「濡木痴夢男」の版間の差分

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'''ぬれき ちむお'''、1930年(昭和5年)-
[[画像:Nureki2.jpg|350px|thumbnail|1995年(平成7年)頃の[[濡木痴夢男]]<ref group="注">埼玉の[[ミサトスタジオ]]での『'''振袖緊縛・誘拐された悠理'''』(緊美研ビデオ。[[春原悠理]]出演)の撮影現場。[[春原悠理]]さん提供。</ref>。[[不二秋夫]]撮影。]]
[[画像:Nureki.jpg|150px|thumbnail|[[濡木痴夢男]] (1930-2013)]]
[[画像:Nureki3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mコレクター]]1978年12月号の巻頭グラビア『繩の狩人』に出演する[[濡木痴夢男]]カメラの[[豊幹一郎]]は[[濡木痴夢男]]、[[枷井克哉]]、[[不二秋夫]]らが作った架空の名前。]]


==活動内容==
'''ぬれき ちむお'''、1930年(昭和5年)1月13日-2013年(平成25年)9月9日。昭和SM文化形成の中心人物。1950年代から2013年まで、編集者、緊縛師、文筆家として幅広い分野で精力的に活動。杉浦則夫とのコンビで昭和SMの完成されたスタイルを確立。緊縛技法の体系化にも貢献。
緊縛師、小説家、脚本家、編集者。
==概要==
緊縛師、文筆家、絵師、編集者。「緊縛の濡木」としてのイメージが強いが「濡木痴夢男」の名前が誕生したのは1973年(昭和48年)、濡木44歳と、比較的遅い時期である。「[[濡木痴夢男]]」誕生以前から既に藤見郁、飯田豊吉その他多くの変名で編集者、文筆家、絵師として、昭和SM文化の形成に重要な役割を果たしており、古い世代には藤見郁や飯田豊吉の名前の方が聞き慣れたものとなっている。その活動は1953年(昭和28年)の[[奇譚クラブ]]への読者投稿から始まるが、[[須磨利之]]に誘われ[[裏窓]]の編集(後に編集長)に携わるようになってから、50年代、60年代のSM文化の中心的存在となる。70年代に入ってからも数多くのSM雑誌、SMビデオの緊縛を担当し、濡木痴夢男の緊縛がその後の緊縛師に与えた影響は計り知れない。1970-1980年代の活動記録である『'''[[濡木痴夢男仕事メモ]]'''』は、当時のSM界の動向を知る貴重な資料となっている。また、緊縛に関する教材も数多く製作しており、それらは『'''[[濡木痴夢男緊縛教材]]'''』にまとめてある。80歳を過ぎてもなお、執筆、映像製作、古典芸能の伝承になみなみならぬ情熱を燃やし、昭和SM文化の「活動する」伝説であった。2013年(平成25年)9月9日永眠。


==別名==
==別名==
[[Chimuo Nureki]], 飯田豊一(本名)、青山三枝吉(奇譚クラブ、風俗奇譚)、藤木仙治(奇譚クラブに映画スチールを提供、サスペンスマガジン)、藤見郁(奇譚クラブ、風俗奇譚、SM奇譚、裏窓、SMセレクト他)、飯田豊吉(裏窓に官能サスペンス)、赤木恵介、市川国彦、影村一鬼、白鳥大蔵、塔婆十郎、藤木仙冶、真木不二夫(奇譚クラブの「黄色オラミ誕生」で有名)、目黒天平、矢桐重八(奇譚クラブにエッセイ)、豊田一狼、北園透一郎、松平荘司、南村蘭、ホーハンター、稲田乾二、若杉薫、早蕨亮太、曲二十八
===主なもの===
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Chimuo_Nureki Chimuo Nureki], [[飯田豊一]](本名)、[[藤見郁]]([[奇譚クラブ]]、[[風俗奇譚]]、[[SM奇譚]]、[[裏窓]]、[[SMセレクト]]他)、[[飯田豊吉]]([[裏窓]]、[[耽奇小説]]に官能サスペンス)、フーさん(藤見郁の愛称)、[[青山三枝吉]]([[奇譚クラブ]]、[[風俗奇譚]])、[[藤木仙治]]([[奇譚クラブ]]に文、絵、映画スチールを提供、サスペンスマガジン)、[[豊幹一郎]]、[[稲田乾二]]<ref group="注" name="toyo">[[豊幹一郎]]、[[稲田乾二]]は緊縛が[[濡木痴夢男]]、カメラが[[枷井克哉]]、カメラアシスタントが[[不二秋夫]]の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが[[緊美研]]の母体(日本緊縛写真史より)。</ref>
===その他:あ〜さ行===
[[赤木恵介]]、
[[飯田豊田郎]]、
[[市川国彦]]、
[[奥村圭]]([[サスペンス&ミステリーマガジン]])、
[[影村一鬼]]([[SMコレクター]])、
[[北園透一郎]]([[裏窓]]、[[檸檬社]])、
[[笹木恵一]]([[風俗奇譚]])、
[[島木恵子]]([[風俗奇譚]])、
[[白鳥大蔵]]、
[[菅原峰夫]]、
[[豊田一狼]]、
 
===その他:た〜は行===
[[田端六六]]、
[[塔婆十郎]]([[奇譚クラブ]])、
[[富永うたこ]]、
[[野呂圭太]]、
[[羽島七郎]]、
[[早蕨亮太]]、
[[弘岡三千代]]、
[[藤村豊三]]<ref group="注" name="藤村豊三">[[SMグラフティ]]にカメラ:[[枷井克也]]、繩師:[[藤村豊三]]の組合せで名前が出ている。おそらく、[[枷井克哉]]と[[濡木痴夢男]]の変名であろう。</ref>、
[[ホーハンター]]、
 
===その他:ま〜わ行===
曲二十八、
[[真木不二夫]](奇譚クラブの「黄色オラミ誕生」で有名)、
[[松平荘司]]([[裏窓]]、[[S&Mコレクター]])、
[[三輪喜久夫]]([[SMファン]])、
[[南村蘭]]([[風俗奇譚]])、
[[目黒天平]]、
[[森脇光]]([[裏窓]])、
[[八重垣陽一]]、
[[矢桐重八]]([[奇譚クラブ]]と[[裏窓]])、
[[若杉薫]]、


