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[[画像:OsadaEikichi.jpg|200px|thumbnail|長田英吉(1925-2001)]] | |||
[[画像:OsadaEikichi02.jpg|250px|thumbnail|[[長田英吉]]。[[FREAK]]年1980(昭和55年)5月号『'''恐怖のSM大放談'''』より]] | |||
[[画像:Osadaseminar2.jpg|200px|thumbnail|『'''緊縛秘戯'''』([[エドプロ]], 不明)に掲載の1978年(昭和53年)2-7月の[[オサダ・ゼミナール]]の稽古風景。]] | |||
[[画像:Kemonoshibari1.jpg|250px|thumbnail|『[[長田英吉|長田]]演出によるSMショー』での[[けもの縛り]]。[[みのわひろお]]『'''[https://amzn.to/3c6mUj8 日本ストリップ50年史]'''』([[三一書房]], 1999)より]] | |||
[[画像:OsadaEikichi01.png|200px|thumbnail|[[長田英吉]]構成『'''悦虐の描点'''』[[SMマガジン]]1982年(昭和57年)8月号。カメラ:[[代田澄男]]、モデル:[[波瀬景子]]。]] | |||
== | '''おさだ えいきち'''、1925年(大正14年)3月15日-2001年(平成13年)9月12日。1960年代から平成時代まで活動した緊縛師。舞台での表現方法にこだわり「SMショーの元祖」と称されることもあり、影響力の強い存在。ストリップ劇場でのSMショーのブームの火付け役でもある。 | ||
==概要== | |||
緊縛師。「SMショーの元祖」と呼ばれる。1965年頃(''要確認'')にSM実験劇場「[[オサダ・ゼミナール]]」を[[アルス・ノーヴァ]]で公演し、その後の定期的にSM劇をおこなっていた模様。初期は[[向井一也]]や劇団「[[赤と黒]]」の影響を受けた小難しいSM劇だったようだが、1970年代に入ると、[[玉井敬友]]の「シアタースキャンダル」の劇団事務所や[[桜田伝次郎]]の[[GSG企画]]スタジオで[[オサダ・ゼミナール]]を開催し、現在のSMショーにつながるスタイルを確立していったものと思われる。1980年代初めには、六本木の[[SAMM]]や[[赤坂ブルーシャトー]]でといった、当時社会に衝撃を与えたSMクラブで定期的にショーを開催しており、SMショーの[[長田英吉]]としての地位を確立した。[[ストリップ]]劇場での[[オサダ・ゼミナール]]も精力的におこなっていた。[[長田一美]]、[[長田スティーヴ]]などの後継者を育てている。 | |||
==別名== | ==別名== | ||
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Eikichi_Osada Eikichi Osada] | [http://www.nawapedia.com/index.php?title=Eikichi_Osada Eikichi Osada]、[[オサダエイキチ]] | ||
==略歴== | ==略歴== | ||
1925年(大正14年) | 1925年(大正14年)3月15日、栃木県に生まれる。 | ||
1940年前後、[[裏窓]]、[[りべらる]]、[[奇譚クラブ]]などを密かに読みSMへの思いを満足させていた。特に、[[辻村隆]]、[[塚本鉄三]]の記事を好む<ref name="henreki1">[[長田英吉]]『私のSM遍歴』[[SMマニア]]1996年(平成8年)8月号〜12月号</ref>。 | |||
1940年代、上京して法政大学入学。サドの「ジュスティーヌ」「悪徳の栄え」などを愛読。卒業後、新橋に印刷会社を経営<ref name="henreki1"></ref><ref name="HotLady1980c">『'''SM講座'''』[[劇画スペシャル]]増刊[[ホット・レディ]]1980年(昭和55年)5月20日号</ref>。 | |||
1960年後半、[[ローズ秋山]]の[[残酷ショー]]、劇団「[[赤と黒]]」の公演をよく見に行っていた<ref name="henreki1"></ref>。 | |||
