明治21年)、7才(数え)で母親から中将姫の雪責めの物語を聞かされる[5]

1879年(明治22年)頃、琳派野沢堤雨に絵を習い始める[注 3][6]

1891年(明治24年)6月10日、母に連れられて(両親という記載も)初めて本所寿座に芝居を見に行く。30分ほど続く『吉田御殿、招く振袖』の責め場竹尾の責め場が強く印象に残る[1][7]

1896年(明治27年)9月8日、伊藤晴雨が浅草・浅草座川上音二郎の「日清戦争」を観劇[8]

1894年(明治27年)9月14日、本所区相生町の象牙彫刻師、内藤静宗のもとへ丁稚奉公[2][1][9]。名前を伊藤進吉に変える[1]

1895年(明治28年)頃、内藤静宗宅で購読していた東京朝日新聞の年英の挿絵を模写しながら絵を独学[1][10]

1895年(明治28年)頃、責め絵などを集め出す[7]

1895年(明治28年)、半年の年期を残して実家に戻る。開盛座の絵看板を描き始める。同時に日本橋の貿易商大膳に下絵描きとして勤めるが同年に退職[2]

1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での壮士芝居「日清戦争・夜討之仇譚」の看護婦の拷問シーンを観て感銘をうける[11][注 4]

1897年(明治30年)6月、母親が42才で永眠[1]

1897年(明治30年)8月10日、内藤静宗宅から家出し、ほぼ無一文で京都に。四条烏丸の万栄亭という割烹店の丁稚を皮切りに印刷職工などをするが、病気になり帰京[1]

1899年(明治32年)、浅草常磐座での水野好美一座「悪魔払い」の中の責め場に心を奪われる[9]

1906年(明治39年)頃、懇意になった鳥越警察の巡査が明治座の市川左團次の公演に連れて行ってくれたり、柳盛座の楽屋に連れて行ってくれる[12]

1906年(明治39年)頃、開盛座座長格の宮古紫郎の世話で伊藤晴雨開盛座の絵看板(「戦後の日本」)を描く[12]

1906年(明治39年)頃、女役者板東勝代に恋をしてしばらく向島須崎町で同棲[12]

1906年(明治39年)頃、日本橋横山町の輸出貿易商『大膳』で金属器のデザインをしていたがすぐにクビになり、板東勝代との生活も半年で終わる[12]

1906年(明治39年)頃、帝國新聞用達社で働く[12]

1907年(明治40年)9月24日、日本橋蠣殻町「毎夕新聞社」に記者兼挿絵画家で入社[2]。紹介してくれたのは下谷署の刑事[1]。有川秋萍「妖魔島」の挿絵を担当[9]。同時に演劇評論の記事も担当し好評を得る。この頃は「伊藤静雨」と名乗っていた[1]。伊原青々園主宰の「歌舞伎」に劇評を連載[2]

1909年(明治42年)、京橋三十間の「やまと新聞社」に挿絵主任として入社。「毎夕新聞」の劇評も担当。続いて「東京毎日新聞社」「読売新聞社」に入社[2]

1909年(明治42年)暮、新派の背景画家であった玉置照信の妻の妹であった竹尾(竹夫?[13])と見合いし結婚[9][注 5][2]。下谷二長目で新婚生活[1]。別説では「伊藤晴雨が通っていたKという新聞記者の女中だった。」とある[13]。この頃生活基盤が安定し(やまと新聞の挿画主任、読売新聞の演芸部長兼挿絵主任、毎夕新聞の挿画主任、博文館の「演芸画報」「演芸倶楽部」の嘱託。真砂座の絵画部主任などを兼任)。月収数百円のほとんどは遊びに費やしていた[1]

1912年(大正元年)、「演芸画報」に挿絵を描く[2]

1916年(大正5年)、モデルだった佐々木カネヨ(お葉)と愛人関係になる。佐々木カネヨをモデルに責め絵を描く。

1916年(大正5年)頃、大橋月皎を知る[13]

1916年(大正5年)頃、神田の踊りの師匠だった花村美代子を妾にする[1]

1916年(大正5年)頃、大谷竹治郎に乞われ、歌舞伎座新富座明治座の看板、辻番付、舞台装置などを担当[1]

1917年(大正6年)頃、新国劇の澤田正二郎と知り合う[1]

1918年(大正7年)、名を「静雨」から「晴雨」に変える[2]

1918年(大正7年)頃、佐々木カネヨは竹久夢二のもとに。

1919年(大正8年)、向島の百花園で「怪談会」が催され、泉鏡花、平山芦江、三宅孤軒、久保田万太郎、錦城斎典山、伊井容峰、花柳章太郎と共に名を連ね、怪談を一席披露している[14]