==略歴==
==略歴==
===誕生〜青年時代===
1930年(昭和5年)、浅草に生まれる。3代続いての浅草育ち。芝居好きの父親<ref group="注">勤め人。祖父が創業した和菓子製造販売店を、芸道楽で潰してしまった</ref>の影響で小学生入学前から芝居小屋に出入り<ref name="rouzin"> [[都築響一]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480427775/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4480427775&linkCode=as2&tag=iq05-22 珍日本超老伝]'''』( 筑摩書房, 2011.7.8)</ref>。両親弟妹と共に浅草竜泉町に住む<ref name="rouzin"></ref>。
1938年(昭和13年)頃、「[[女斗美|女相撲]]」の興行を見たことが記憶に残る<ref name="SHIBAI">濡木痴夢男『[http://pl-fs.kir.jp/nureki/ 濡木痴夢男のおしゃべり芝居]』</ref>。
1940年(昭和15年)、小学校5年生の時、[[高畠華宵]]による少年が後ろ手に縛られる画と、作者不詳の少年が切腹を思わせる格好をしている画に心を奪われる<ref name="SHIBAI"></ref><ref group="注">浅草竜泉寺町の二階建ての木造家屋に両親と弟妹の5人暮らし。[[江戸川乱歩]]、夢野久作、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三、[[谷崎潤一郎]]をくり返し読む。</ref>。
1941年(昭和16年)、日米開戦と共に荒川区三河町の長屋に引っ越し<ref name="rouzin"></ref>。
1942年(昭和17年)頃、東京保善商業学校に入学。
1940年代中頃、学徒動員で配属された日立製作所亀有工場の厚生部広報課でポスターを描く<ref name="SHIBAI"></ref><ref group="注">太平洋画会会員の間所一郎の指導を受ける。広報部では巡回慰問団の接待もし、また自前の「広報劇団」も組織していた</ref>。「日立の広報劇団」にも参加<ref name="rouzin"></ref>。
1945年(昭和20年)、終戦。「新生花形歌舞伎」の女形歌舞伎役者、市川福之助の弟子となる<ref name="SHIBAI"></ref><ref group="注">亀有駅近くにある映画館を改造した芝居小屋を本拠地。かつて、本所緑町にあった劇場を拠点としていた「花形歌舞伎一座」が、空爆で焼失したために亀有に避難して「新生花形歌舞伎」(座頭:坂東鶴蔵、坂東竹若)を設立。。バックには「大川芸能社」。この頃、濡木は浅草から千葉県松戸市に移っている</ref>。
1945年(昭和20年)頃、千葉県松戸市下矢切にあった日立製作所の社員住宅に引っ越していた<ref name="rouzin"></ref>。
1945年(昭和20年)、浅草で[[伊藤晴雨]]に会う<ref name="eshi">[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474594?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474594 「奇譚クラブ」の絵師たち』]([[河出書房新社]], 2004)</ref>。
1946年(昭和21年)頃、3ヶ月ほど、「桜仙太郎」という名前で旅一座に参加して各地巡業<ref name="rouzin"></ref>。
1946年(昭和21年)、歌舞伎劇団辞し、児童劇団に入団<ref name="SHIBAI"></ref><ref group="注">劇団名は明記されていないが1928年(昭和3年)〜1980年(昭和45年)活動していた「劇団東童」と推測される。</ref>。古川緑波、加賀美一郎共演の東宝映画にエキストラ出演したのが最初の仕事<ref name="SHIBAI"></ref><ref group="注">「「わが歌に翼あれば」というようなタイトルだったように記憶」とある。該当する作品は未確認。『僕の父さん』(阿部豊監督, 1946)が1つの可能性。</ref>。
1947年(昭和22年)、「空気座」による『'''[[肉体の門]]'''』の舞台を何度も観る<ref>[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''ロマンチックなサディズム'''』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195407/01/031.html p36]</ref>。
===奇譚クラブ時代===
1953年(昭和28年)頃、東京のデザイン会社から名古屋に派遣。アパレル関係の宣伝雑誌<ref group="注">[[中原るつ|中原]]は『緊縛★命あるかぎり』のあとがきで、日本発のPR誌と位置づけ。</ref>を制作。この頃[[奇譚クラブ]]を知る<ref name="rutsu">[[中原るつ]]『濡木痴夢男のもう1つの顔』 [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430948171X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430948171X 濡木痴夢男『緊縛★命あるかぎり』(河出書房新社, 2008)]のあとがき。</ref>。
1953年(昭和28年)、『'''悦虐の旅役者'''』が[[奇譚クラブ]]11月号に採用<ref group="注">[[須磨利之|喜多玲子]]の挿絵を強く希望していたが、[[須磨利之]]が離脱したあとだったためにかなわず。代わりに[[都築峰子]]が挿絵。</ref>。ペンネームは青山三枝吉。
1953年(昭和28年)頃、[[市川鈴本]]での『[[火あぶり]]』の公演時に、[[伊藤晴雨]]を目撃。
1954年(昭和29年)、[[奇譚クラブ]]3月号が発禁処分。真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』([[八木静男]]挿絵)の内容が問題となり発売4日後に発禁<ref name="rutsu"></ref>。
1955年(昭和30年)、発行元を[[天星社]]に変更した復刊[[奇譚クラブ]]10月号(白表紙時代)の[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195510/001.html 表紙デザイン]を担当。中の小説の多くも濡木が書いている。
===裏窓時代===
1957年(昭和32年)、赴任先の名古屋から東京に戻る。戻る少し前に松坂屋の本屋で『[[裏窓]]』を見つけ、[[須磨利之|喜多玲子]]の名を見つける<ref name="rutsu"></ref>。
1957年(昭和32年)11月、『'''スタイルノート'''』(濡木痴夢男の制作していたアパレル関係の宣伝雑誌)11月号の表紙に映っている<ref name="rouzin"></ref>。'''旭一シャイン工業'''の宣伝雑誌<ref name="‎#Kawahara2021">[[河原梓水]]『'''[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/674/674PDF/kawahara.pdf 飯田豊一(濡木痴夢男)氏の軌跡とその仕事 -新出インタビュー原稿によせて-]'''』立命館文學, 674:14-53, 2021.</ref>
1957年(昭和32年)12月、『青い顔の男』が飯田豊吉のペンネームで『[[裏窓]]』に掲載<ref group="注">「東京に戻る列車の中で執筆」とある(「緊縛命ある限り」あとがき[[中原るつ]])。</ref>。その後、[[奇譚クラブ]]と[[裏窓]]に並行して投稿。このあとに、濡木は江古田の[[裏窓]]編集室に[[須磨利之]]を初訪問している<ref name="eshi"></ref>。
1958年(昭和33年)、『血まみれ観音像』が飯田豊吉のペンネームで『[[裏窓]]』1月号に、『血まみれマリー』が藤見郁のペンネームで5月号に掲載。
1958年(昭和33年)、[[須磨利之|須磨]]から執筆依頼され、『地獄の乳房』を5月号〜9月号に連載。これを機にプロに転向。
1958年(昭和33年)頃、[[須磨利之|須磨]]と共に「緊縛プレイ」の実践。相手は、[[深井俊彦]]が支配人をつとめる[[ストリップ|新宿フランス座]]の踊り子<ref group="注">「ときどき深井自身もその「緊縛プレイ」に参加した。」(おしゃべり芝居、20回)</ref>。