1965年??<ref group="注">[[オサダ・ゼミナール]]の設立が1965年という表記をしばしば見るが、もう少し遅いのではないか?、[[向井一也]]の「矛盾の告白」を観て触発されたのであれば、1970年代中頃であってもおかしくない。慎重な調査が必要。</ref>、SM実験劇場「[[オサダ・ゼミナール]]」を阿佐ヶ谷駅前にあるバレエ練習場([[アルス・ノーヴァ]])で開催<ref name="henreki1"></ref><ref group="注">「(ピンク映画女優)笹森ルミをモデル。」「スポーツ紙に三行広告」「100人以上の人が集まる」[[SMマニア]]の自身の回想によると、きっちりとしたストーリーのあるSM演劇だったようだ。</ref>。 | |||
1974年?<ref group="注">、[[向井一也]]の「矛盾の告白」は1974年10月に開催予告されている[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197411/02/130.html p233]。もしこれが初演だとすると、[[長田英吉]]が、[[向井一也]]の芝居を見始めたのは1974年ということになる。</ref>、[[向井一也]]の「矛盾の告白」を観劇。その後、月一回の公演を何度が観る<ref name="henreki1"></ref><ref group="注">「SMを哲学的には描いてはいたけれど・・・SMマニアではなかったのだろうし・・・物足りなかった。」と述べている。</ref>。 | |||
1970年?、[[アルス・ノーヴァ]]で1年ほど[[オサダ・ゼミナール]]をおこなった後、神田駅北口近くの雀荘「ロータス」を買い取る。月1回、日曜日の夜に例会をもつ。麻雀業界に噂が立ってしまい、1年余で店をたたむことになる<ref name="henreki1"></ref>。 | |||
1975年頃?、[[向井一也]]氏の「オリジナルの会」を手伝い始める<ref name="saotome_tatsujin">「[[早乙女宏美]]の達人対談 第8回」[[S&Mスナイパー]]1993年(平成5年)9月号</ref>。 | |||
1975年(昭和50年)、[[館淳一]]が[[長田英吉]]を取材。この時既に名刺には「[[オサダ・ゼミナール]] [[和光社]] [[長田英吉]]」とあった<ref name="tate2015_1">[[館淳一]] Facebook, 2015/1/7</ref>。 | |||
1976年(昭和51年)春、大阪から東京に進出してきた[[玉井敬友]]に乞われ、六本木「シアタースキャンダル」の事務所で[[オサダ・ゼミナール]]の会合を半年ほど開催<ref name="henreki1"></ref><ref group="注">ピンク女優の[[長谷圭子]]をモデル。SM撮影会、SMショーを暑い頃の昼間におこなった。</ref>。 | |||
1978年(昭和53年)頃、[[オサダ・ゼミナール]]の舞台稽古風景が『'''緊縛秘戯'''』([[エドプロ]], 不明)に特集されている。 | |||
1979年(昭和54年)、[[サスペンス&ミステリーマガジン]]([[コバルト社]])2月号に[[オサダ・ゼミナール]]8mm作品の広告が。[[コバルト社]]が代理販売<ref group="注">「コバルト社代行部制作、[[オサダ・ゼミナール]][[長田英吉]]作・演出」の「緊縛シリーズ」。[[サスペンス&ミステリーマガジン]]が改題した[[SMマガジン]]の最終号1983年(昭和58年)4月号まで広告が続く。4月号では、シリーズNo. 5, 6。</ref>。 | |||
1979年(昭和54年)頃<ref group="注">1978〜1980と情報混乱</ref>、[[道頓堀劇場]]の制作部長だった[[志賀直樹]]が[[長田英吉]]を説得して出演を決断<ref name="stripmemorial">[http://web.archive.org/web/20071015055140/http://www.gekijou.net/memorial.html STRIP MEMORIAL]より</ref><ref>[[みのわひろお]]『'''[https://amzn.to/3c6mUj8 日本ストリップ50年史]'''』([[三一書房]], 1999)</ref>。 | |||
1980年(昭和55年)6月頃、[[池袋スカイ劇場]]で『'''SM対抗デスマッチ'''』と題して、[[桜田伝次郎]]、[[玉井敬友]]、[[オサダゼミナール]]、[[根暗童子]]&[[森美貴]]、[[ジェイ・高橋]]が出演<ref name="L&M">[[森美貴]]『'''私が女王様になった理由'''』[[L&M]]1991年(平成3年)4月30日号</ref>。 | |||
