SMショーの歴史
歴史
18世紀(江戸時代)、人形浄瑠璃や歌舞伎などの折檻シーンが一部の人の心を揺さぶっていたと思われる。1740年(元文五年)並木宗輔作『鶊山姫捨松』の三段目「中将姫雪責の段」や1772年(安永元年)の新内『明烏夢泡雪』など。
1889年(明治22年)6月12日[注 1]、大阪新明座[注 2]で公演で角藤定憲を座長とした壮士芝居が誕生。1903年(明治36年)頃まで続く壮士芝居の1つの特徴として、女の責め場が多用されたことがあげられる[1]。
1891年(明治24年)11月、浅草吾妻座で依田学海の済美館「男女合同改良演劇」による壮士芝居「政党美談淑女の操」が上演。この芝居に責め場があったかどうか不明だが、小説雑誌「都の花」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された際、小林永濯が責め絵的な挿絵を描いている[2]。
1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での『日清戦争・夜討之仇譚』の看護婦の拷問シーンが話題となり、同種の拷問芝居がブームになる[3][1][注 3]。
1921年(大正10年)、鈴木泉三郎が伊藤晴雨をモデルとした『火あぶり』を早稲田大学紀要(要確認)に発表。責め場を含む戯曲で、戦前・戦後に上演されていた[4]。
1925年(大正14年)夏、伊藤晴雨が責め専門の劇団を設立[注 4][5]。
1933年(昭和8年)、伊藤晴雨が2度目の責め専門の劇団設立[注 5][5]。
1937年(昭和12年)頃、伊藤晴雨が3度目の劇団設立[注 6][5]。
1947年(昭和22年)8月1日-15日に帝都座五階劇場にて「空気座」による『肉体の門』公演[6]。リンチシーンが話題に。
1951年(昭和26年)暮、百万弗劇場が伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』を上演し大ヒット[7][8]。
1952年(昭和27年)、百万弗劇場での伊藤晴雨の責め芝居のヒットに刺激され、浅草フランス座で『毒婦暴状傳』を上演し大ヒット[注 7]続いて『妖婦火あぶり地蔵』[7]。
1952年(昭和27年)、奇譚クラブ11月号, p64の朝見速夫『ストリップ変態記』でサドマゾを取り入れたストリップショーのことが紹介。
1953年(昭和28年)、4度目の劇団「責めの劇団」を結成。中村座を活動拠点とする[5]。
1953年(昭和28年)6月4日、「責めの劇団」の第1回公演を市川鈴本でおこなう[注 8][5]。
1953年(昭和28年)7月11日、「責めの劇団」の第2回公演を中村座でおこなう[注 9][9][注 10][5]。
1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号, グラビアに『捕物の舞台写真』が紹介。
1954年(昭和29年)、新劇の新協劇団による『山の民』に拷問シーン[10]。
1955年(昭和30年)、奇譚クラブ2月号, p283に浅草の大衆劇場で上演されていた音羽照子一座の責め芝居に関する観劇レポート。伊藤晴雨が関係したような記述。
1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)すぎに「残酷ショー」が流行る。ロベルト秋山(=ローズ秋山?)、伊藤残酷ショー(=伊藤一夫?)。鉄の五郎ショーとか次々現れた[11][注 11]。
1964年(昭和39年)年頃、向井一也が青木順子ショウを東京や名古屋で。
1964年(昭和39年)、辻村隆の『SMカメラハント』第1回目のモデルが青木順子。
1965年(昭和40年)頃、深井が「残酷ショー」を始める。全盛期は30組ほど存在[12]。
1965年(昭和40年)頃、ローズ秋山が「残酷ショー」で有名に。
1966年(昭和41年)、ピンク実演の走りとされるカシバシ座での劇団「赤と黒」の芝居[13]。
1967年(昭和42年)、風俗奇譚9月号に『劇団赤と黒「拷問くの一」より』
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号, p246に「青木順子のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。
1967年(昭和42年)、銀座地球座が邦画名画座からピンク映画上映館に路線変更すると同時に、ピンク実演を開始。こけら落としに内田高子、松井康子、谷ナオミが舞台挨拶[13]。
1968年(昭和43年)、向井一也が劇団「新しい波」の設立[14][注 12]。
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ7月号の「最近の縛り演劇・映画から」で忍妙子の「地獄絵ショー」が紹介。
1968年(昭和43年)、既にカシバシ座でのピンク実演に劇団「炎」[注 13]が加わっている[13]。