1919年(大正8年)夏、竹尾と離婚。2番目の妻、佐原キセと結婚[7][2]

1919年(大正8年)12月、佐原キセをモデルに自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀[7][注 6]

伊藤晴雨臨月の夫人の逆さ吊り写真變態資料 1926年(大正15年)12月25日号より

1920年(大正9年)秋、佐原キセをモデルに最初の吊りの試み[注 7]。しばらくして佐原キセの妹[注 8]を画室で吊して撮影[注 9][15]

1921年(大正10年)6月、妊娠していた佐原キセをモデルに『臨月の夫人の逆さ吊り写真』を撮影[15]

1921年(大正10年)、鈴木泉三郎伊藤晴雨をモデルとした『火あぶり』を早稲田大学紀要(要確認)に発表[16]

1923年(大正12年)2月10日、カメラマン鈴木雷水と下高井戸の坂本牙城[注 10]の借りていた農家付近で雪責めの撮影[7]

1923年(大正12年)、関東大震災。伊藤宅は焼け残る[7]。この時、友人の富塚謙蔵に『臨月の夫人の逆さ吊り写真』を貸したが、後に變態資料に流出。

1924年(大正13年)、サンデー毎日6月1日号に佐原キセとの責め写真が紹介され、変態のレッテルを貼られる[7]

1924年(大正13年)、澤田正二郎の口添えで新国劇の看板、舞台装置を描く[2]

1925年(大正14年)夏、澤田正二郎一座の北海道巡業に参加。佐原キセと離婚[2]

1925年(大正14年)夏、責め専門の劇団を設立[注 11][17]

1926年(大正15年)、梅原北明變態資料12月25日号に佐原キセをモデルにした『臨月の夫人の逆さ吊り写真』が無断掲載[注 12]月岡芳年の「臨月の女性の逆さ吊り[注 13]」と共に。

1926年(大正15年)、モデルだったとし子を3人目の妻にする[13][2]澤田正二郎一座の北海道巡業の時に青森で知り合った模様[18]

1926年(大正15年)3月、警視庁に留置された後、巣鴨刑務所に4月9日まで収監[5]

1926年(昭和元年)頃、版画を研究したいからと伊藤晴雨乞われて佐藤倫一郎が居候[13]

1927年(昭和2年)2月、浅草伝法院近くのとんかつと酒の店での会で高橋鐵と出会う[4]

1927年(昭和2年)12月、『いろは引・江戸と東京 風俗野史 第一巻』を弘文館より刊行。

1928年(昭和3年)、日本最初の緊縛写真集『責の研究』を発刊。発禁。

1929年(昭和4年)、澤田正二郎の没後、新国劇を退き曾我迺家五郎一座の顧問となる[19]

1930年(昭和5年)3月、『論語通解』が警察に没収。

1930年(昭和5年)、この頃、講談雑誌への寄稿や編集をおこなっている。

1931年(昭和6年)夏、伊藤竹酔と出会う。

1932年(昭和7年)7月、粹古堂書店より『美人乱舞』『川柳珍画集』発刊。

1932年(昭和7年)、『いろは引・江戸と東京風俗野史 第六巻』を城北書院より刊行し完結。

1932年(昭和7年)9月28日、大阪歌舞伎座のこけら落としに出席。この頃から三人目の妻とし子が精神を病む[5]

1933年(昭和8年)、2度目の劇団設立[注 14][17]

1935年(昭和10年)頃、三人目の妻とし子が死去[5]

1937年(昭和12年)頃、3度目の劇団設立[注 15][17]

大戦中、市川に疎開。東京宅は娘の菊が守る[18]

1945年(昭和20年)、東京大空襲で家財一切を焼失[注 16]

1947年(昭和22年)5月、猟奇第4号に『虐げられたる日本婦人』。

1951年(昭和26年)暮、百万弗劇場伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』を上演し大ヒット[20][21][注 17]

1951年(昭和26年)、4月より1954年(昭和29年)1月までの喜多玲子との書簡交換が記録に残っている[22]

1951年(昭和26年)、『人間探求』にエッセイ等をしばしば寄稿。

1951年(昭和26年)4月21日、『あまとりあ』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「あまとりあ祭」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には高橋鐵伊藤晴雨中田雅久、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が[23]

1951年(昭和26年)12月、『あまとりあ』に綴じ込み付録となった伊藤晴雨の「女賊捕物帖」が問題となり、摘発[23]