1980年(昭和55年)10月、[[道頓堀劇場]]での[[オサダ・ゼミナール]]の公演を[[川上譲治]]が観に行っている<ref name="saraba">[[川上譲治]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022558288?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4022558288 さらばストリップ屋]』(朝日新聞社, 1988)</ref>。 | |||
1980年(昭和55年) | 1980年(昭和55年)頃、[[桜田伝次郎]]の[[GSG企画]]スタジオで[[オサダ・ゼミナール]]の会合を開く。[[黒川真由美]]などの[[GSG企画]]の女優をモデルに<ref name="henreki1"></ref>。 | ||
1980年代前半、11PM(関西)で紹介。藤本義一が司会、阿部牧郎がゲスト。撮影は[[GSG企画]]のスタジオ<ref name="henreki1"></ref>。 | |||
1980年(昭和55年)7月、[[S&Mスナイパー]]7月号に「SM・飼育教室潜入ルポ」の記事。「GSGという集団が[[長田英吉]]の協力でショー」と。 | |||
1980(昭和55年)7月、月刊[[宝石]]の連載「MORE ERECT ZONE」7回目で「縛る!責める-SM飼育教室」の白黒グラビア。「ある劇団がSMの大家オサダ英吉先生を呼んでおこなった『SM飼育教室』のひとコマ」と。 | |||
1981年(昭和56年)1月8日、[[葵マリ]]の[[赤坂ブルーシャトー]]での定例ショーに出演<ref group="注">[[長田一美]]のwebでは、1980年(昭和55年)10月から毎月イベントをおこない、1984年(昭和59年)から年4回のイベント。1988年(昭和63年)に[[赤坂ブルーシャトー]]が閉店する3ケ月前まで8年間続いたとある。</ref>。司会は田辺一鶴、モデルは[[松川ナミ|エミ]]<ref name="syuki">[[葵マリ|葵マリー]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/4870420570?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4870420570 『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)]</ref><ref group="注">2月5日の節分ショーでも[[長田英吉]]が出演。[[北条小夜子]]に緊縛を教える。</ref>。 | |||
1981年(昭和56年)頃、[[賀山茂]]の経営する[[SAMM]]で[[オサダ・ゼミナール]]。パートナーは[[花真衣]]など。[[根暗童子]]とは[[SAMM]]で知り合う<ref name="Spiral">[[SMスパイラル]]1997年(平成9年)11月号</ref>。 | |||
1981年(昭和56年)12月11日-20日、[[道頓堀劇場]]にて「水責め」のSMショー。モデルは[[水木炎]]。「劇場公演をはじめてから丸二年の区切りとしての新しい劇場SM構成」<ref>[[SMファン]]1982年1月号</ref> | |||
1982年(昭和57年)、[[根暗童子]]と[[ラー企画]]所属のモデルで地方公演<ref name="kazumi">[[長田一美]]web</ref>。 | |||
1983年(昭和58年)、 [[代々木忠]]監修、『オーガズム』(企画:アテナ映像、発売:みみずくビデオ)に出演。 | |||
1983年(昭和58年)12月21日-30日、[[池袋スカイ劇場]]にて[[長田英吉|オサダ英吉]]SM公演『'''耽美緊縛地獄'''』<ref>[[S&Mスナイパー]]1984年(昭和59年)2月号</ref> | |||
1986年(昭和61年)、後の[[長田一美]]がライターとして訪問。 | |||
1986年(昭和61年)、[[早乙女宏美]]とショーを開始<ref name="kazumi"></ref><ref group="注">「1ケ月に2回(1回は10日間の興業)の公演を3年ぐらい」「ヌードモデルプロダクションの[[藤木正夫]]さんの紹介で[[早乙女宏美]]さんに出会ったのは新宿東口にある じゅらくの2階」とある。</ref>。 | |||
