吉村彰一

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吉村彰一1982年(1952-2015)[1]
SMマニア1982年(昭和57年)8月号のスタジオ418(吉村彰一が1980年頃に設立)の広告。
SMファン1984年(昭和59年)4月号のシネマジック(吉村彰一が1983年に設立)の広告。
S&Mスナイパー1991年(平成3年)8月号の吉村彰一監督『ボディコンスレイブ』(大洋図書)の広告。

よしむら しょういち、1952年(昭和27年)?[注 1] - 2015年(平成27年)5月27日。サン出版出身。80年代初頭に「スタジオ418」「シネマジック」を設立しSMビデオを牽引。『不貞の季節』『およう』の一般映画も。


概要

編集者。AV監督。映画制作者。シネマジック代表。

別名

Syoichi Yoshimura横畠邦彦(本名)、マック横畠

略歴

1970年代、明治大学・映研出身[2]

1970年代、サン出版に入社。社員のまま、「バンビデオ」のカメラを回す。

1979年(昭和54年)、須磨利之が病気で倒れる。サン出版須磨利之の代わりに濡木痴夢男に仕事を依頼することが多くなり、濡木痴夢男との関係が深まる[3]

1980年(昭和55年)10月、考友社から「SMグラフティ」を創刊。

1981年頃、スタジオ418を設立[4]

1983年(昭和58年)、シネマジックを設立。

1990年代後半、胃がんで胃を全摘出[2]

2000年(平成12年)2月、横畠邦彦関本郁夫横畠邦彦の出資金5,000万円で団鬼六の『外道の群れ』の映画化に取り組み始める[2]

2002年(平成14年)、『外道の群れ』を原作とする『およう』が完成。製作費は2億5千万円に膨らんだ[2]

2015年(平成27年)5月27日、肺がんにて63才で永眠[5]

エピソード

永眠に際しての関係者のコメント

  • 磯田勉「RT < シネマジックの横畠邦彦社長、たしか胃癌で全摘出されていたかと。映画好きで、AVで得たお金で廣木隆一監督『不貞の季節』と関本郁夫監督『およう』を製作し、大きな赤字を抱えたほど。関本監督の著書『映画人烈伝』の新版には、一章を割いて横畠氏について書いている。」[8]
  • ダーティ工藤シネマジック製作の方は横畠氏が体調を崩してからは専務が全て取り仕切っていたので十数年会っていなかったが人づてに元気そうだという話を聞いていたので安心していた。俺が30過ぎで業界入りした約30年前からの付き合いなので思い出は尽きないが、同年代の人間が急逝するのはとてもツライ。合掌。」[9]
  • 奈加あきら「今日、奈加あきらの生みの親でもあり育ててくれた大先輩が亡くなった!本当に残念です!明日通夜!明後日葬儀!仕事をキャンセルして少しでも近くにいたいと思います。」[10]
  • 麻屋霞寿「ピンク映画のSMとAVのSMを決定的に差別化させ、今のAV業界を創りあげた巨匠が肺がんでなくなった。幽霊屋敷(ごみ屋敷ともいう)な師匠の家を案じ、師匠の商売道具(縄など)を保管し、黄橙色の蝋燭を作品愛用され、師匠に無償提供されていた。まさに巨星墜つ。合掌。」[11]
  • 水上学「馬券の腕は天才肌で、競馬場で突然いなくなったと思ったらベンチに眠りに行っていて、何時間かして起きてきたら突然「このレースは内枠固めて買っておけばいい」とかいいながら、1番から5番までの馬番の3連単を絨毯爆撃で買いまくり、トンデモナイ高配当を平気で取ったりしていた。打ち上げでは、昔の新宿文化の話から、エロ業界の話から、思わぬ競馬関係者とのエピソードやら、貴重な話をたくさん聞かせてもらった。私が競馬に足を突っ込んでいなければ、出会えなかった方であることは間違いない。」[12]
  • 東良美季「『これからどうするんだ?』と訊き、僕が『しばらくはフリーの編集でやっていこうと思いますと言うと、『じゃあこれ、好きに使え』とポジフィルムの入った袋を机にポンと放り投げた。そういうぶっきらぼうで、ちょっと粋な立ち振る舞いをする人だった。」[13]

代表作

引用文献

注釈

  1. 逝去時に63才であることから逆算

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