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1989年(平成元年)、[[緊美研通信]]を発刊。
1989年(平成元年)、[[緊美研通信]]を発刊。


1989年(平成元年)頃、新宿の[[不二企画]]の事務所で定期的に『濡木流・縄道場』を開催<ref group="注">毎週月曜の夕方。モデルは春原悠理。</ref><ref name="ex01">[http://yourisunohara.blog35.fc2.com/blog-entry-82.html 春原悠理ブログ]より。</ref>。
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1992年(平成4年)、[[丸尾末広]]原作の映画『地下幻燈劇画 少女椿』の美術に飯田豊一の名が''(同姓別人かもしれない。要確認)''
1992年(平成4年)、[[丸尾末広]]原作の映画『地下幻燈劇画 少女椿』の美術に飯田豊一の名が''(同姓別人かもしれない。要確認)''

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濡木痴夢男 (1930-2013)

ぬれき ちむお、1930年(昭和5年)1月13日-2013年(平成25年)9月9日。昭和SM文化形成の中心人物。1950年代から2013年まで、編集者、緊縛師、文筆家として幅広い分野で精力的に活動。杉浦則夫とのコンビで昭和SMの完成されたスタイルを確立。緊縛技法の体系化にも貢献。

概要

緊縛師、文筆家、絵師、編集者。「緊縛の濡木」としてのイメージが強いが「濡木痴夢男」の名前が誕生したのは1973年(昭和48年)、濡木44歳と、比較的遅い時期である。「濡木痴夢男」誕生以前から既に藤見郁、飯田豊吉その他多くの変名で編集者、文筆家、絵師として、昭和SM文化の形成に重要な役割を果たしており、古い世代には藤見郁や飯田豊吉の名前の方が聞き慣れたものとなっている。その活動は1953年(昭和28年)の奇譚クラブへの読者投稿から始まるが、須磨利之に誘われ裏窓の編集(後に編集長)に携わるようになってから、50年代、60年代のSM文化の中心的存在となる。70年代に入ってからも数多くのSM雑誌、SMビデオの緊縛を担当し、濡木痴夢男の緊縛がその後の緊縛師に与えた影響は計り知れない。1970-1980年代の活動記録である『濡木痴夢男仕事メモ』は、当時のSM界の動向を知る貴重な資料となっている。また、緊縛に関する教材も数多く製作しており、それらは『濡木痴夢男緊縛教材』にまとめてある。80歳を過ぎてもなお、執筆、映像製作、古典芸能の伝承になみなみならぬ情熱を燃やし、昭和SM文化の「活動する」伝説であった。2013年(平成25年)9月9日永眠。

別名

主なもの

Chimuo Nureki, 飯田豊一(本名)、藤見郁奇譚クラブ風俗奇譚SM奇譚裏窓SMセレクト他)、飯田豊吉裏窓耽奇小説に官能サスペンス)、フーさん(藤見郁の愛称)、青山三枝吉奇譚クラブ風俗奇譚)、藤木仙治奇譚クラブに文、絵、映画スチールを提供、サスペンスマガジン)、豊幹一郎稲田乾二[注 1]

その他:あ〜さ行

赤木恵介、 飯田豊田郎、 市川国彦、 奥村圭(サスペンス&ミステリーマガジン)、 影村一鬼(SMコレクター)、 北園透一郎(檸檬社)、 笹木恵一(風俗奇譚)、 島木恵子(風俗奇譚)、 白鳥大蔵、 菅原峰夫、 豊田一狼、

その他:た〜は行

田端六六、 塔婆十郎(奇譚クラブ)、 富永うたこ、 野呂圭太、 羽島七郎、 早蕨亮太、 弘岡三千代、 ホーハンター、

その他:ま〜わ行

曲二十八、 真木不二夫(奇譚クラブの「黄色オラミ誕生」で有名)、 松平荘司(裏窓)、 三輪喜久夫(SMファン)、 南村蘭(風俗奇譚)、 目黒天平、 森脇光(裏窓)、 八重垣陽一、 矢桐重八奇譚クラブ裏窓)、 若杉薫、

略歴

誕生〜青年時代

1930年(昭和5年)、浅草に生まれる。3代続いての浅草育ち。芝居好きの父親[注 2]の影響で小学生入学前から芝居小屋に出入り[1]。両親弟妹と共に浅草竜泉町に住む[1]

1938年(昭和13年)頃、「女相撲」の興行を見たことが記憶に残る[2]