1986年(昭和61年)12月、新宿[[モダンアート]]での[[長田英吉]]と[[早乙女宏美]]のショーがフォーカスにとりあげられる<ref name="Focus265">『年末狸吊り寒中水責めーSM緊縛師のドン「[[長田英吉]]」の職人芸』FOCUS 1987年(昭和62年)1月2・9日合併号。</ref>。 | |||
1989年(平成元年)12月1日ー10日、 [[鶴見ニューワールド劇場]]にて[[早乙女宏美]]と『長田英吉引退興行』<ref name="SMselect">[[SMセレクト]]1990年(平成2年)1月号, p77に広告。</ref>。 | |||
1989年(平成元年)12月21日ー31日、 [[鶴見新世界]]にて[[早乙女宏美]]と引退興行<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1990年(平成2年)1月ー6月、[[鶴見新世界]]<ref group="注">1997閉館。横浜市鶴見区鶴見中央4-33-4</ref>社長<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1991年(平成3年)、船橋[[若松劇場]]<ref group="注">1969年開場。千葉県船橋市本町2-17-27</ref>社長(翌年10月まで)<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1991年(平成3年)10月20日、脳血栓で倒れる<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1993年(平成5年)3月、[[SMスピリッツ]]1993年(平成5年)3月号に『'''[[SUPERカルト対談]] [[名和徹]]vs[[長田英吉]]'''』掲載。 | |||
1993年(平成5年)5月3日、大塚のホテルCoCoの1階にオープンしたSMパブ「[[ブラック&ホワイト]]」の記念パーティーで『長田英吉復帰公演』として数年ぶりのショーを[[早乙女宏美]]と<ref name="reijo1993">[[S&M Reijoh]]1993年(平成5年)8月号。</ref><ref group="注">「顧問として2ケ月ほど在籍するとともにSMショーを展開」</ref>。 | |||
1993年(平成5年)11月、渋谷のパブ「doga」にてで[[長田一美|小澤一美]]とショー<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1993年(平成5年)12月、京都のSMクラブ「[[薔薇十字館]]」にてショー<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1994年(平成6年)11月、[[道頓堀劇場]]で葵瑠璃とショー<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1995年(平成7年)1月、上野スターで[[桂木綾乃]]らとショー<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1996年(平成8年)9月12日、新宿の「[[SMパブ劇場ボンデージ]]」の顧問に就任<ref name=“sniper1996_11">[[S&Mスナイパー]]1996年(平成8年)11月号</ref>。オープニングで[[刹奈紫之]]とショー<ref name="kazumi"></ref>。1999年(平成11年)9月まで毎週金曜日に定期ショー。 | |||
1997年(平成9年)3月9日、[[珠樹リサ]]がSM大学『'''鳳雛大学'''』を開校。「緊縛研究講座」の講師は[[長田英吉]]、[[珠樹リサ]]。 | |||
1997年(平成9年)5月11日、[[オサダ・ゼミナール]]の「縛りのプロローグ」スペシャルバージョンが大塚で開催。[[早乙女宏美]]の切腹ショー、[[長田英吉]]&[[如月志乃]]<ref name="sniper1997_8">[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)8月号</ref>。 | |||
1997年(平成9年)6月14日と19日、[[若松劇場]]にて「[[長田ゼミナール]]」。出演:[[長田英吉]]、[[早乙女宏美]]<ref name="StripWiki">[http://www36.atwiki.jp/stripwiki/ STRIPwiki]より</ref>。 | |||