1958年(昭和33年)頃、[[団鬼六]]氏と初対面<ref group="注">[[須磨利之|須磨]]に連れられ団氏の自宅を訪問。新橋とか、銀座の酒場でも、数回ごちそうになった。「縄」に対する関心がないことがわかり、行きたがる美濃村の誘いを断りがち。</ref>。
1958年(昭和33年)12月、[[濡木痴夢男|真木不二夫]]の名で100号突破懸賞『白い玩具』を[[奇譚クラブ]]12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195812/01/037.html p40]に発表。
1959年(昭和34年)、この頃には、ほぼ原稿収入だけで生活をできるようになっている<ref name="nurekiwork">[[濡木痴夢男仕事メモ]]</ref>。
1959年(昭和34年)、[[裏窓叢書]]第一集[[濡木痴夢男|飯田豊吉]]『狂異地獄肌』を書き上げる。装幀は[[須磨利之]]、挿絵は[[中島喜美]]<ref name="nurekiwork"></ref><ref group="注">5日間で200枚書き、へとへとになる。</ref>。
1959年(昭和34年)、[[吉田稔|吉田]]に依頼され、『乳房に火をつけるな』を[[濡木痴夢男|藤木仙治]]の名前で[[奇譚クラブ]]8月号100号突破懸賞として投稿<ref group="注">「[[吉田稔|吉田]]に依頼」にあるように出来レース。[[四馬孝]]の絵をつけることを提案されたが拒否して自作コラージュ。</ref>。
1959年(昭和34年)7月、テレビ番組「夜のプリズム 愛憎の罠」を[[濡木痴夢男|飯田豊吉]]名で執筆。
1960年(昭和35年)、『地底の女奴隷市」の挿絵に失望し、[[奇譚クラブ]]にはもう寄稿せずと決心<ref name="eshi"></ref>。ただしその後も白鳥大蔵の名で書いている。
1960年(昭和35年)、[[吉田稔|吉田]]に[[奇譚クラブ]]の東京進出と編集長の打診を受ける<ref group="注">返事は保留したが、その後[[吉田稔]]の方から、採算が採れないということで計画中止。</ref><ref name="eshi"></ref>。
1961年(昭和36年)9月20日、[[久保藤吉]]と面談し、かなり良い条件で[[久保書店]]に入社<ref name="nurekiwork"></ref>。[[裏窓]]1962年(昭和37年))1月号から[[須磨利之|須磨]]の後を継いで編集長に<ref group="注">『緊縛ナイショ話・61』では1960年となっている。</ref>。
1961年(昭和36年)、[[須磨利之]]の押しかけ女性弟子である町田美沙<ref group="注">渋谷宮益坂裏のバー「玲子」のママと記されている。</ref>を初めて縛る<ref group="注">裏窓の編集長を引き受けて1ヶ月後とある。須磨が縛ったあとに引き続き縛る。</ref><ref name="eshi"></ref>。
1961年(昭和36年)、[[須磨利之]]、[[濡木痴夢男]]、[[深井俊彦]]で、[[八木静男]]に縛った女性を見せる<ref group="注">濡木によると八木はそれまで実際の女性が縛られた姿を見たことがなかった。渋谷宇田川町の割烹旅館『千春』でおこなわれた。「実際の女体を縄で縛ったのはこの時が初めてである」</ref><ref name="eshi"></ref>。
1961年(昭和36年)頃、[[向井一也]]が[[深井俊彦]]に手紙で[[青木順子]]を紹介。舞台テストで[[濡木痴夢男]]が逆海老に縛り、その後[[深井俊彦]]演出の舞台に出演<ref name="SMKING197302">[[深井俊彦]]『'''舞台の上のマゾ女優'''』[[SMキング]]1973年(昭和48年)2月号</ref>。
1963年(昭和38年)、[[ニュー内外ミュージックホール]]でおこなわれていた[[SMショーの歴史|縛りを含む芝居]]の台本を書いており、[[裏窓]]にいくつかシナリオが掲載されている。
1964年(昭和39年)、[[裏窓]]1965年(昭和40年))1月号で[[裏窓]]が廃刊。
1964年(昭和39年)8月、[[耽美芸術グラフ]]を編集発行責任者:[[藤見郁]]で発行。
1965年(昭和40年)2月、[[サスペンスマガジン]]を創刊。
1967年(昭和42年)、連続テレビドラマ『戦国無宿』の脚本''(要確認)''。
1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]への投稿再開。
1968年(昭和43年)、この頃、[[青木マリ]]、[[水咲陽子]]の属する、[[ピンク劇団]]「劇団・炎」の座付き作者として台本を書いている。いくつかの台本は[[サスペンスマガジン]]に掲載。
1969年(昭和44年)、[[須磨利之|須磨]]と共に[[久保書店]]を去る<ref name="rutsu"></ref>。
1969年(昭和44年)、[[第二書房]]からナイトブックシリーズ『'''藤見郁小説集'''』全10冊が刊行。装幀・カットは[[須磨利之]]。
1969年(昭和44年)、連続テレビドラマ『ブラックチェンバー』の脚本''(要確認)''。
1970年(昭和45年)、藤見郁の名で、[[奇譚クラブ]]1月号から『地獄のホテル』を連載。
1970年(昭和45年)、[[須磨利之|須磨]]と共に[[虻プロ]]を立ち上げ[[あぶめんと]]の編集長に。社長は[[須磨利之|須磨]]<ref name="rutsu"></ref>。同年9月に[[あぶめんと]]は廃刊。
1971年(昭和46年)、双葉社の月刊小説雑誌を2冊編集していた<ref name="nurekiwork"></ref>。
1971年(昭和46年)12月、[[SMファン]]創刊号に[[藤見郁]]名義で『人斬り』(挿絵は[[秋吉巒|秋吉らん]])
===緊縛師時代===
1972年(昭和47年)、[[SMファン]]と[[別冊SMファン]]にいろいろな変名で小説を起稿するが、緊縛写真の撮影はまだ数えるほどしかおこなっていない<ref name="nurekiwork"></ref>。
1972年(昭和47年)11月1日、[[SMセレクト]]のための第1回目の撮影が[[東京三世社]]で行われている<ref name="nurekiwork"></ref>。
1973年(昭和48年)、[[SMセレクト]]2月号に[[濡木痴夢男]]の名が初登場。中国の古い言葉で『見果てぬ夢を追う男』」という意味をもつ<ref name="naisho">[http://chimurin.blog48.fc2.com/ 濡木痴夢男『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話』]</ref>。『'''[[カラー撮影同行記]]'''』などを連載。
1973年(昭和48年)11月16日、[[SMセレクト]]の撮影で[[花沢正治]]の'''花沢スタジオ'''を初めて訪問<ref name="nurekiwork"></ref>。
1973年(昭和48年)9月20日、[[SMファン]]のための撮影も本格化していく<ref name="nurekiwork"></ref>。
1974年(昭和49年)6月26日、[[SMキング]]の最初の撮影を[[百花苑]]にておこなっている<ref name="nurekiwork"></ref>。
1974年(昭和49年)8月4日、[[司書房]]の撮影で[[杉浦則夫]]と初の仕事。撮影場所は[[けごん旅館]]でモデルはトンボ<ref name="nurekiwork"></ref>。
1975年(昭和50年)1月25日、[[東京三世社]]の撮影を[[濡木痴夢男]]と。撮影場所は[[けごん旅館]]。[[SMセレクト]]1975年(昭和50年)7月号のカラーグラビアに<ref>[[濡木痴夢男]]『'''[[カラー撮影同行記]]'''[[SMセレクト]]1975年(昭和50年)7月号。</ref>
1975年(昭和50年)9月、[[SMセレクト]]1975年(昭和50年)9月号に『'''縛り方教室'''』として1ページの白黒グラビア。同誌8月号の[[カラー撮影同行記]]に「そうだ、ボクは近いうちに「濡木痴夢男縛り方教室」というのを開こう。」とあり、9月号[[カラー撮影同行記]]には「(濡木痴夢男縛り方教室の)くわしいことは、セレクト編集部内.濡木痴夢男まで手紙でお問い合わせください。」とある。
1976年(昭和51年)9月1日〜10日、渋谷[[道頓堀劇場]]にて[[ピンク芝居|SM演劇]]『'''闇の中の魔女'''』(出演:[[泉ユリ]]、作・[[藤見郁]])<ref>[[SMセレクト]] 1976年(昭和51年)10月号, p179</ref>。
1976年(昭和51年)11月14日、[[星野小麿]]の主催する写真撮影会[[KPC]]の分科会の1つ、『[[解語の花]]』に緊縛講師として招かれる。その後、1979年(昭和54年)まで20回に亘り、『[[解語の花]]』の緊縛講師<ref name="nurekiwork"></ref>。
1980年前後、[[須磨利之|美濃村(須磨)]]が倒れた後、10数冊のSM雑誌の縛りを一手に引き受ける。
1980年前後、『[[解語の花]]』の会員であった[[枷井克哉]]、[[須賀忠]]、[[不二秋夫]]が[[濡木痴夢男]]と仕事を共にする[[豊幹一郎]]ユニットが「[[ゆたか編集室]]」という名義で雑誌の仕事を請け負い出す。これが[[緊美研]]の母体となる<ref name="ex01">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4426738008?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4426738008 秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)]</ref><ref group="注">『日本緊縛写真史 1』では1970年頃となっているが、これは1980年頃の誤記であろう。</ref>。
1979年(昭和54年) 、[[S&Mコレクター]]に『'''[[豊幹一郎 撮影同行記]]'''』連載開始。
1980年(昭和55年)11月17日、遅くともこの時期から[[峰一也]]と[[別冊SMファン]]、[[SMコレクター]]などの写真撮影をおこなっている<ref name="nurekiwork"></ref>。
1981年(昭和56年)12月8日、[[アルファ・イン]]にて、[[峰一也]]監督、[[濡木痴夢男]]緊縛で[[アートビデオ]]の撮影。女優は西本みゆき<ref name="nurekiwork"></ref>。
1982年(昭和57年)1月、[[S&Mコレクター]]に『'''[[豊幹一郎 縛り方入門]]'''』連載開始。
1982年(昭和57年)4月9日、[[峰一也]]監督の[[アートビデオ]]『淫らな悪魔』のビデオ撮影。女優は[[速水純子|早見純]](桂るみ)<ref group="注">だとすると[[渡辺観世]]は[[濡木痴夢男]]の変名。</ref><ref name="nurekiwork"></ref>。[[麻来雅人]]が男優として参加している。
1982年(昭和57年)4月14日、[[バンビデオ]]に初めて出演。『[[豊幹一郎]]の緊縛入門』『SMドキュメント 緊縛と蝋燭の色地獄』<ref group="注">それぞれ「[[豊幹一郎]]のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」「[[豊幹一郎]]のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」として発売された模様。</ref>を撮影。女優は水原小夜、カメラは[[峰一也]]<ref name="nurekiwork"></ref>。
1983年(昭和58年)、[[アートビデオ]]から『'''[[濡木痴夢男]]の縛り方入門''' 』シリーズ発表。
1984年(昭和59年)12月29日、[[不二企画]]のビデオ第1作が[[SM聖地|熱海旅館]]で撮影。後に『'''雨合羽と長靴'''』として[[緊美研]]ビデオ第1号としてリストされる<ref>[[濡木痴夢男]]『上野・熱海旅館と[[広咲千絵]]』[[緊美研通信]]第18号</ref>。
1985年(昭和60年)10月27日、[[不二秋夫]]が中心となり『[[杉下なおみ]]の会』第1回会合を開く。第3回目から『[[緊美研|緊縛美研究会]]』と名称を変更。
1987年(昭和62年)12月15日、[[アートビデオ]]『悪魔の遊園地6奇畜の舞い』(監督:[[峰一也]]、出演:君島玲)の撮影<ref name="nurekiwork"></ref>。
1987年(昭和62年)12月22日、[[アートビデオ]]『美畜IV』(監督:[[峰一也]]、出演:小泉ケイ)の撮影<ref name="nurekiwork"></ref>。
1988年(昭和62年)11月30-31日、[[アートビデオ]]『恋縛奇譚 くらげの骨』(監督:[[峰一也]]、出演:高原久美、[[中野D児]])の撮影<ref name="nurekiwork"></ref>。
1989年(平成元年)、[[緊美研通信]]を発刊。
1989年(平成元年)頃、新宿の[[不二企画]]の事務所で定期的に『濡木流・縄道場』を開催<ref group="注">毎週月曜の夕方。モデルは春原悠理。</ref><ref>[http://yourisunohara.blog35.fc2.com/blog-entry-82.html 春原悠理ブログ]より。</ref>。
1992年(平成4年)、[[丸尾末広]]原作の映画『'''地下幻燈劇画 少女椿'''』の美術を[[飯田豊一]]名で担当。
1999年(平成11年)7月、[[ぬれきしんぶん]]が創刊。
===2000年代===
2002年(平成14年)、(有)[[不二企画]]が設立される。
2003年(平成15年)、[[飯田豊一]]での浪曲台本『'''人情深川夫婦甘酒'''』が国立演芸場の「第4回大衆芸能脚本募集―浪曲―」で佳作入選。9月23日に国立演芸場の「第309回特別企画公演」で玉川福太郎により初演<ref group="注">愛読書である[[伊藤晴雨]]の『いろは引・江戸と東京風俗野史』に題材をもらう。</ref><ref name="eshi"></ref>。
2004年(平成16年)、[[S&Mスナイパー]]1月号より『'''[[濡木緊縛日記]]'''』の連載開始。
2005年(平成17年)、浅草木馬亭にて浪曲『'''ナミイの三線放浪記~嗚呼、懐かしの沖縄・南洋編~'''』出演:玉川美穂子、新城浪、脚本:姜信子、演出:[[飯田豊一]]<ref>[http://www.asahi-net.or.jp/~zm7m-knst/diary/0504-ge.htm 桂歌之助日記]</ref>。
2005年(平成17年)9月2日、[[マニア倶楽部]]のグラビア (2005年11・12月合併号に掲載)で約20年ぶり<ref>[[濡木痴夢男]]x[[杉浦則夫]]『'''緊縛美の考察'''』[[マニア倶楽部]]2005年11・12月合併号。インタビューは[[早乙女宏美]]。</ref>の[[濡木痴夢男]]・[[杉浦則夫]]のコラボ。モデルは[[早乙女宏美]]。
2006年(平成18年)1月、インターネットで『'''濡木痴夢男の緊縛ナイショ話'''』の配信を開始(2009年12月の第297回まで続く)。
2007年(平成19年)、田端六六のペンネームで書いた『天狗のいたずら』が「第5回北区内田康夫ミステリー文学賞」の大賞を受賞<ref group="注">この作品は[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4408535184?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4408535184 内田康夫『はじめての小説―内田康夫&東京・北区が選んだ気鋭のミステリー』(実業之日本社, 2008)]で読むことが出来る。</ref>。
2007年(平成19年)8月、インターネットで『[http://pl-fs.kir.jp/nureki/ '''濡木痴夢男のおしゃべり芝居''']』の配信を開始。2013年7月19日まで。
2008年(平成20年)、劇団「はなムスび」の『ぐるぐる溺れ』に田端六六の名でゲスト出演。2009年の『腹腹ボレロ』にも出演。
2009年(平成21年)5月、[[緊美研]]例会(163回)が再開。モデルは[[早乙女宏美]]、[[沢戸冬木]]<ref group="注">163回が5月10日、164回が7月12日、165回が9月27日におこなわれている。この間、6月9日は[[沢戸冬木]]の『悲願』が撮影されている。</ref>。
2009年(平成21年)9月12日、[[WEBスナイパー]]に『'''[[濡木痴夢男の猥褻快楽遺書]]'''』連載開始。2013年7月26日まで。
2010年(平成22年)6月10日、緊縛ドラマ「人質」製作<ref group="注">企画:[[中原るつ]]、演出:[[山之内幸]]、出演:[[沢戸冬木]]、[[霞紫苑]]、[[濡木痴夢男]]。撮影:山芽史図。スチール写真は[[菅野ケイ|Kei]]。[[マニア倶楽部]]2010年9月号と11月号に発表。なお、スチール撮影現場には[[Master "K"]]が立ち会っている。</ref><ref name="SHIBAI"></ref>。
2010年(平成22年)8月21日、横浜市歴史博物館で「立ち絵紙芝居」を実演([[濡木痴夢男|飯田豊一]]として。人形は佐倉真亜子。)
2010年(平成22年)9月16日、北とぴあ演劇祭・マイストーリー企画『[[濡木痴夢男|飯田豊一]] 演劇の地下水脈を語る』於 北とぴあ。
2011年(平成23年)10月16日、「蛙の会」にて『[[濡木痴夢男|飯田豊一]] 活動大写真『瞼の母』を公演。
2011年(平成23年)12月31日、[[濡木痴夢男]]、[[早乙女宏美]]、[[中原るつ]]、[[山之内幸]]からなるユニット『'''ともしび'''』で写真集『夕日の部屋』を製作。
2012年(平成24年)4月1日、[[ブラックハート]]にて『'''[[濡木痴夢男]]の縄研究会'''』開催。
2013年(平成25年)9月9日、永眠。