1952年(昭和27年)、『人間探求』に自叙伝『僕の思い出噺』を連載。

1952年(昭和27年)1月15日、自叙伝『責のこれくしょん』を私家版で発行。

1953年(昭和28年)1月、『奇譚クラブ』1月号に短文を寄稿し、その中で喜多玲子への想いを語っている[10]

1953年(昭和28年)、4度目の劇団「責めの劇団」を結成。中村座を活動拠点とする[17]

1953年(昭和28年)6月4日、「責めの劇団」の第1回公演を市川鈴本でおこなう[注 18][17]

1953年(昭和28年)7月11日、「責めの劇団」の第2回公演を中村座でおこなう[注 19][24][注 20][17]

1953年(昭和28年)、上田青柿郎編集の讀切ロマンスの臨時増刊『悦虐恍惚図』が監修:伊藤晴雨で発刊。

1954年(昭和29年)、須磨利之と実際に会う[注 21][25][26]

1954年(昭和29年)1月28日、NHKが責めの研究についてインタビューに来る。29日の午後9時にNHK第一放送で流れる[27]

1955年(昭和30年)、写真家の川口博が動坂[注 22]の伊藤宅を訪れ、交友が始まる[7]

1956年(昭和31年)頃、この頃から辻村隆と交流がある[28]

1960年(昭和35年)、挿絵画家としての功績に対し『出版美術連盟賞』を受賞[注 23][29]

1961年(昭和36年)1月26日、高橋鐵がインタビューした記事が内外タイムスに掲載[4]

1961年(昭和36年)1月27日、永眠(28日との記載もある[2])。葬儀には高橋鐵須磨利之上田青柿郎中田雅久などが参列[25]。墓は上野寛永寺。戒名は瑞光院梅岳晴雨居士。

1966年(昭和41年)、団鬼六脚本の『猟奇の果て』[注 24]伊藤晴雨をモデルとしている[30]

1968年(昭和43年)、奇譚クラブ12月号、および翌1月号の2回に分けて団鬼六『私本 伊藤晴雨物語』。

1969年(昭和44年)、東映で団鬼六を中心として、伊藤晴雨の伝記映画の製作の話がかなり進んでいたようだが[注 25]、最終的には実現しなかった。

1977年(昭和52年)、『発禁本「美人乱舞」より 責める!』(製作:日活、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、出演:宮下順子)

1978年(昭和53年)、自由劇場にて、玉井敬友の『奇伝・伊藤晴雨』。

1996年(平成8年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』(朝日ソノラマ)。

2002年(平成14年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。

エピソード

  • 竹尾との間に長男正秋(正明とも。戦死)、長女(「菊子」とする文献もあり)[13]
  • 叔父は岡本北俊で、葛飾北斎に師事しており、伊藤晴雨は間接的に葛飾北斎の画法を学んだ[31]
  • 4才違いの弟は彫刻家の伊藤櫟堂
  • 幼少の頃、隣のもぐりの舞踊の師匠の上に出入りし、踊りを覚えた[1]
  • 女性の黒髪に対する強い性的興味を示した。
  • 髪形の中で「島田」は好きだが「丸髷」「銀杏返し」は大嫌い[1]
  • 「毎夕新聞社」入社時、社内では挿絵の評判はいまいちだったが、演劇評論は玄人の仕事と高い評価[1]
  • 高橋鐵伊藤晴雨を「お江戸の熊楠」と呼んだ[32]
  • あだ名は「ビクテン」。興が乗ってくると額の青筋がビクビクと動いた[7]。生粋の江戸っ子で義理人情に厚かった[7]
  • 弟子に佐藤倫一郎
  • 「万朝報」時代の新聞記者仲間が中村金六[7]。・
  • 女優栗島すみ子(水木流家元の水木歌江)を縛ったことがある[7]
  • 『演芸画報』に舞台スケッチと共にエッセイ、レポートを掲載していた[33]
  • 喜多玲子こと須磨利之と3年にわたり書簡を交換していた[32]
  • 濡木痴夢男は『いろは引・江戸と東京 風俗野史』を愛読し、ここから題材を得て、浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』を書いた[33]
  • 上田青柿郎は伊藤の流れをくむ緊縛師。
  • 月岡芳年の『奥州安達が原ひとつ家の図』を参考に妻を吊して写真にする。
  • 辻村隆奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」で「私が伊藤老と交渉があったのは、ほんの晩年数年」「老はかなり衰弱しておられ」とある。また、東映の団鬼六脚本による伊藤晴雨の映画化がどうも延期されそうだとも書いている。
  • 1955年(昭和30年)頃の映画制作では、責めシーンに伊藤晴雨提供の資料が使われていたようだ[34]
  • 日本特集出版社の代理部が、1950年代に、伊藤晴雨の一連の著作を通信販売していたようだ。
  • 伊豆にある了仙寺宝物館には「伊藤晴雨コレクション」が展示してある。