1997年(平成9年)8月21日〜30日、[[ショーアップ大宮]]にて『[[長田ゼミナール]]&[[早乙女宏美]]』<ref name="StripWiki"></ref>。 | |||
1997年(平成9年)10月21日、「[[SM塾オサダ・ゼミナール]]」のHP開設。 | |||
1997年(平成9年)10月21日〜30日、[[鶴見新世界]]にて[[早乙女宏美]] ([[長田ゼミナール]])<ref name="StripWiki"></ref>。 | |||
1998年(平成10年)7月27日、[[ロフトプラスワン]]てに[[早乙女宏美]]とショー。 | |||
1998年(平成10年)8月7日、[[長田英吉]]が「[[緊縛教室|縛り方の勉強会]]」開催。 | |||
1998年(平成10年)、[[長田スティーブ]]が見習いとして緊縛を学び始める<ref>[http://www.shibaribi.com/bakushi/osada/index.html 縛りの美学]</ref>。 | |||
1999年(平成11年)6月、「[[緊縛教室|縛る会(プロから学ぶ縛り方)]]」開催。 | |||
1999年(平成11年)7月、舞台から落ちて怪我<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1999年(平成11年)9月、[[スレイブマニア]]9月号に[[SMパブ劇場ボンデージ|ボンデージ]]での[[長田英吉]]と[[小沢一美]]のショーのレポート。 | |||
1999年(平成11年)10月、パラダイスTVで『SM匠の世界#1~長田英吉の世界~』収録。[[早乙女宏美]]、[[長田一美|小澤一美]]と<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
1999年(平成11年)11月、六本木ミストレスで定期的にショーを始める。2000年(平成12年)6月まで続く。 | |||
1999年(平成11年)7月11日〜20日、[[若松劇場]]にて『[[長田ゼミナール]]』。出演:[[早乙女宏美]]、[[いずみゆきこ]]、[[小沢一美]](交代で)<ref name="StripWiki"></ref>。 | |||
1999年(平成11年)12月24日、六本木「[[マスターズバー]]」にて[[長田英吉]]と[[長田一美|小澤一美]]がショー<ref>[[スレイブマニア]]2000年(平成12年)3月号</ref>。 | |||
2000年(平成12年)2月22日、パラダイスTVに生出演して緊縛を披露。 | |||
2000年(平成12年)4月、池袋にある[[長田スティーブ]]のStudio6で定期的にショーを開催。9月まで続く。 | |||
2000年(平成12年)7月、フランスから取材。 | |||
2000年(平成12年)10月、オサダ・ゼミナールスタジオ設立。[[長田英吉]]、[[長田一美]]、[[長田スティーヴ]]、[[丸木司郎]]でステージをおこなう。 | |||
2000年(平成12年)2月11日〜20日、[[若松劇場]]にて『[[長田ゼミナール]]』。出演:[[小沢一美]]<ref name="StripWiki"></ref>。 | |||
2001年(平成13年)1月21日、入院。 | |||
2001年(平成13年)9月12日、永眠。 | 2001年(平成13年)9月12日、永眠。 | ||
2001年(平成13年)11月23日、『'''[[長田英吉]]先生を偲ぶ会'''』。於:[[六本木Jail]]。出演者、[[長田一美]]、[[長田スティーブ]]、初代[[葵マリ]]、[[伊藤舞]]、[[桜田伝次郎]]、[[早川佳克|髭]]、[[根暗童子]]、[[みのわひろお]]、[[森美貴]]。[[S&Mスナイパー]]2002年2月号にレポート記事。 | |||
2002年(平成14年)1月1日、[[S&Mスナイパー]]2002年(平成14年)1月号で緊急特集『'''ショーSMの立役者[[長田英吉]]氏逝く'''』。2月号では[[早乙女宏美]]による『'''さよならストリップ劇場 [[長田英吉]]氏への詫び状'''』 | |||
2002年(平成14年)9月8日、六本木ミストレスで一周忌。出演:[[長田一美]]、[[荊子]]、[[ミラ狂美]]、[[小室芹奈]]、[[長田スティーブ]] | |||
2002年(平成14年)9月12日、[[ショーアップ大宮]]でのメモリアルショー。出演:[[長田スティーブ]]、[[長田一美]] | |||
2003年(平成15年)9月12日、中野「SMサロン[[Meet]]」にて三周忌イベント。 | |||