==エピソード==
==エピソード==
*[[SMビデオ|アートビデオ]]の初期作品『狂い泣く肉奴隷』、『淫狼の牙』、『セーラー服縄奴隷』などでは、緊縛師ではなく男優として出演している<ref group="注" name="manbou"></ref>。『狂い泣く肉奴隷』の撮影は遅くとも1980年(昭和55年)夏から暮れにかけての半年の間に撮影されている<ref group="注">[[麻来雅人]]のページ参照)</ref>。
*1982年(昭和57年)、[[豊幹一郎]]<ref group="注" name="toyo"></ref>として、[[SMビデオ|バンビデオ]]にSMドキュメント作品<ref group="注" name="manbou">『[[貴重な情報発信サイト|マンボウ資料館]]』より。</ref>。
*十代後期から二十代前半までは、いささか過激な、左翼系の文学青年だった(濡木痴夢男のおしゃべり芝居#113)。
*尊敬する作家は車谷長吉(濡木痴夢男のおしゃべり芝居#114)。
*伝統話芸の伝承を目指す話術研究会「蛙の会」の会員。活弁や紙芝居の公演をおこなっている。少なくとも2003年からの活動記録がインターネット上に流れている。[[早乙女宏美]]、[[中原るつ]]らと。
* 都築響一『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480427775/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4480427775&linkCode=as2&tag=iq05-22 珍日本超老伝]'''』(筑摩書房, 2011)で取り上げられている。
==[[濡木語録]]==
{{濡木語録}}


==代表作==
===小説===
''作品は膨大な数に上るので一部をリストしている''
*[[濡木痴夢男|青山三枝吉]]『'''悦虐の旅役者'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195311/02/109.html p112]。挿絵は[[八木静男|都築峰子]]
*[[濡木痴夢男|真木不二夫]]『'''魔性の姉妹'''』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)3月号, p138。
*[[濡木痴夢男|真木不二夫]]『'''黄色オラミ誕生'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)12月号, p60より5回連載。
*[[濡木痴夢男|藤木仙治]]『'''お加代源三郎旅日記'''』[[奇譚クラブ]]1957年(昭和32年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195710/PAGE018.html p18]。
*[[濡木痴夢男|飯田豊吉]]『'''男狩りの裸女'''』探偵倶楽部 1958年(昭和33年)11月号, 共栄社
*[[濡木痴夢男|豊田一狼]]『'''白蛇夫人の敗北'''』探偵倶楽部 1958年(昭和33年)12月号, 共栄社
*[[濡木痴夢男|藤木仙治]]『'''乳房に火をつけるな'''』[[奇譚クラブ]]1959年(昭和34年)3月号より9回連載。
*[[濡木痴夢男|矢桐十八]]『'''怨霊首吊屋敷'''』[[裏窓]]1959年(昭和34年)7月号, [http://nawa-art.com/etc/uramado/ura_195907/01/029.html p36](挿絵:[[小日向一夢]])
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''平家部落の怪'''』[[裏窓]]1959年(昭和34年)7月号, [http://nawa-art.com/etc/uramado/ura_195907/02/175.html p182](挿絵:[[秋吉巒]])
*[[濡木痴夢男|青山三枝吉]]『'''悦虐の彷徨'''』[[風俗奇譚]]1961年(昭和36年)5月号, [http://nawa-art.com/etc/fk/FK196105/092.html p170]。挿絵は[[田上恵子]]
*[[濡木痴夢男|白鳥大蔵]]『'''[[緋縮緬地獄]]'''』[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)5月号より8回連載。
*[[濡木痴夢男|飯田豊一]]『'''泣くな殺し屋'''』推理界 1968年(昭和43年)10月号, [[浪速書房]]
===[[いろいろな文筆家といろいろな絵師のコラボ|色々な絵師とのコラボレーション]]===
{{濡木痴夢男といろいろな絵師}}
===エッセイ===
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''ロマンチックなサディズム'''』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195407/01/031.html p36]。挿絵は[[飛田良二]]。
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''大衆文学に現れた責めの描写'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)6月号, p18より6回連載。
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''現代大衆文學に現れた責めの描寫'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195607/01/015.html p18]。挿絵も'''藤木仙治'''名で。
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''大衆文学に現れた責めの描写'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195608/01/014.html p18]
*[[濡木痴夢男|矢桐重八]]『'''アブ・モード・オールスクラップ'''』[[奇譚クラブ]]1957年(昭和37年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195707/02/125.html p128]より連載。
*[[濡木痴夢男]]『'''マニアの陶酔ー緊縛美についてー'''』[[SM緋の手帖]]特別増刊1978年(昭和53年)頃
*[[濡木痴夢男]]『'''いまのマニアむかしのマニア'''』[[SMスピリッツ]]1985年(昭和60年)12月20日増刊号「'''SM遊戯術'''」
*[[濡木痴夢男]]『'''緊縛エロティシズム考'''』[[月光]]1998年(平成10年)10月26日発行 第十号
*[[濡木痴夢男]]『'''緊縛エロティシズム考'''』[[月光]]1999年(平成11年)11月25日発行 第十三号
*[[濡木痴夢男]]『'''[[濡木緊縛日記]]'''』[[S&Mスナイパー]]2004年(平成16年)1月号〜2009年最終号(''要確認'')
*[[濡木痴夢男]]x[[杉浦則夫]]『'''緊縛美の考察'''』[[マニア倶楽部]]2005年11・12月合併号。インタビューは[[早乙女宏美]]。


