梅原北明
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うめはら ほくめい、1899年(明治32年)1月15日-1946年(昭和21年)4月5日。昭和初期のエログロナンセンス文化の仕掛人。
概要
別名
english、梅原貞康、烏山朝太郎、吾妻大陸
略歴
1946年(昭和21年)4月5日、発疹チブスで永眠。
エピソード
- 1938年(昭和13年)2月号~11月号にかけて『新青年』へ連載された「特急「亜細亜」」は吉川英治の作品となっているが、実作者は梅原北明らしく、『えろちか』昭和48年新年特大号「梅原北明特集号」所収の「年譜」には梅原北明の作品として紹介されている[1]。
- 陸軍将官の名刺を偽造行使した事が発覚して憲兵に追われた為、昭和13年から昭和15年にかけて家族を残したまま地下に潜る。その頃、吾妻大陸の別名を使用しており、この名前が雑誌に載っている限り、自分は安全だと家族に筆名を利用して通信を送っていた[2]。
- 「こうして1925年七月、『文芸春秋』から飛び出した今東光は『文党』という同人雑誌を始めるが、同人に金子洋文、間宮茂輔、サトウ・ハチロー、水守亀之助、村山知義らがいるが、梅原北明もこの時、同人として参加し、彼のプランで発会を兼ねた街頭宣伝を行なった。同人の村山知義、吉頓二郎の二人に看板を描かせ、同人一行がその看板を胸と背にかけ、メガホンを目にあて桃太郎のメロデーで文党歌を歌いながら一大行列を行なったのだ。」「『文党』一派には村山知義をはじめとして、ダダイスト、アナーキストが、さよう″黒き犯人たち″が加わっていた」と『昭和文学盛衰史』の中で書いているが、表だってはダダイストでもなくアナーキーストでもなく、ましてコンミュニストでもない北明が演出者であったことまでは知らなかったようだ。ともあれ、この珍妙な行列は早速、新聞種となって、当世風にいうならば『文党』のパプリシティとなり、今東光を喜ばせた。」「「デカメロン』で当てた北明には雑誌を出す資金的余裕があった。同人には『文党』から今東光、村山知義、井東憲、金子洋文、佐々木孝丸らが加わり、当時の新鋭作家の顔ぶれをそろえることができた。」[3]
代表作
書籍
梅原北明研究本
- 久我庄一『人間、梅原北明伝 執筆後日談』奇譚クラブ1965年(昭和40年)9月号, p192
- 『特集:評伝―伊藤晴雨/高橋鐵/梅原北明/稲垣足穂』黒の手帖1971年(昭和46年)11月号, (檸檬社)
引用文献
注釈