交友関係

代表作

書籍

雑誌

晴雨を扱った書籍

晴雨を扱った雑誌

晴雨を扱った映画

  • 猟奇の果て』 (ヤマベプロ, 1966.2)(製作:山邊信雄。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
  • 発禁本「美人乱舞」より 責める!』 (日活, 1977)((製作:結城良煕、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、脚本:いどあきお、出演:宮下順子)
  • およう』 (松竹, 2002)(製作:横畠邦彦、監督:関本郁夫、脚本:団鬼六『外道の群れ』、出演:熊川哲也 渋谷亜希 竹中直人 里見浩太朗 三田和代)

晴雨を扱った演劇・ショー

  • 奇伝・伊藤晴雨玉井敬友のシアタースキャンダル。1978年(昭和53年) 於 自由劇場。
  • 晴雨ふたたび千葉曳三の耽美会でのショー。1994年(平成6年)。
  • 奇伝・伊藤晴雨玉井敬友のシアタースキャンダル。1998年(平成10年)4月 於 下北沢「劇」小劇場。(製作:玉井敬友 森島朋美、出演:玉井敬友 小川美那子 森島朋美 岩瀬ヒロコ 灰原明彦 棟方巴里爾 明石晃 丸野恵 大野一夫 野呂英里香 永井大介 関戸理恵 高宗謙三 沢口ともみ)
  • お葉といふ女~晴雨と夢二「晴雨編」外波山文明の椿組(はみだし劇場)。1998年12月 於 下北沢 OFF・OFFシアター。(原作:団鬼六「下道の群れ」)緊縛指導;長池士、出演;筒井真理子、たこ八郎)。
  • 晴雨追憶千葉曳三ロフトプラスワンにての公演。1999年(平成11年)7月8日。
  • 「晴雨伝説」~お葉縄炎~千葉曳三ロフトプラスワンにての公演。2004年(平成16年)6月6日。

参考資料

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 幻の責め絵師 伊藤晴雨』芸術新潮 1995年(平成7年)4月号, 新潮社
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 宮尾與男『伊藤晴雨略年譜』in 「江戸と東京 風俗野史」(図書刊行会, 2001)
  3. 斎藤夜居伝奇伊藤晴雨』(豊島書房, 1966)
  4. 4.0 4.1 4.2 高橋鐵後序・晴雨讃』in 有光書房版『江戸と東京 風俗野史』(有光書房, 1971)
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 伊藤晴雨責のこれくしょん』(私家版, 1952.1.15)
  6. 伊藤晴雨僕の思い出噺人間探求1952年(昭和27年)21号〜26号
  7. 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 川口博『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』(新潮社, 1996)
  8. 8.0 8.1 伊藤晴雨其の頃を語る(一) 責め場の舞台装置法奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 団鬼六外道の群れ―責め絵師伊藤晴雨をめぐる官能絵巻』(1996, 朝日ソノラマ)
  10. 10.0 10.1 伊藤晴雨女の責場を描く時の心境奇譚クラブ1953年(昭和28年)1月号, p145
  11. 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)
  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 福富太郎・編伊藤晴雨 自画自伝(新潮社, 1996)
  13. 13.0 13.1 13.2 13.3 13.4 13.5 晴雨画伯を偲んで裏窓1961年(昭和36年)4月号, p176-183.
  14. 斎藤夜居伝奇伊藤晴雨』(豊島書房, 1966)
  15. 15.0 15.1 伊藤晴雨吊り責めさまざま風俗草紙1954年(昭和29年)1月号, p113
  16. 伊藤晴雨其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) 奇譚クラブ1953年(昭和28年)11月号, p82
  17. 17.0 17.1 17.2 17.3 17.4 17.5 伊藤晴雨其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法奇譚クラブ1953年(昭和28年)10月号, p169
  18. 18.0 18.1 最後の絵業師・伊藤晴雨』芸術生活 1971年(昭和46年)3月号(座談会:石子順造+古今亭今輔+宮尾しげお+R・佐藤)
  19. 伊藤晴雨文京区繪物語』(文京タイムス, 1952)
  20. 奈佳伸夫『近頃艶笑見世物談議ロマンス生活1952年(昭和27年)4月号, p28
  21. 本田由郎「責め」の芝居雑考奇譚クラブ1956年(昭和31年)7月号, p68
  22. 『伊藤晴雨書簡』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
  23. 23.0 23.1 中田雅久あまとりあ回顧録』in 藤本義一編『あまとりあ傑作選』(東京スポーツ新聞社, 1977)
  24. KK通信1953年(昭和28年)第13号
  25. 25.0 25.1 美濃村晃『巨星落ちたり-妖美画家 伊藤晴雨伝』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
  26. 秋田昌美濡木痴夢男不二秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)
  27. 伊藤晴雨責繪は藝術品なり奇譚クラブ1954年(昭和29年)4月号, p178
  28. 奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」
  29. 福富太郎私の伊藤晴雨探求』in 『幻の責め絵師 伊藤晴雨』芸術新潮 1995年(平成7年)4月号, 新潮社
  30. 奇譚クラブ1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 SとMは花ざかり』
  31. 伊藤晴雨責め場の今昔奇譚クラブ1956年(昭和31年)10月号, p88
  32. 32.0 32.1 小田光雄古本夜話3 SM雑誌の原点としての伊藤晴雨より。
  33. 33.0 33.1 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
  34. 奇譚クラブ1955年(昭和30年)2月号, p272