1969年(昭和44年)、奇譚クラブ1月号,p233「奇クサロン」に谷ナオミの実演の観劇レポートが[注 14]。
1969年(昭和44年)10月28日、ローズ秋山が辻村隆、福田和彦と11PM「サド侯爵もびっくり」に出演[15]。
1970年(昭和45年)、奇譚クラブ2月号, p234にローズ秋山が「大阪ダイコー、東大阪市のコーセー劇場で公演」とある。
1970年(昭和45年)、奇譚クラブ9月号, p247に池袋アートシアターでの人間座「奴隷」の観劇レポート。
1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場にいた杉浦則夫が団鬼六の鬼プロに参加。たこ八郎が中心の鬼プロピンク実演の第1回目の制作に関わる。
1972年(昭和47年)2月、玉井敬友が関西で劇団スキャンダルを旗揚げ。
1973年(昭和48年)頃、浅草フランス座でも前衛舞踏系の踊りやSM系のショーがおこなわれる[16]。
1974年(昭和49年)頃、向井一也の「オリジナルの会」[注 15]を開催しており、長田英吉が影響を受ける。
1974年(昭和49年)、桜田伝次郎、黒川真由美が劇団世界劇場(GSG)旗揚げ[注 16]。
1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「奇クサロン」に舟橋一郎「向井一也・青木順子の『サディストの告白』を観て」が掲載。
1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「編集部便り」に「大阪キタのサパークラブ『スキャンダル』で(向井一也氏の)『サディストの告白』が8月末に公開」とある。
1976年(昭和51年)春、玉井敬友が六本木に劇団「シアタースキャンダル」設立。
1977年(昭和52年)、桜田伝次郎、黒川真由美、桜田信でGSG企画[注 17]を発足。西荻窪、大塚の『SMボンバー』、中野の『東京SM倶楽部』でGSG企画のSMショー[17]。
1978年(昭和53年)、西荻窪のビルの地下で行われていたGSG企画のショーで、明智伝鬼と桜田伝次郎、桜田信が出会う。ショーの後、明智伝鬼が縛りのテクニックを披露[17]。
1978年(昭和53年)頃、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得し、SMショーが始まる[注 18][11]。
1978年(昭和53年)11月1日、玉井敬友のシアタースキャンダルが「春風座」でSMショー。
1979年(昭和54年)、賀山茂が六本木にSAMMをオープンしてSMショー。
1980年(昭和55年)、葵マリが赤坂ブルーシャトーをオープンしてSMショー。
1980年(昭和55年)頃、明智伝鬼が「特別会員の会」を組織[17]。
1980年(昭和55年)12月、川上譲治がモダンアートにでラー企画のメンバーを使った前衛SMショー『胡弓&カラス』を上演して大人気となる[18]。
1981年(昭和56年)頃[注 19]川上譲治企画によるスカイ劇場SM大会の記者会見を兼ねたイベントを新宿ACB会館でおこなう。長田英吉、玉井敬友、GSG企画が出演し、ラー企画によるショーも[19]。
1985年(昭和60年)、池袋のスカイ劇場サヨナラ特別公演で「根暗童子夫妻のSMショー」[20]。
1987年(昭和62年)7月、明智伝鬼がスタジオファントムを組織[21]。中野クィーンで定期的にショーを[17]。
1987年(昭和62年)9月、明智伝鬼が「SM実験劇場スタジオファントム」を旗揚げ。最初月に1回、88.1より月2回の定例公演として97年6月までの10年間の長期公演[21]。
1989年(昭和64年)、明智伝鬼が一般会員撮影会を発足。不定期に野外撮影会。その後「SFの会」「伝鬼の会」など四つの会を主宰[21]。
1998年(平成10年)頃から、新宿ロフトプラスワンで長田英吉、早乙女宏美、明智伝鬼、乱田舞、神浦匠、ミラ狂美、立花マリ、蕾火等がショーを開催。
2003年(平成15年)11月1日、ショーアップ大宮にて川上譲治企画による『ザ・SM』シリーズが始まる。
2005年(平成17年)3月11日−20日、DX歌舞伎町にて『スーパーDX SM伝説 誕生篇』。
2010年(平成22年)12月23日-26日、シアターPOOにて松本格子戸企画による『ショーアップ大宮レジェンド・SM SUMMIT 2010』が開催。
引用文献
- ↑ 1.0 1.1 伊藤晴雨『其の頃を語る(一) 新派劇の責場』奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
- ↑ 伊藤晴雨『其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家』奇譚クラブ1953年(昭和28年)8月号, p28
- ↑ 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)