2004年(平成16年)1月22日、[[ロフトプラスワン]]にてSM塾[[オサダ・ゼミナール]]Presents 「縛りのプロローグ」緊縛師・[[長田英吉]]をたどる」【出演】[[長田一美]]&みい、[[夜羽エマ]]、みのわひろお、鬼塚隆文、[[川上譲治|ジョウジ川上]] | |||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*六本木の自動車工場の2階の[[玉井敬友|玉井]]氏の事務所で長田先生が会員の集まりを開いた後、[[玉井敬友|玉井]]氏もSMの会合を持つようになる。ここで[[桜田伝次郎]]は始めて玉井氏と出会う。 | *六本木の自動車工場の2階の[[玉井敬友|玉井]]氏の事務所で長田先生が会員の集まりを開いた後、[[玉井敬友|玉井]]氏もSMの会合を持つようになる。ここで[[桜田伝次郎]]は始めて玉井氏と出会う。 | ||
*[[根暗童子]]は長田の雀友。 | *[[根暗童子]]は長田の雀友。 | ||
*80年代の前半は[[根暗童子]]が所属する[[ラー企画]]から[[森美貴]]他のモデルを都合していた。「[[ラー企画|ラー]]の稽古場で練習してから、[[SAMM]]のショーで実践し、それからストリップ小屋へ乗るという順番でした。」<ref name="shishin">[[森美貴]]、私信 to U</ref>。 | |||
*1980年頃、[[熱海旅館]]でオサダ・ゼミナールのイベントを開催していたところ、近所の住民が通報して警察が様子を見に来た。その時にゼミナールの会員が撮っていたビデオを押収され、後日、ビデオに映っていたモデル等が公然わいせつ罪で10日間の拘留と10万円の罰金<ref name="saotome_tatsujin"></ref>。 | |||
*オサダ・ゼミナールのイベントは「向島[[百花苑|百花園]]のあたり、次ぎに上野の熱海亭<ref group="注">[[熱海旅館]]と思われる。</ref>(和風旅館)、その次ぎが蔵のある和風旅館<ref group="注">[[伊勢屋質店]]かもしれない(旅館ではないが)。</ref>(東京都文京区にある旅館 札幌)でイベント。佐土魔造氏も来てました。」とある<ref name="kazumi"></ref>。 | |||
*[[館淳一]]「新宿風鈴会館の向かい側にあった『[[典子]]』というSMマニアが集るバーで、ママの[[北条小夜子]]と親しくしていたのですが、そこに長田師が来て何度か会話した思い出があります。モダンアート出演のあとかな。上野の旅館での例の撮影会に踏み込まれて逮捕された事件の話なども聞きました」<ref name="tate2015_1"></ref>。 | |||
*「カラビナ」を使いはじめた | *「カラビナ」を使いはじめた | ||
*「緊縛師」という名称を使い出した。 | *「緊縛師」という名称を使い出した。 | ||
*桜の木でできた滑車を使っていた。 | *桜の木でできた滑車を使っていた。 | ||
* | *「かつて上野の某旅館でSM緊縛撮影会というのがあって、その現場に警察が踏み込んだのですよ。で、このS本さんと故[[長田英吉]]師が逮捕されてしまった。その時のモデルの一人が[[山田詠美]]で、彼女は出番が終わって帰ったあとだったので難を逃れた。 」([[館淳一]]の「ぐらんぴ日記」2010年12月06日より) | ||
==代表作== | ==代表作== | ||
===[[緊縛教材]]=== | |||
*『'''縄の魔術師★[[長田英吉]] 緊縛テクニック BIND TECHNIQUE'''』([[ボルドー]], 1982)(監督:吉川次郎、企画:小山田二郎、カメラ:塩野和也 河原博美 上田賢一、VE:牛山照夫、出演:[[長田英吉]] 高橋ジェーン 吉岡明子)([[新宿ACB会館]]と[[熱海旅館]]での撮影) | |||
*『'''♥緊縛テクニック CAMPUS PORNO'''』([[ボルドー]], 1982)(出演:[[長田英吉]] ) | |||
*『'''ザ・ドキュメント オーガズム Part-1'''』(みみずくビデオパック, 1983) (監修:[[代々木忠]]、製作:江口久考、企画:矢野浩祐、撮影:久我剛 [[伊東英男]]、照明:秋山徹、助監督:[[廣木隆一]]、編集:六本木ビデオセンター) | |||
*『'''ザ・ドキュメント オーガズム Part-2'''』(みみずくビデオパック, 1983) 監修:[[代々木忠]] | |||
===ビデオ=== | |||
{{美少女変態調教 1996}} | |||