1940年(昭和15年)、小学校5年生の時、高畠華宵による少年が後ろ手に縛られる画と、作者不詳の少年が切腹を思わせる格好をしている画に心を奪われる[2][注 3]

1941年(昭和16年)、日米開戦と共に荒川区三河町の長屋に引っ越し[1]

1942年(昭和17年)頃、東京保善商業学校に入学。

1940年代中頃、学徒動員で配属された日立製作所亀有工場の厚生部広報課でポスターを描く[2][注 4]。「日立の広報劇団」にも参加[1]

1945年(昭和20年)、終戦。「新生花形歌舞伎」の女形歌舞伎役者、市川福之助の弟子となる[2][注 5]

1945年(昭和20年)頃、千葉県松戸市下矢切にあった日立製作所の社員住宅に引っ越していた[1]

1945年(昭和20年)、浅草で伊藤晴雨に会う[3]

1946年(昭和21年)頃、3ヶ月ほど、「桜仙太郎」という名前で旅一座に参加して各地巡業[1]

1946年(昭和21年)、歌舞伎劇団辞し、児童劇団に入団[2][注 6]。古川緑波、加賀美一郎共演の東宝映画にエキストラ出演したのが最初の仕事[2][注 7]

1947年(昭和22年)、「空気座」による『肉体の門』の舞台を何度も観る[4]

奇譚クラブ時代

1953年(昭和28年)頃、東京のデザイン会社から名古屋に派遣。アパレル関係の宣伝雑誌[注 8]を制作。この頃奇譚クラブを知る[5]

1953年(昭和28年)、『悦虐の旅役者』が奇譚クラブ11月号に採用[注 9]。ペンネームは青山三枝吉。

1953年(昭和28年)頃、市川鈴本での『火あぶり』の公演時に、伊藤晴雨を目撃。

1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号が発禁処分。真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(八木静男挿絵)の内容が問題となり発売4日後に発禁[5]

1955年(昭和30年)、発行元を天星社に変更した復刊奇譚クラブ10月号(白表紙時代)の表紙デザインを担当。中の小説の多くも濡木が書いている。

裏窓時代

1957年(昭和32年)、赴任先の名古屋から東京に戻る。戻る少し前に松坂屋の本屋で『裏窓』を見つけ、喜多玲子の名を見つける[5]

1957年(昭和32年)11月、『スタイルノート』(濡木痴夢男の制作していたアパレル関係の宣伝雑誌)11月号の表紙に映っている[1]

1957年(昭和32年)12月、『青い顔の男』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』に掲載[注 10]。その後、奇譚クラブ裏窓に並行して投稿。このあとに、濡木は江古田の裏窓編集室に須磨利之を初訪問している[3]

1958年(昭和33年)、『血まみれ観音像』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』1月号に、『血まみれマリー』が藤見郁のペンネームで5月号に掲載。

1958年(昭和33年)、須磨から執筆依頼され、『地獄の乳房』を5月号〜9月号に連載。これを機にプロに転向。

1958年(昭和33年)頃、須磨と共に「緊縛プレイ」の実践。相手は、深井俊彦が支配人をつとめる新宿フランス座の踊り子[注 11]

1958年(昭和33年)頃、団鬼六氏と初対面[注 12]

1958年(昭和33年)12月、真木不二夫の名で100号突破懸賞『白い玩具』を奇譚クラブ12月号, p40に発表。

1959年(昭和34年)、この頃には、ほぼ原稿収入だけで生活をできるようになっている[6]

1959年(昭和34年)、裏窓叢書第一集飯田豊吉『狂異地獄肌』を書き上げる。装幀は須磨利之、挿絵は中島喜美[6][注 13]

1959年(昭和34年)、吉田に依頼され、『乳房に火をつけるな』を藤木仙治の名前で奇譚クラブ8月号100号突破懸賞として投稿[注 14]

1959年(昭和34年)7月、テレビ番組「夜のプリズム 愛憎の罠」を飯田豊吉名で執筆。

1960年(昭和35年)、『地底の女奴隷市」の挿絵に失望し、奇譚クラブにはもう寄稿せずと決心[3]。ただしその後も白鳥大蔵の名で書いている。

1960年(昭和35年)、吉田奇譚クラブの東京進出と編集長の打診を受ける[注 15][3]

1961年(昭和36年)9月20日、久保藤吉と面談し、かなり良い条件で久保書店に入社[6]裏窓1962年(昭和37年))1月号から須磨の後を継いで編集長に[注 16]

