武野藤介
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たけの とうすけ、1899年(明治32年)[注 1]4月3日-1966年(昭和41年)。あまとりあなどに多く寄稿。風俗科斈の初期の監修者でもある。昭和39年には秘宝館の先駆けでもある『黄庵』を開設。
概要
『あまとりあ』や『かっぱ』、カストリ雑誌に作品を発表していた文筆家。風俗科斈の監修者としても名が残っている。
別名
武野真須太(本名)
略歴
1899年(明治32年)、岡山県の豪農の長男として誕生[2]。
1900年代、伊島小学校を卒業後岡山中学に進学。連続二回落第し、中学卒業に七年を費やす[1]。
1919年(大正8年)、上京して早稲田大学文学科に編入[1]。
1922年(大正11年)、早稲田大学中退[1]。毎日新聞にゴシップ記事などを書く[2]。
1946年(昭和21年)9月、リファイン社から出た『赤と黒』創刊号「耽奇尖端特集号」に高橋鐵らと寄稿。
1951年(昭和26年)4月21日、『あまとりあ』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「あまとりあ祭」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には高橋鐵、伊藤晴雨、中田雅久、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が[3]。
1954年(昭和39年)10月、斎藤昌三と武野藤介が神奈川県秦野市鶴巻に風俗博物館のような『黄庵』を開設[注 2][2]。
1958年(昭和33年)、高倉一が設立した新樹書房が創刊した『女の百科』に寄稿。
エピソード
- 「いつも眉目美しいご婦人を帯同して、出版社やレストランに出没」[2]。
代表作
- 武野藤介訳『アラビアンナイト』(春秋社, 1924)
- 武野藤介『誤診』(健文社, 1935)
- 武野藤介『小説あまとりあ』(あまとりあ社, 1951)
- 武野藤介『続小説あまとりあ』(あまとりあ社, 1953)
- 『風俗科斈』の監修。1953年(昭和28年)
- 武野藤介『情園』風俗科斈1953年(昭和28年)10月15日, p170(挿絵:月田考)
- 武野藤介『風流月旦 うわき随筆選』(あまとりあ社, 1955)(装幀:須磨利之、カット:秋保正三)
- 武野藤介『寝床の口ぐせ 後家篇』(あまとりあ社, 1958)(絵:美濃村晃)
- 武野藤介『狂い咲いた女 年増篇』(あまとりあ社, 1958)(絵:美濃村晃)
- 武野藤介『武野藤介風流随筆選』(あまとりあ社, 1959)