===[[緊縛教材(印刷物)]]=== | ===[[緊縛教材(印刷物)]]=== | ||
*[[ | *『'''緊縛秘戯'''』([[エドプロ]], 不明)。[[長田英吉]]の緊縛や1978年(昭和53年)の[[オサダ・ゼミナール]]の舞台稽古風景が特集されている。 | ||
*[[長田英吉]] | *[[長田英吉]]『'''緊縛学講座'''』増刊[[小説S&Mスナイパー]]1980年(昭和55年)8月30日第1巻第6号 | ||
*[[長田英吉]] | {{長田英吉 KINBAKU入門講座}} | ||
===雑誌=== | |||
*[[長田英吉]] | *[[長田英吉]]構成『'''悦虐の描点'''』[[SMマガジン]]1982年(昭和57年)8月号。カメラ:[[代田澄男]]、モデル:[[波瀬景子]]。 | ||
*[[ | *[[長田英吉]]構成『'''山荘の獲物'''』[[SMマガジン]]1983年(昭和58年)4月号。 | ||
*[[長田英吉]] | *[[北原童夢]]『'''夢追い人礼讃'''』[[S&Mスナイパー]]1988年(昭和63年)2月号 | ||
*[[長田英吉]]『私のSM遍歴』[[SMマニア]]1996年(平成8年)8月号〜12月号。 | |||
== | ==引用文献== | ||
<references/> | <references/> | ||
==注釈== | |||
<references group="注"/> | |||
==つながり== | ==つながり== | ||
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[[桜田伝次郎]] | [[桜田伝次郎]] | ||
[[早乙女宏美]] | [[早乙女宏美]] | ||
[[森美貴]] | |||
[[向井一也]] | [[向井一也]] | ||
[[葵マリ]] | [[葵マリ]] | ||
[[根暗童子]] | [[根暗童子]] | ||
[[丸木司郎]] | [[丸木司郎]] | ||
[[花真衣とSAMMと長田英吉]] | |||
==お役たちweb== | ==お役たちweb== | ||
*[http://kazumi.kir.jp/nenpiyou.htm 長田一美女史による年表] | |||
*[http://kazumi.kir.jp/eikitijiten.htm 長田英吉辞典] | |||
*[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10280261345.html 「長田英吉 緊縛テクニック」〜1982〜] | *[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10280261345.html 「長田英吉 緊縛テクニック」〜1982〜] | ||
*[http://www.tokyo.to/fetish/osada/ TokyoJournal] | |||
*[http://smdetective.blog126.fc2.com/blog-entry-98.html The SM Detective] | |||
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おさだ えいきち、1925年(大正14年)3月15日-2001年(平成13年)9月12日。1960年代から平成時代まで活動した緊縛師。舞台での表現方法にこだわり「SMショーの元祖」と称されることもあり、影響力の強い存在。ストリップ劇場でのSMショーのブームの火付け役でもある。
概要
緊縛師。「SMショーの元祖」と呼ばれる。1965年頃(要確認)にSM実験劇場「オサダ・ゼミナール」をアルス・ノーヴァで公演し、その後の定期的にSM劇をおこなっていた模様。初期は向井一也や劇団「赤と黒」の影響を受けた小難しいSM劇だったようだが、1970年代に入ると、玉井敬友の「シアタースキャンダル」の劇団事務所や桜田伝次郎のGSG企画スタジオでオサダ・ゼミナールを開催し、現在のSMショーにつながるスタイルを確立していったものと思われる。1980年代初めには、六本木のSAMMや赤坂ブルーシャトーでといった、当時社会に衝撃を与えたSMクラブで定期的にショーを開催しており、SMショーの長田英吉としての地位を確立した。ストリップ劇場でのオサダ・ゼミナールも精力的におこなっていた。長田一美、長田スティーヴなどの後継者を育てている。
別名
略歴
1925年(大正14年)3月15日、栃木県に生まれる。