1961年(昭和36年)、須磨利之の押しかけ女性弟子である町田美沙[注 17]を初めて縛る[注 18][3]

1961年(昭和36年)、須磨利之濡木痴夢男深井俊彦で、八木静男に縛った女性を見せる[注 19][3]

1963年(昭和38年)、ニュー内外ミュージックホールでおこなわれていた縛りを含む芝居の台本を書いており、裏窓にいくつかシナリオが掲載されている。

1964年(昭和39年)、裏窓1965年(昭和40年))1月号で裏窓が廃刊。

1964年(昭和39年)8月、耽美芸術グラフを編集発行責任者:藤見郁で発行。

1965年(昭和40年)2月、サスペンスマガジンを創刊。

1967年(昭和42年)、連続テレビドラマ『戦国無宿』の脚本(要確認)

1968年(昭和43年)、奇譚クラブへの投稿再開。

1968年(昭和43年)、この頃、青木マリ水咲陽子の属する、ピンク劇団「劇団・炎」の座付き作者として台本を書いている。いくつかの台本はサスペンスマガジンに掲載。

1969年(昭和44年)、須磨と共に久保書店を去る[5]

1969年(昭和44年)、第二書房からナイトブックシリーズ『藤見郁小説集』全10冊が刊行。装幀・カットは須磨利之

1969年(昭和44年)、連続テレビドラマ『ブラックチェンバー』の脚本(要確認)

1970年(昭和45年)、藤見郁の名で、奇譚クラブ1月号から『地獄のホテル』を連載。

1970年(昭和45年)、須磨と共に虻プロを立ち上げあぶめんとの編集長に。社長は須磨[5]。同年9月にあぶめんとは廃刊。

1971年(昭和46年)、双葉社の月刊小説雑誌を2冊編集していた[6]

1971年(昭和46年)12月、SMファン創刊号に藤見郁名義で『人斬り』(挿絵は秋吉らん)

緊縛師時代

1972年(昭和47年)、SMファン別冊SMファンにいろいろな変名で小説を起稿するが、緊縛写真の撮影はまだ数えるほどしかおこなっていない[6]

1972年(昭和47年)11月1日、SMセレクトのための第1回目の撮影が東京三世社で行われている[6]

1973年(昭和48年)、SMセレクト2月号に濡木痴夢男の名が初登場。中国の古い言葉で『見果てぬ夢を追う男』」という意味をもつ[7]。『カラー撮影同行記』などを連載。

1973年(昭和48年)11月16日、SMセレクトの撮影で花沢正治花沢スタジオを初めて訪問[6]

1973年(昭和48年)9月20日、SMファンのための撮影も本格化していく[6]

1974年(昭和49年)6月26日、SMキングの最初の撮影を百花苑にておこなっている[6]

1974年(昭和49年)8月4日、司書房の撮影で杉浦則夫と初の仕事。撮影場所はけごん旅館でモデルはトンボ[6]

1976年(昭和51年)11月14日、星野小麿の主催する写真撮影会KPCの分科会の1つ、『解語の花』に緊縛講師として招かれる。その後、1979年(昭和54年)まで20回に亘り、『解語の花』の緊縛講師[6]

1980年前後、美濃村(須磨)が倒れた後、10数冊のSM雑誌の縛りを一手に引き受ける。

1980年前後、『解語の花』の会員であった枷井克哉須賀忠不二秋夫濡木痴夢男と仕事を共にする豊幹一郎ユニットが「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負い出す。これが緊美研の母体となる[8][注 20]

1980年(昭和55年)11月17日、遅くともこの時期から峰一也別冊SMファンSMコレクターなどの写真撮影をおこなっている[6]

1981年(昭和56年)12月8日、アルファ・インにて、峰一也監督、濡木痴夢男緊縛でアートビデオの撮影。女優は西本みゆき[6]

1982年(昭和57年)4月9日、峰一也監督のアートビデオ『淫らな悪魔』のビデオ撮影。女優は早見純(桂るみ)[注 21][6]麻来雅人が男優として参加している。

1982年(昭和57年)4月14日、バンビデオに初めて出演。『豊幹一郎の緊縛入門』『SMドキュメント 緊縛と蝋燭の色地獄』[注 22]を撮影。女優は水原小夜、カメラは峰一也[6]

1984年(昭和59年)12月29日、不二企画のビデオ第1作が熱海旅館で撮影。後に『雨合羽と長靴』として緊美研ビデオ第1号としてリストされる[9]

