其の頃を語る
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概要
内容
第1回
- 伊藤晴雨『其の頃を語る(一) 新派劇の責場』奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
- 新派は「女の縛られる場面を観客の吸引策として成長して来た」。
- 「新派という名称は明治三六年頃と記憶して居る」
- 壮士芝居の歴史を語っている。
- 昔の狂言作者(桜田治助)も「見物に受ける狂言を書こうと思えば人気のある美しい女形を桜の木の下に荒縄で縛って酷い責め方をすれば大抵の場合は大入」
- 新派が旧派を凌ぐ勢いで流行ったのも「女の責場を以て低級の観客に媚びたのが成功した」
- 最も女の責場が流行したのは明治三〇年以降三六・七年。
第2回
- 伊藤晴雨『其の頃を語る(二) 辻番附の話』奇譚クラブ1953年(昭和28年)7月号, p29
- 1897年(明治30年)頃には歌舞伎座、新富座、明治座は新聞広告を出せたが、その他の中小劇場は辻番付を理髪店、浴場、焼き芋屋などに、開場初日の2、3日前に掲示して宣伝[1]。
- 芝居の全場面を描き、ストーリーが分かるようになっている。また、役者の大きさは地位・人気により変わる[1]。
- 同じものを『通し』として観劇中に観客に配ったり、贔屓先に贈呈[1]。
- 大正末期から昭和初期に自然消滅[1]。
- 大阪の辻番付には役者の定紋が添えられている[1]。
- 丁稚小僧時代の伊藤晴雨は、街中に貼られている辻番付を剥がして責め場のコレクションとしていた[1]。
- 伊藤晴雨は「辻番付で見覚えた小劇場の女の責場「明烏夢泡雪」や「好色敷島譚」の責場を一幕見物して夜に入つて主家へ帰つて、叱られる事数十日に及んだが」と述べている[1]。
- 1904年(明治37年)-1905年(明治38年)の本郷座全盛時代には新派正劇といって「DORAMA」と洋文字を入れた辻番付が流行[1]。
- 伊藤晴雨は「伊井(蓉峰)、河合(武雄)、喜多村(緑郎)等の番附や絵看板を描く様様になった」[1]。