- ↑ 伊藤晴雨『其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) 』奇譚クラブ1953年(昭和28年)11月号, p82
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 伊藤晴雨『其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法』奇譚クラブ1953年(昭和28年)10月号, p169
- ↑ 『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
- ↑ 7.0 7.1 奈佳伸夫『近頃艶笑見世物談議』ロマンス生活1952年(昭和27年)4月号, p28
- ↑ 本田由郎『「責め」の芝居雑考』奇譚クラブ1956年(昭和31年)7月号, p68
- ↑ KK通信1953年(昭和28年)第13号
- ↑ 藤見郁『ロマンチックなサディズム』奇譚クラブ1954年(昭和29年)7月号, p36
- ↑ 11.0 11.1 みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
- ↑ 佐山淳『外人関西ヌードショウ』新劇、1973年(昭和48年)9月号
- ↑ 13.0 13.1 13.2 『成人映画』1968年(昭和43年)4月号(通算28号)の「ピンク実演:決定的瞬間を生で見る迫力」より
- ↑ 『サロン楽我記』奇譚クラブ 1968(S43)年11月号
- ↑ 奇譚クラブ1970年(昭和45年)1月号号「サロン楽我記」
- ↑ ビートたけし『浅草キッド』(新潮社, 1992)
- ↑ 17.0 17.1 17.2 17.3 北原童夢『明智伝鬼と戦後日本のSM史』in 『変態さんがいく』(別冊宝島編集部, 2000)
- ↑ 川上譲治『さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
- ↑ 森美貴, 私信 to U
- ↑ FOCUS, 1985(昭和60)年9/6号
- ↑ 21.0 21.1 21.2 エピキュリアン
注釈
- ↑ Wikipediaでは1888年(明治21年)12月となっている。
- ↑ Wikipediaでは新町座となっている。
- ↑ 男優が女装で演じていた。伊藤晴雨もこの芝居を観ている
- ↑ 入場料10の「10銭芝居」と言われた劇団に属する。「大失敗に終わる」とある。
- ↑ 「自ら脚本も書き背景も描き衣装小道具の製作と買い入れもすれば鬘屋の交渉にも飛び廻り、絵看板も描けば興行先の交渉もやる」「数千円の欠損をした」
- ↑ 「日支事変突発当時、ある美しい女形を発見したので、之を座長にして半年斗り小劇団を作って、東京市内の寄席を打ち廻って、毎晩責め場の芝居ばかりを」
- ↑ 女剣劇の新人辰巳洋子、ストリッパー桃山洋子。
- ↑ 濡木痴夢男はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は鈴木泉三郎脚本の『火あぶり』(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある。ただし、伊藤晴雨の記録では「三〇余名の会員を前にして「雪責めの女」を上演」とある。
- ↑ 江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場、とある。入場料300円。
- ↑ おそらくその後、「番町皿屋敷青山鉄山邸に上場し会員組織を以て興行した」とある。
- ↑ 例えば季節風書店『裸か美グラフ』1962年(昭和37年)12月号のグラビアには、「バーレスクの残酷場面」と題し、いろいろな緊縛シーンの舞台写真が出ている。「チン版・羅生門」「人のいい痴漢」「誰よりもギャラを愛す」など
- ↑ 連絡先は、新宿の実験小劇場モダンアート、あるいは名古屋の今池アングラ劇場内の向井常、とある。
- ↑ 青木マリ、水咲陽子などが出演。濡木痴夢男が「炎」のためにいくつか脚本を書いている。
- ↑ 渋谷のC座。ヤマベプロ作『人妻地獄』で団鬼六脚本。看板には「奇譚クラブ連載<花と蛇>より」と。三景。谷ナオミ、鈴木通人、南弘二、竹原あこ。併映は『鞭と淫獣』。
- ↑ 例えば奇譚クラブ1974年11月号p233に「オリジナルの会主催「矛盾の告白」の案内(10.28-31,シアター・グリーン)、p242に8月公演の後書きがある。
- ↑ 池袋のシアターグリーン、浅草の木馬座、目黒のアスベスト館、京大の西武講堂、茗荷谷の林泉寺などで公演。
- ↑ 杉並区西荻南2-19-10
- ↑ 「SMとは何か」「SM調教の歴史と実験」など、けっこうおかたいテーマを作って舞台化。が、しだいに浣腸、鞭、ローソク、吊るしと過激化。
- ↑ あるいは、1982年(昭和57年)