1985年(昭和60年)10月27日、不二秋夫が中心となり『杉下なおみの会』第1回会合を開く。第3回目から『緊縛美研究会』と名称を変更。

1987年(昭和62年)12月15日、アートビデオ『悪魔の遊園地6奇畜の舞い』(監督:峰一也、出演:君島玲)の撮影[6]

1987年(昭和62年)12月22日、アートビデオ『美畜IV』(監督:峰一也、出演:小泉ケイ)の撮影[6]

1988年(昭和62年)11月30-31日、アートビデオ『恋縛奇譚 くらげの骨』(監督:峰一也、出演:高原久美、中野D児)の撮影[6]

1989年(平成元年)、緊美研通信を発刊。

1989年(平成元年)頃、新宿の不二企画の事務所で定期的に『濡木流・縄道場』を開催[注 23][10]

1992年(平成4年)、丸尾末広原作の映画『地下幻燈劇画 少女椿』の美術に飯田豊一の名が(同姓別人かもしれない。要確認)

1999年(平成11年)7月、ぬれきしんぶんが創刊。

2000年代

2002年(平成14年)、(有)不二企画が設立される。

2003年(平成15年)、浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』に対して国立演芸場から賞。9月23日に国立演芸場で玉川福太郎により初演[注 24][3]

2005年(平成17年)、『ナミイの三線放浪記~嗚呼、懐かしの沖縄・南洋編~』於:浅草木馬亭の脚本(要確認)

2006年(平成18年)1月、インターネットで『濡木痴夢男の緊縛ナイショ話』の配信を開始(2009年12月の第297回まで続く)。

2007年(平成19年)、田端六六のペンネームで書いた『天狗のいたずら』が「第5回北区内田康夫ミステリー文学賞」の大賞を受賞[注 25]

2007年(平成19年)8月、インターネットで『濡木痴夢男のおしゃべり芝居』の配信を開始。

2008年(平成20年)、劇団「はなムスび」の『ぐるぐる溺れ』に田端六六の名でゲスト出演。2009年の『腹腹ボレロ』にも出演。

2009年(平成21年)5月、緊美研例会(163回)が再開。モデルは早乙女宏美、沢戸冬木[注 26]

2010年(平成22年)6月10日、緊縛ドラマ「人質」製作[注 27][2]

2010年(平成22年)8月21日、横浜市歴史博物館で「立ち絵紙芝居」を実演(飯田豊一として。人形は佐倉真亜子。)

2010年(平成22年)9月16日、北とぴあ演劇祭・マイストーリー企画『飯田豊一 演劇の地下水脈を語る』於 北とぴあ。

2011年(平成23年)10月16日、「蛙の会」にて『飯田豊一 活動大写真『瞼の母』を公演。

2011年(平成23年)12月31日、濡木痴夢男早乙女宏美中原るつ山之内幸からなるユニット『ともしび』で写真集『夕日の部屋』を製作。

2012年(平成24年)4月1日、ブラックハートにて『濡木痴夢男の縄研究会』開催。

2013年(平成25年)9月9日、永眠。

エピソード

  • アートビデオの初期作品『狂い泣く肉奴隷』、『淫狼の牙』、『セーラー服縄奴隷』などでは、緊縛師ではなく男優として出演している[注 28]。『狂い泣く肉奴隷』の撮影は遅くとも1980年(昭和55年)夏から暮れにかけての半年の間に撮影されている[注 29]
  • 1982年(昭和57年)、豊幹一郎[注 1]として、バンビデオにSMドキュメント作品[注 28]
  • 十代後期から二十代前半までは、いささか過激な、左翼系の文学青年だった(濡木痴夢男のおしゃべり芝居#113)。
  • 尊敬する作家は車谷長吉(濡木痴夢男のおしゃべり芝居#114)。
  • 伝統話芸の伝承を目指す話術研究会「蛙の会」の会員。活弁や紙芝居の公演をおこなっている。少なくとも2003年からの活動記録がインターネット上に流れている。早乙女宏美中原るつらと。
  • 都築響一『珍日本超老伝』(筑摩書房, 2011)で取り上げられている。

代表作

小説

作品は膨大な数に上るので一部をリストしている

エッセイ

撮影記

挿絵

書籍

ぬれきしんぶん

1999年(平成11年)頃に発行されていた手作り小雑誌。ぬれきしんぶんのページ参照。

映画

ビデオ・DVD

(非常に莫大な数)