==代表作==
===撮影記===
*[[濡木痴夢男]]『'''[[カラー撮影同行記]]'''』[[SMセレクト]]1973年(昭和48年)-
*[[濡木痴夢男]]『'''モデルさまざま'''』[[小説SMセレクト]]198?年(昭和??年)-
*[[豊幹一郎]]『'''豊幹一郎の撮影同行記'''』[[別冊SMファン]]198?年(昭和??年)-
*[[豊幹一郎]]『'''豊幹一郎の毒舌日誌'''』[[別冊SMファン]]198?年(昭和??年)-
*[[豊幹一郎]]『'''豊幹一郎の唯繩士独尊'''』[[SMファン]]1984年(昭和59年)2月号-
 
===グラビア===
*[[豊幹一郎]]『'''繩の狩人'''』[[S&Mコレクター]]1978年(昭和53年)12月号
*[[豊幹一郎]]『'''豊幹一郎の繩の世界'''』[[S&Mコレクター]]1979年(昭和54年)5月号
*『SM奴隷シリーズ』[[SM奇談POCKET]]1981年(昭和56年)1月号- カメラは[[枷井克哉]]
 
===挿絵===
*[[濡木痴夢男|藤木仙二]]『たのしきかな時代劇』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)10月号, p164で本文と[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195410/050.html 挿絵]を。
*[[濡木痴夢男|藤木仙二]]『旅の縛られ女優』[[奇譚クラブ]]1955年(昭和30年)10月号, p13で本文と[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195510/017.html 挿絵]を。
*[[濡木痴夢男|藤木仙治]]『'''お加代源三郎旅日記'''』[[奇譚クラブ]]1957年(昭和32年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195710/PAGE018.html p18]の挿絵。
 
===書籍===
*[[濡木痴夢男|飯田豊吉]]『'''地獄の乳房'''』([[あまとりあ社]], 1959?)(装幀:[[喜多玲子]])
*[[濡木痴夢男|矢桐重八]]『'''鬼女面地獄'''』([[耽美館]], 1969)(挿絵:[[山田彬弘]])''(漢字確認)''(SM耽美文学シリーズ No.6)
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''きちがい狼'''』([[耽美館]], 1969)(挿絵:[[山田彬弘]])(SM耽美文学シリーズ No.8)
*[[濡木痴夢男|飯田豊一]]『'''秘剣残酷囃子'''』([[耽美館]], 1969)(挿絵:'''堂昌一''')(SM耽美文学シリーズ No.11)
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''縄と女と野獣たち'''』([[第二書房]], 1969)(表紙・挿絵:[[須磨利之|美濃村晃]])(ナイトブックスシリーズNo. 54)
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''狂った縄'''』([[第二書房]], 1969)(表紙・挿絵:[[須磨利之|美濃村晃]])(ナイトブックスシリーズNo. 56)
*[[濡木痴夢男|藤見郁]]『'''白い肌黒い縄'''』([[第二書房]], 1969)(表紙・挿絵:[[須磨利之|美濃村晃]])(ナイトブックスシリーズNo. 57)
*[[濡木痴夢男|白鳥大蔵]]『'''緋縮緬地獄'''』(挿画:[[美濃村晃]])(発行:[[譚奇会]]、発売:[[三崎書房]], 1971)
*[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309473806?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309473806 '''緊縛の美・緊縛の悦楽''' ](』河出書房新社, 1995)
*[[秋田昌美]]、[[濡木痴夢男]]、[[不二秋夫]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4426738008?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4426738008 '''日本緊縛写真史 1''']』 (自由国民社, 1996)
*[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474160?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474160 '''実録 縛りと責め''']』 (河出書房新社, 2001)
*[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474497?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474497 '''性の秘本 責めと愉悦''')]』(河出書房新社, 2003
*[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474594?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474594 '''「奇譚クラブ」の絵師たち''']』(河出書房新社, 2004)
*[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309481574?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309481574 '''「奇譚クラブ」とその周辺''']』(河出書房新社, 2006)
*[[濡木痴夢男]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/430948171X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430948171X '''緊縛★命あるかぎり''']』(河出書房新社, 2008)
*[[飯田豊一]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4846012883/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4846012883&linkCode=as2&tag=iq05-22 '''『奇譚クラブ』から『裏窓』へ''']』([[論創社]], 2013)
 
==写真集==
*『'''[[濡木痴夢男の繩による 豪華緊縛フォト集  繩に悶える女たち]]'''』([[共和出版]], 1970前後 ?)
*『'''[[風吹あんな]]緊縛写真集 STRAY DOLL 迷いの人形'''』([[大洋図書]], 1995)(緊縛:[[濡木痴夢男]]、写真:[[岡克己]]、[[不二秋夫]]、[[藍川良介]]。
===[[ぬれきしんぶん]]===
1999年(平成11年)頃に発行されていた手作り小雑誌。[[ぬれきしんぶん]]のページ参照。
 
===映画===
{{およう 2002}}
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001G75F56?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B001G75F56 『縛師』(ジェネオン エンタテインメント, 2007)] ([[廣木隆一]]監督。他に、[[有末剛]], [[雪村春樹]], [[早乙女宏美]], [[杉浦則夫]], [[卯月妙子]]が出演)。
===Vシネマ===
*『'''縄師事件簿'''』(1996)(監督:星野仁、出演:螢雪次朗、生田依子、白石ひとみ、軌保博光、安永亜衣、渡辺正行。緊縛:[[濡木痴夢男]])
 
===ビデオ・DVD===
''(作品は膨大な数。一部をランダムに書いている)''
*『'''[[S&Mビデオグラフティ]]SPECIAL SMクラブの女達'''』([[シネマジック]], 1990.5.18, VS-114, ビデ倫90809)(監督:[[雪村春樹]]、出演:ユリ(新宿・[[パレス]])、[[天宮梨花]](六本木・[[奴隷契約書]])、[[森尾歩衣]](六本木・[[Redスコーピオン]])、[[中野D児]]、[[日比野達郎]]、[[濡木痴夢男]])
{{美少女変態調教 1996}}
 
===[[DVD版「緊縛美」]]===
[[DVD版「緊縛美」]]参照
 
===浪曲台本===
*『人情深川夫婦甘酒』<ref group="注">国立演芸場主催の浪曲台本募集での入賞作品。二代目玉川福太郎のお気に入りの作品。</ref>
 
===[[緊縛教材]]===
[[濡木痴夢男緊縛教材]]にまとめてある。


==参考資料==
<references/>
==注釈==
<references group="注"/>


==関連文献==
==つながり==
[[濡木痴夢男仕事メモ]]
[[濡木痴夢男緊縛教材]]
[[須磨利之]]
[[吉田稔]]
[[枷井克哉]]
[[不二秋夫]]
[[深井俊彦]]
[[森下高茂]]
[[椋陽児]]
[[杉浦則夫]]
[[早乙女宏美]]
[[仙田弘]]
[[奈加あきら]]
[[麻来雅人]]
[[黒田透]]
[[中原るつ]]