注釈

  1. 4才違いであることから逆算。
  2. 後に京都の知恩院の大僧正となる。
  3. 彫刻師には絵が必要という父親の考えで。小学校の帰りに習いに行った。
  4. 男優が女装で演じていた。
  5. 包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。この年包茎手術。
  6. この作品の一部は後に斎藤昌三の『』で発表される。
  7. 写真師を呼んで撮影したとる。いろいろ課題を残した失敗作。
  8. 当時17才。東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた。後の清元櫻比呂。
  9. こちらは胸を圧迫しないように細工をしたために形としては成功したが、晴雨は満足していなかった模様。井川洗崖の吊るし責めの絵はこの写真を模写したものだろうと書いている。
  10. 当時、伊藤晴雨宅に居候していたようだ。
  11. 入場料10の「10銭芝居」と言われた劇団に属する。「大失敗に終わる」とある。
  12. 1923年(大正12年)、関東大震災の際して、友人の富塚謙蔵に貸した写真が流出。
  13. 「奥州安達が原ひとつ家の図」と思われる。
  14. 「自ら脚本も書き背景も描き衣装小道具の製作と買い入れもすれば鬘屋の交渉にも飛び廻り、絵看板も描けば興行先の交渉もやる」「数千円の欠損をした」
  15. 「日支事変突発当時、ある美しい女形を発見したので、之を座長にして半年斗り小劇団を作って、東京市内の寄席を打ち廻って、毎晩責め場の芝居ばかりを」
  16. 伊藤晴雨責められる女の表情風俗草紙1953年(昭和28年)8月号, p84によると「疎開先の千葉市の川村剛一郎」が空襲で焼けたとある。
  17. 百万弗劇場での公演の様子がロマンス生活1952年(昭和27年)4月号、p28で紹介されている。
  18. 濡木痴夢男はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は鈴木泉三郎脚本の『火あぶり』(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある。ただし、伊藤晴雨の記録では「三〇余名の会員を前にして「雪責めの女」を上演」とある。
  19. 演目は「番町皿屋敷青山鉄山館の場」と林家正蔵の人情咄」。「江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場」とある。入場料300円。
  20. おそらくその後、「番町皿屋敷青山鉄山邸に上場し会員組織を以て興行した」とある。
  21. 当初、伊藤晴雨喜多玲子を本物の女性画家だと信じていた模様。また、最後まで須磨利之喜多玲子の主人と思っていた「ふり」をしていたという説もある。
  22. 「都立駒込病院の正門前路地の突き当たり」なので、現在の文京区千駄木5丁目あたりか?
  23. 伊藤晴雨は出版美術連盟の会員ではなかったが、長年の功績に対して、出版美術連盟が1回限りの連盟賞を創設して授与した。
  24. (1996.2)(製作:ヤマベプロ。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
  25. 例えば奇譚クラブ1968年(昭和43年)11月号の編集部だよりなどに書かれている。
  26. 26.0 26.1 猟奇 1947年(昭和22年)5月号表紙裏面に広告。
  27. ドキュメント日本人6 アウトロウ』(學藝書林, 1968)に再録。
  28. 責め絵、責め写真に加え、伊藤晴雨 『責め絵の研究』『吊り責めさまざま』、野村佳秀『責め絵の道一すじに生きた鬼才』、古今亭今輔らの座談会を含む。

つながり

高橋鐵 須磨利之 川口博 上田青柿郎 濡木痴夢男 夜久勉

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