DVD版「緊縛美」

DVD版「緊縛美」参照

浪曲台本

緊縛教材

濡木痴夢男緊縛教材にまとめてある。

参考資料

注釈

  1. 1.0 1.1 豊幹一郎稲田乾二は緊縛が濡木痴夢男、カメラが枷井克哉、カメラアシスタントが不二秋夫の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体(日本緊縛写真史より)。
  2. 勤め人。祖父が創業した和菓子製造販売店を、芸道楽で潰してしまった
  3. 浅草竜泉寺町の二階建ての木造家屋に両親と弟妹の5人暮らし。江戸川乱歩、夢野久作、大下宇陀児、甲賀三郎、海野十三、谷崎潤一郎をくり返し読む。
  4. 太平洋画会会員の間所一郎の指導を受ける。広報部では巡回慰問団の接待もし、また自前の「広報劇団」も組織していた
  5. 亀有駅近くにある映画館を改造した芝居小屋を本拠地。かつて、本所緑町にあった劇場を拠点としていた「花形歌舞伎一座」が、空爆で焼失したために亀有に避難して「新生花形歌舞伎」(座頭:坂東鶴蔵、坂東竹若)を設立。。バックには「大川芸能社」。この頃、濡木は浅草から千葉県松戸市に移っている
  6. 劇団名は明記されていないが1928年(昭和3年)〜1980年(昭和45年)活動していた「劇団東童」と推測される。
  7. 「「わが歌に翼あれば」というようなタイトルだったように記憶」とある。該当する作品は未確認。『僕の父さん』(阿部豊監督, 1946)が1つの可能性。
  8. 中原は『緊縛★命あるかぎり』のあとがきで、日本発のPR誌と位置づけ。
  9. 喜多玲子の挿絵を強く希望していたが、須磨利之が離脱したあとだったためにかなわず。代わりに都築峰子が挿絵。
  10. 「東京に戻る列車の中で執筆」とある(「緊縛命ある限り」あとがき中原るつ)。
  11. 「ときどき深井自身もその「緊縛プレイ」に参加した。」(おしゃべり芝居、20回)
  12. 須磨に連れられ団氏の自宅を訪問。新橋とか、銀座の酒場でも、数回ごちそうになった。「縄」に対する関心がないことがわかり、行きたがる美濃村の誘いを断りがち。
  13. 5日間で200枚書き、へとへとになる。
  14. 吉田に依頼」にあるように出来レース。四馬孝の絵をつけることを提案されたが拒否して自作コラージュ。
  15. 返事は保留したが、その後吉田稔の方から、採算が採れないということで計画中止。
  16. 『緊縛ナイショ話・61』では1960年となっている。
  17. 渋谷宮益坂裏のバー「玲子」のママと記されている。
  18. 裏窓の編集長を引き受けて1ヶ月後とある。須磨が縛ったあとに引き続き縛る。
  19. 濡木によると八木はそれまで実際の女性が縛られた姿を見たことがなかった。渋谷宇田川町の割烹旅館『千春』でおこなわれた。「実際の女体を縄で縛ったのはこの時が初めてである」
  20. 『日本緊縛写真史 1』では1970年頃となっているが、これは1980年頃の誤記であろう。
  21. だとすると渡辺観世濡木痴夢男の変名。
  22. それぞれ「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」として発売された模様。
  23. 毎週月曜の夕方。モデルは春原悠理。
  24. 愛読書である伊藤晴雨の『いろは引・江戸と東京風俗野史』に題材をもらう。
  25. この作品は内田康夫『はじめての小説―内田康夫&東京・北区が選んだ気鋭のミステリー』(実業之日本社, 2008)で読むことが出来る。
  26. 163回が5月10日、164回が7月12日、165回が9月27日におこなわれている。この間、6月9日は沢戸冬木の『悲願』が撮影されている。
  27. 企画:中原るつ、演出:山之内幸、出演:沢戸冬木、霞紫苑濡木痴夢男。撮影:山芽史図。スチール写真はKeiマニア倶楽部2010年9月号と11月号に発表。なお、スチール撮影現場にはMaster "K"が立ち会っている。
  28. 28.0 28.1 マンボウ資料館』より。
  29. 麻来雅人のページ参照)
  30. 国立演芸場主催の浪曲台本募集での入賞作品。二代目玉川福太郎のお気に入りの作品。

つながり

濡木痴夢男仕事メモ 濡木痴夢男緊縛教材 須磨利之 吉田稔 枷井克哉 不二秋夫 深井俊彦 森下高茂 椋陽児 杉浦則夫 早乙女宏美 仙田弘 奈加あきら 麻来雅人 黒田透 中原るつ

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