==お役たちweb==
==お役たちweb==
*[http://pl-fs.kir.jp/nureki/index.htm  濡木痴夢男のおしゃべり芝居]
*[http://roadsidediaries.blogspot.jp/2011/02/blog-post_24.html [[都築響一]]『右半分怪人伝1 縄一代・濡木痴夢男』]
*[http://tokyobound.com/blog/?p=192#more-192 TokyoBound Nureki Chimuo Interview]
*[https://salondesm.com/about/column/772-sm-45 SM美容術入門45 - 濡木痴夢男(1)]
*[https://salondesm.com/about/column/775-sm-46 SM美容術入門46 - 濡木痴夢男(2)]
{{Dokuji-stub}}
{{DEFAULTSORT:ぬれきちむお}}
[[Category:SM殿堂]]
[[Category:文筆家]]
[[Category:緊縛師]]
[[Category:1950年代の緊縛師]]
[[Category:1960年代の緊縛師]]
[[Category:1970年代の緊縛師]]
[[Category:1980年代の緊縛師]]
[[Category:1990年代の緊縛師]]
[[Category:2000年代の緊縛師]]
[[Category:2010年代の緊縛師]]
[[Category:編集者]]
[[Category:総索引]]

2024年9月5日 (木) 11:15時点における最新版

1995年(平成7年)頃の濡木痴夢男[注 1]不二秋夫撮影。
濡木痴夢男 (1930-2013)
S&Mコレクター1978年12月号の巻頭グラビア『繩の狩人』に出演する濡木痴夢男カメラの豊幹一郎濡木痴夢男枷井克哉不二秋夫らが作った架空の名前。

ぬれき ちむお、1930年(昭和5年)1月13日-2013年(平成25年)9月9日。昭和SM文化形成の中心人物。1950年代から2013年まで、編集者、緊縛師、文筆家として幅広い分野で精力的に活動。杉浦則夫とのコンビで昭和SMの完成されたスタイルを確立。緊縛技法の体系化にも貢献。

概要

緊縛師、文筆家、絵師、編集者。「緊縛の濡木」としてのイメージが強いが「濡木痴夢男」の名前が誕生したのは1973年(昭和48年)、濡木44歳と、比較的遅い時期である。「濡木痴夢男」誕生以前から既に藤見郁、飯田豊吉その他多くの変名で編集者、文筆家、絵師として、昭和SM文化の形成に重要な役割を果たしており、古い世代には藤見郁や飯田豊吉の名前の方が聞き慣れたものとなっている。その活動は1953年(昭和28年)の奇譚クラブへの読者投稿から始まるが、須磨利之に誘われ裏窓の編集(後に編集長)に携わるようになってから、50年代、60年代のSM文化の中心的存在となる。70年代に入ってからも数多くのSM雑誌、SMビデオの緊縛を担当し、濡木痴夢男の緊縛がその後の緊縛師に与えた影響は計り知れない。1970-1980年代の活動記録である『濡木痴夢男仕事メモ』は、当時のSM界の動向を知る貴重な資料となっている。また、緊縛に関する教材も数多く製作しており、それらは『濡木痴夢男緊縛教材』にまとめてある。80歳を過ぎてもなお、執筆、映像製作、古典芸能の伝承になみなみならぬ情熱を燃やし、昭和SM文化の「活動する」伝説であった。2013年(平成25年)9月9日永眠。

別名

主なもの

Chimuo Nureki, 飯田豊一(本名)、藤見郁奇譚クラブ風俗奇譚SM奇譚裏窓SMセレクト他)、飯田豊吉裏窓耽奇小説に官能サスペンス)、フーさん(藤見郁の愛称)、青山三枝吉奇譚クラブ風俗奇譚)、藤木仙治奇譚クラブに文、絵、映画スチールを提供、サスペンスマガジン)、豊幹一郎稲田乾二[注 2]

その他:あ〜さ行

赤木恵介飯田豊田郎市川国彦奥村圭(サスペンス&ミステリーマガジン)、 影村一鬼(SMコレクター)、 北園透一郎(裏窓檸檬社)、 笹木恵一(風俗奇譚)、 島木恵子(風俗奇譚)、 白鳥大蔵菅原峰夫豊田一狼

その他:た〜は行

田端六六塔婆十郎(奇譚クラブ)、 富永うたこ野呂圭太羽島七郎早蕨亮太弘岡三千代藤村豊三[注 3]ホーハンター

その他:ま〜わ行

曲二十八、 真木不二夫(奇譚クラブの「黄色オラミ誕生」で有名)、 松平荘司(裏窓S&Mコレクター)、 三輪喜久夫(SMファン)、 南村蘭(風俗奇譚)、 目黒天平森脇光(裏窓)、 八重垣陽一矢桐重八奇譚クラブ裏窓)、 若杉薫

略歴

誕生〜青年時代

1930年(昭和5年)、浅草に生まれる。3代続いての浅草育ち。芝居好きの父親[注 4]の影響で小学生入学前から芝居小屋に出入り[1]。両親弟妹と共に浅草竜泉町に住む[1]

1938年(昭和13年)頃、「女相撲」の興行を見たことが記憶に残る[2]

1940年(昭和15年)、小学校5年生の時、高畠華宵による少年が後ろ手に縛られる画と、作者不詳の少年が切腹を思わせる格好をしている画に心を奪われる[2][注 5]

1941年(昭和16年)、日米開戦と共に荒川区三河町の長屋に引っ越し[1]

1942年(昭和17年)頃、東京保善商業学校に入学。

1940年代中頃、学徒動員で配属された日立製作所亀有工場の厚生部広報課でポスターを描く[2][注 6]。「日立の広報劇団」にも参加[1]

1945年(昭和20年)、終戦。「新生花形歌舞伎」の女形歌舞伎役者、市川福之助の弟子となる[2][注 7]

1945年(昭和20年)頃、千葉県松戸市下矢切にあった日立製作所の社員住宅に引っ越していた[1]

1945年(昭和20年)、浅草で伊藤晴雨に会う[3]

1946年(昭和21年)頃、3ヶ月ほど、「桜仙太郎」という名前で旅一座に参加して各地巡業[1]

1946年(昭和21年)、歌舞伎劇団辞し、児童劇団に入団[2][注 8]。古川緑波、加賀美一郎共演の東宝映画にエキストラ出演したのが最初の仕事[2][注 9]

1947年(昭和22年)、「空気座」による『肉体の門』の舞台を何度も観る[4]

奇譚クラブ時代

1953年(昭和28年)頃、東京のデザイン会社から名古屋に派遣。アパレル関係の宣伝雑誌[注 10]を制作。この頃奇譚クラブを知る[5]

1953年(昭和28年)、『悦虐の旅役者』が奇譚クラブ11月号に採用[注 11]。ペンネームは青山三枝吉。

1953年(昭和28年)頃、市川鈴本での『火あぶり』の公演時に、伊藤晴雨を目撃。

1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号が発禁処分。真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(八木静男挿絵)の内容が問題となり発売4日後に発禁[5]

1955年(昭和30年)、発行元を天星社に変更した復刊奇譚クラブ10月号(白表紙時代)の表紙デザインを担当。中の小説の多くも濡木が書いている。

裏窓時代

1957年(昭和32年)、赴任先の名古屋から東京に戻る。戻る少し前に松坂屋の本屋で『裏窓』を見つけ、喜多玲子の名を見つける[5]

1957年(昭和32年)11月、『スタイルノート』(濡木痴夢男の制作していたアパレル関係の宣伝雑誌)11月号の表紙に映っている[1]旭一シャイン工業の宣伝雑誌[6]

1957年(昭和32年)12月、『青い顔の男』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』に掲載[注 12]。その後、奇譚クラブ裏窓に並行して投稿。このあとに、濡木は江古田の裏窓編集室に須磨利之を初訪問している[3]

1958年(昭和33年)、『血まみれ観音像』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』1月号に、『血まみれマリー』が藤見郁のペンネームで5月号に掲載。

1958年(昭和33年)、須磨から執筆依頼され、『地獄の乳房』を5月号〜9月号に連載。これを機にプロに転向。

1958年(昭和33年)頃、須磨と共に「緊縛プレイ」の実践。相手は、深井俊彦が支配人をつとめる新宿フランス座の踊り子[注 13]

1958年(昭和33年)頃、団鬼六氏と初対面[注 14]

1958年(昭和33年)12月、真木不二夫の名で100号突破懸賞『白い玩具』を奇譚クラブ12月号, p40に発表。

1959年(昭和34年)、この頃には、ほぼ原稿収入だけで生活をできるようになっている[7]

1959年(昭和34年)、裏窓叢書第一集飯田豊吉『狂異地獄肌』を書き上げる。装幀は須磨利之、挿絵は中島喜美[7][注 15]

1959年(昭和34年)、吉田に依頼され、『乳房に火をつけるな』を藤木仙治の名前で奇譚クラブ8月号100号突破懸賞として投稿[注 16]

1959年(昭和34年)7月、テレビ番組「夜のプリズム 愛憎の罠」を飯田豊吉名で執筆。

1960年(昭和35年)、『地底の女奴隷市」の挿絵に失望し、奇譚クラブにはもう寄稿せずと決心[3]。ただしその後も白鳥大蔵の名で書いている。

1960年(昭和35年)、吉田奇譚クラブの東京進出と編集長の打診を受ける[注 17][3]

1961年(昭和36年)9月20日、久保藤吉と面談し、かなり良い条件で久保書店に入社[7]裏窓1962年(昭和37年))1月号から須磨の後を継いで編集長に[注 18]

1961年(昭和36年)、須磨利之の押しかけ女性弟子である町田美沙[注 19]を初めて縛る[注 20][3]

1961年(昭和36年)、須磨利之濡木痴夢男深井俊彦で、八木静男に縛った女性を見せる[注 21][3]

1961年(昭和36年)頃、向井一也深井俊彦に手紙で青木順子を紹介。舞台テストで濡木痴夢男が逆海老に縛り、その後深井俊彦演出の舞台に出演[8]

1963年(昭和38年)、ニュー内外ミュージックホールでおこなわれていた縛りを含む芝居の台本を書いており、裏窓にいくつかシナリオが掲載されている。

1964年(昭和39年)、裏窓1965年(昭和40年))1月号で裏窓が廃刊。

1964年(昭和39年)8月、耽美芸術グラフを編集発行責任者:藤見郁で発行。

1965年(昭和40年)2月、サスペンスマガジンを創刊。

1967年(昭和42年)、連続テレビドラマ『戦国無宿』の脚本(要確認)

1968年(昭和43年)、奇譚クラブへの投稿再開。

1968年(昭和43年)、この頃、青木マリ水咲陽子の属する、ピンク劇団「劇団・炎」の座付き作者として台本を書いている。いくつかの台本はサスペンスマガジンに掲載。

1969年(昭和44年)、須磨と共に久保書店を去る[5]

1969年(昭和44年)、第二書房からナイトブックシリーズ『藤見郁小説集』全10冊が刊行。装幀・カットは須磨利之

1969年(昭和44年)、連続テレビドラマ『ブラックチェンバー』の脚本(要確認)

1970年(昭和45年)、藤見郁の名で、奇譚クラブ1月号から『地獄のホテル』を連載。

1970年(昭和45年)、須磨と共に虻プロを立ち上げあぶめんとの編集長に。社長は須磨[5]。同年9月にあぶめんとは廃刊。

1971年(昭和46年)、双葉社の月刊小説雑誌を2冊編集していた[7]

1971年(昭和46年)12月、SMファン創刊号に藤見郁名義で『人斬り』(挿絵は秋吉らん)

緊縛師時代

1972年(昭和47年)、SMファン別冊SMファンにいろいろな変名で小説を起稿するが、緊縛写真の撮影はまだ数えるほどしかおこなっていない[7]

1972年(昭和47年)11月1日、SMセレクトのための第1回目の撮影が東京三世社で行われている[7]

1973年(昭和48年)、SMセレクト2月号に濡木痴夢男の名が初登場。中国の古い言葉で『見果てぬ夢を追う男』」という意味をもつ[9]。『カラー撮影同行記』などを連載。

1973年(昭和48年)11月16日、SMセレクトの撮影で花沢正治花沢スタジオを初めて訪問[7]

1973年(昭和48年)9月20日、SMファンのための撮影も本格化していく[7]

1974年(昭和49年)6月26日、SMキングの最初の撮影を百花苑にておこなっている[7]

1974年(昭和49年)8月4日、司書房の撮影で杉浦則夫と初の仕事。撮影場所はけごん旅館でモデルはトンボ[7]

1975年(昭和50年)1月25日、東京三世社の撮影を濡木痴夢男と。撮影場所はけごん旅館SMセレクト1975年(昭和50年)7月号のカラーグラビアに[10]

1975年(昭和50年)9月、SMセレクト1975年(昭和50年)9月号に『縛り方教室』として1ページの白黒グラビア。同誌8月号のカラー撮影同行記に「そうだ、ボクは近いうちに「濡木痴夢男縛り方教室」というのを開こう。」とあり、9月号カラー撮影同行記には「(濡木痴夢男縛り方教室の)くわしいことは、セレクト編集部内.濡木痴夢男まで手紙でお問い合わせください。」とある。

1976年(昭和51年)9月1日〜10日、渋谷道頓堀劇場にてSM演劇闇の中の魔女』(出演:泉ユリ、作・藤見郁)[11]

1976年(昭和51年)11月14日、星野小麿の主催する写真撮影会KPCの分科会の1つ、『解語の花』に緊縛講師として招かれる。その後、1979年(昭和54年)まで20回に亘り、『解語の花』の緊縛講師[7]

1980年前後、美濃村(須磨)が倒れた後、10数冊のSM雑誌の縛りを一手に引き受ける。

1980年前後、『解語の花』の会員であった枷井克哉須賀忠不二秋夫濡木痴夢男と仕事を共にする豊幹一郎ユニットが「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負い出す。これが緊美研の母体となる[12][注 22]

1979年(昭和54年) 、S&Mコレクターに『豊幹一郎 撮影同行記』連載開始。

1980年(昭和55年)11月17日、遅くともこの時期から峰一也別冊SMファンSMコレクターなどの写真撮影をおこなっている[7]

1981年(昭和56年)12月8日、アルファ・インにて、峰一也監督、濡木痴夢男緊縛でアートビデオの撮影。女優は西本みゆき[7]

1982年(昭和57年)1月、S&Mコレクターに『豊幹一郎 縛り方入門』連載開始。

1982年(昭和57年)4月9日、峰一也監督のアートビデオ『淫らな悪魔』のビデオ撮影。女優は早見純(桂るみ)[注 23][7]麻来雅人が男優として参加している。

1982年(昭和57年)4月14日、バンビデオに初めて出演。『豊幹一郎の緊縛入門』『SMドキュメント 緊縛と蝋燭の色地獄』[注 24]を撮影。女優は水原小夜、カメラは峰一也[7]

1983年(昭和58年)、アートビデオから『濡木痴夢男の縛り方入門 』シリーズ発表。

1984年(昭和59年)12月29日、不二企画のビデオ第1作が熱海旅館で撮影。後に『雨合羽と長靴』として緊美研ビデオ第1号としてリストされる[13]

1985年(昭和60年)10月27日、不二秋夫が中心となり『杉下なおみの会』第1回会合を開く。第3回目から『緊縛美研究会』と名称を変更。

1987年(昭和62年)12月15日、アートビデオ『悪魔の遊園地6奇畜の舞い』(監督:峰一也、出演:君島玲)の撮影[7]

1987年(昭和62年)12月22日、アートビデオ『美畜IV』(監督:峰一也、出演:小泉ケイ)の撮影[7]

1988年(昭和62年)11月30-31日、アートビデオ『恋縛奇譚 くらげの骨』(監督:峰一也、出演:高原久美、中野D児)の撮影[7]

1989年(平成元年)、緊美研通信を発刊。

1989年(平成元年)頃、新宿の不二企画の事務所で定期的に『濡木流・縄道場』を開催[注 25][14]

1992年(平成4年)、丸尾末広原作の映画『地下幻燈劇画 少女椿』の美術を飯田豊一名で担当。

1999年(平成11年)7月、ぬれきしんぶんが創刊。

2000年代

2002年(平成14年)、(有)不二企画が設立される。

2003年(平成15年)、飯田豊一での浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』が国立演芸場の「第4回大衆芸能脚本募集―浪曲―」で佳作入選。9月23日に国立演芸場の「第309回特別企画公演」で玉川福太郎により初演[注 26][3]

2004年(平成16年)、S&Mスナイパー1月号より『濡木緊縛日記』の連載開始。

2005年(平成17年)、浅草木馬亭にて浪曲『ナミイの三線放浪記~嗚呼、懐かしの沖縄・南洋編~』出演:玉川美穂子、新城浪、脚本:姜信子、演出:飯田豊一[15]

2005年(平成17年)9月2日、マニア倶楽部のグラビア (2005年11・12月合併号に掲載)で約20年ぶり[16]濡木痴夢男杉浦則夫のコラボ。モデルは早乙女宏美

2006年(平成18年)1月、インターネットで『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話』の配信を開始(2009年12月の第297回まで続く)。

2007年(平成19年)、田端六六のペンネームで書いた『天狗のいたずら』が「第5回北区内田康夫ミステリー文学賞」の大賞を受賞[注 27]

2007年(平成19年)8月、インターネットで『濡木痴夢男のおしゃべり芝居』の配信を開始。2013年7月19日まで。

2008年(平成20年)、劇団「はなムスび」の『ぐるぐる溺れ』に田端六六の名でゲスト出演。2009年の『腹腹ボレロ』にも出演。

2009年(平成21年)5月、緊美研例会(163回)が再開。モデルは早乙女宏美沢戸冬木[注 28]

2009年(平成21年)9月12日、WEBスナイパーに『濡木痴夢男の猥褻快楽遺書』連載開始。2013年7月26日まで。

2010年(平成22年)6月10日、緊縛ドラマ「人質」製作[注 29][2]

2010年(平成22年)8月21日、横浜市歴史博物館で「立ち絵紙芝居」を実演(飯田豊一として。人形は佐倉真亜子。)

2010年(平成22年)9月16日、北とぴあ演劇祭・マイストーリー企画『飯田豊一 演劇の地下水脈を語る』於 北とぴあ。

2011年(平成23年)10月16日、「蛙の会」にて『飯田豊一 活動大写真『瞼の母』を公演。

2011年(平成23年)12月31日、濡木痴夢男早乙女宏美中原るつ山之内幸からなるユニット『ともしび』で写真集『夕日の部屋』を製作。

2012年(平成24年)4月1日、ブラックハートにて『濡木痴夢男の縄研究会』開催。

2013年(平成25年)9月9日、永眠。

エピソード

  • アートビデオの初期作品『狂い泣く肉奴隷』、『淫狼の牙』、『セーラー服縄奴隷』などでは、緊縛師ではなく男優として出演している[注 30]。『狂い泣く肉奴隷』の撮影は遅くとも1980年(昭和55年)夏から暮れにかけての半年の間に撮影されている[注 31]
  • 1982年(昭和57年)、豊幹一郎[注 2]として、バンビデオにSMドキュメント作品[注 30]
  • 十代後期から二十代前半までは、いささか過激な、左翼系の文学青年だった(濡木痴夢男のおしゃべり芝居#113)。
  • 尊敬する作家は車谷長吉(濡木痴夢男のおしゃべり芝居#114)。
  • 伝統話芸の伝承を目指す話術研究会「蛙の会」の会員。活弁や紙芝居の公演をおこなっている。少なくとも2003年からの活動記録がインターネット上に流れている。早乙女宏美中原るつらと。
  • 都築響一『珍日本超老伝』(筑摩書房, 2011)で取り上げられている。

濡木語録

  • 私は「シロウト」こそがこの世界におけるホンモノの「プロ」だと思っている[17]

代表作

小説

作品は膨大な数に上るので一部をリストしている

色々な絵師とのコラボレーション

エッセイ

撮影記

グラビア

挿絵

書籍

写真集

ぬれきしんぶん

1999年(平成11年)頃に発行されていた手作り小雑誌。ぬれきしんぶんのページ参照。

映画

Vシネマ

  • 縄師事件簿』(1996)(監督:星野仁、出演:螢雪次朗、生田依子、白石ひとみ、軌保博光、安永亜衣、渡辺正行。緊縛:濡木痴夢男)

ビデオ・DVD

(作品は膨大な数。一部をランダムに書いている)

DVD版「緊縛美」

DVD版「緊縛美」参照

浪曲台本

緊縛教材

濡木痴夢男緊縛教材にまとめてある。

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 都築響一珍日本超老伝』( 筑摩書房, 2011.7.8)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 濡木痴夢男『濡木痴夢男のおしゃべり芝居
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 濡木痴夢男「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
  4. 藤見郁ロマンチックなサディズム奇譚クラブ1954年(昭和29年)7月号, p36
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 中原るつ『濡木痴夢男のもう1つの顔』 濡木痴夢男『緊縛★命あるかぎり』(河出書房新社, 2008)のあとがき。
  6. 河原梓水飯田豊一(濡木痴夢男)氏の軌跡とその仕事 -新出インタビュー原稿によせて-』立命館文學, 674:14-53, 2021.
  7. 7.00 7.01 7.02 7.03 7.04 7.05 7.06 7.07 7.08 7.09 7.10 7.11 7.12 7.13 7.14 7.15 7.16 7.17 濡木痴夢男仕事メモ
  8. 深井俊彦舞台の上のマゾ女優SMキング1973年(昭和48年)2月号
  9. 濡木痴夢男『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話』
  10. 濡木痴夢男カラー撮影同行記SMセレクト1975年(昭和50年)7月号。
  11. SMセレクト 1976年(昭和51年)10月号, p179
  12. 秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)
  13. 濡木痴夢男『上野・熱海旅館と広咲千絵緊美研通信第18号
  14. 春原悠理ブログより。
  15. 桂歌之助日記
  16. 濡木痴夢男x杉浦則夫緊縛美の考察マニア倶楽部2005年11・12月合併号。インタビューは早乙女宏美
  17. 濡木痴夢男緊縛★命あるかぎり』(河出書房新社, 2008)

注釈

  1. 埼玉のミサトスタジオでの『振袖緊縛・誘拐された悠理』(緊美研ビデオ。春原悠理出演)の撮影現場。春原悠理さん提供。
  2. 2.0 2.1 豊幹一郎稲田乾二は緊縛が濡木痴夢男、カメラが枷井克哉、カメラアシスタントが不二秋夫の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体(日本緊縛写真史より)。
  3. SMグラフティにカメラ:枷井克也、繩師:藤村豊三の組合せで名前が出ている。おそらく、枷井克哉濡木痴夢男の変名であろう。
  4. 勤め人。祖父が創業した和菓子製造販売店を、芸道楽で潰してしまった
  5. 浅草竜泉寺町の二階建ての木造家屋に両親と弟妹の5人暮らし。江戸川乱歩、夢野久作、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三、谷崎潤一郎をくり返し読む。
  6. 太平洋画会会員の間所一郎の指導を受ける。広報部では巡回慰問団の接待もし、また自前の「広報劇団」も組織していた
  7. 亀有駅近くにある映画館を改造した芝居小屋を本拠地。かつて、本所緑町にあった劇場を拠点としていた「花形歌舞伎一座」が、空爆で焼失したために亀有に避難して「新生花形歌舞伎」(座頭:坂東鶴蔵、坂東竹若)を設立。。バックには「大川芸能社」。この頃、濡木は浅草から千葉県松戸市に移っている
  8. 劇団名は明記されていないが1928年(昭和3年)〜1980年(昭和45年)活動していた「劇団東童」と推測される。
  9. 「「わが歌に翼あれば」というようなタイトルだったように記憶」とある。該当する作品は未確認。『僕の父さん』(阿部豊監督, 1946)が1つの可能性。
  10. 中原は『緊縛★命あるかぎり』のあとがきで、日本発のPR誌と位置づけ。
  11. 喜多玲子の挿絵を強く希望していたが、須磨利之が離脱したあとだったためにかなわず。代わりに都築峰子が挿絵。
  12. 「東京に戻る列車の中で執筆」とある(「緊縛命ある限り」あとがき中原るつ)。
  13. 「ときどき深井自身もその「緊縛プレイ」に参加した。」(おしゃべり芝居、20回)
  14. 須磨に連れられ団氏の自宅を訪問。新橋とか、銀座の酒場でも、数回ごちそうになった。「縄」に対する関心がないことがわかり、行きたがる美濃村の誘いを断りがち。
  15. 5日間で200枚書き、へとへとになる。
  16. 吉田に依頼」にあるように出来レース。四馬孝の絵をつけることを提案されたが拒否して自作コラージュ。
  17. 返事は保留したが、その後吉田稔の方から、採算が採れないということで計画中止。
  18. 『緊縛ナイショ話・61』では1960年となっている。
  19. 渋谷宮益坂裏のバー「玲子」のママと記されている。
  20. 裏窓の編集長を引き受けて1ヶ月後とある。須磨が縛ったあとに引き続き縛る。
  21. 濡木によると八木はそれまで実際の女性が縛られた姿を見たことがなかった。渋谷宇田川町の割烹旅館『千春』でおこなわれた。「実際の女体を縄で縛ったのはこの時が初めてである」
  22. 『日本緊縛写真史 1』では1970年頃となっているが、これは1980年頃の誤記であろう。
  23. だとすると渡辺観世濡木痴夢男の変名。
  24. それぞれ「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」として発売された模様。
  25. 毎週月曜の夕方。モデルは春原悠理。
  26. 愛読書である伊藤晴雨の『いろは引・江戸と東京風俗野史』に題材をもらう。
  27. この作品は内田康夫『はじめての小説―内田康夫&東京・北区が選んだ気鋭のミステリー』(実業之日本社, 2008)で読むことが出来る。
  28. 163回が5月10日、164回が7月12日、165回が9月27日におこなわれている。この間、6月9日は沢戸冬木の『悲願』が撮影されている。
  29. 企画:中原るつ、演出:山之内幸、出演:沢戸冬木霞紫苑濡木痴夢男。撮影:山芽史図。スチール写真はKeiマニア倶楽部2010年9月号と11月号に発表。なお、スチール撮影現場にはMaster "K"が立ち会っている。
  30. 30.0 30.1 マンボウ資料館』より。
  31. 麻来雅人のページ参照)
  32. 国立演芸場主催の浪曲台本募集での入賞作品。二代目玉川福太郎のお気に入りの作品。

つながり

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