1940年前後、裏窓、りべらる、奇譚クラブなどを密かに読みSMへの思いを満足させていた。特に、辻村隆、塚本鉄三の記事を好む[1]。
1940年代、上京して法政大学入学。サドの「ジュスティーヌ」「悪徳の栄え」などを愛読。卒業後、新橋に印刷会社を経営[1][2]。
1960年後半、ローズ秋山の残酷ショー、劇団「赤と黒」の公演をよく見に行っていた[1]。
1965年??[注 1]、SM実験劇場「オサダ・ゼミナール」を阿佐ヶ谷駅前にあるバレエ練習場(アルス・ノーヴァ)で開催[1][注 2]。
1974年?[注 3]、向井一也の「矛盾の告白」を観劇。その後、月一回の公演を何度が観る[1][注 4]。
1970年?、アルス・ノーヴァで1年ほどオサダ・ゼミナールをおこなった後、神田駅北口近くの雀荘「ロータス」を買い取る。月1回、日曜日の夜に例会をもつ。麻雀業界に噂が立ってしまい、1年余で店をたたむことになる[1]。
1975年頃?、向井一也氏の「オリジナルの会」を手伝い始める[3]。
1975年(昭和50年)、館淳一が長田英吉を取材。この時既に名刺には「オサダ・ゼミナール 和光社 長田英吉」とあった[4]。
1976年(昭和51年)春、大阪から東京に進出してきた玉井敬友に乞われ、六本木「シアタースキャンダル」の事務所でオサダ・ゼミナールの会合を半年ほど開催[1][注 5]。
1978年(昭和53年)頃、オサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が『緊縛秘戯』(エドプロ, 不明)に特集されている。
1979年(昭和54年)、サスペンス&ミステリーマガジン(コバルト社)2月号にオサダ・ゼミナール8mm作品の広告が。コバルト社が代理販売[注 6]。
1979年(昭和54年)頃[注 7]、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹が長田英吉を説得して出演を決断[5][6]。
1980年(昭和55年)6月頃、池袋スカイ劇場で『SM対抗デスマッチ』と題して、桜田伝次郎、玉井敬友、オサダゼミナール、根暗童子&森美貴、ジェイ・高橋が出演[7]。
1980年(昭和55年)10月、道頓堀劇場でのオサダ・ゼミナールの公演を川上譲治が観に行っている[8]。
1980年(昭和55年)頃、桜田伝次郎のGSG企画スタジオでオサダ・ゼミナールの会合を開く。黒川真由美などのGSG企画の女優をモデルに[1]。
1980年代前半、11PM(関西)で紹介。藤本義一が司会、阿部牧郎がゲスト。撮影はGSG企画のスタジオ[1]。
1980年(昭和55年)7月、S&Mスナイパー7月号に「SM・飼育教室潜入ルポ」の記事。「GSGという集団が長田英吉の協力でショー」と。
1980(昭和55年)7月、月刊宝石の連載「MORE ERECT ZONE」7回目で「縛る!責める-SM飼育教室」の白黒グラビア。「ある劇団がSMの大家オサダ英吉先生を呼んでおこなった『SM飼育教室』のひとコマ」と。
1981年(昭和56年)1月8日、葵マリの赤坂ブルーシャトーでの定例ショーに出演[注 8]。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[9][注 9]。
1981年(昭和56年)頃、賀山茂の経営するSAMMでオサダ・ゼミナール。パートナーは花真衣など。根暗童子とはSAMMで知り合う[10]。
1981年(昭和56年)12月11日-20日、道頓堀劇場にて「水責め」のSMショー。モデルは水木炎。「劇場公演をはじめてから丸二年の区切りとしての新しい劇場SM構成」[11]
1982年(昭和57年)、根暗童子とラー企画所属のモデルで地方公演[12]。
1983年(昭和58年)、 代々木忠監修、『オーガズム』(企画:アテナ映像、発売:みみずくビデオ)に出演。
1983年(昭和58年)12月21日-30日、池袋スカイ劇場にてオサダ英吉SM公演『耽美緊縛地獄』[13]
1986年(昭和61年)、後の長田一美がライターとして訪問。
1986年(昭和61年)、早乙女宏美とショーを開始[12][注 10]。
1986年(昭和61年)12月、新宿モダンアートでの長田英吉と早乙女宏美のショーがフォーカスにとりあげられる[14]。
1989年(平成元年)12月1日ー10日、 鶴見ニューワールド劇場にて早乙女宏美と『長田英吉引退興行』[15]。
1989年(平成元年)12月21日ー31日、 鶴見新世界にて早乙女宏美と引退興行[12]。
1990年(平成2年)1月ー6月、鶴見新世界[注 11]社長[12]。
1991年(平成3年)、船橋若松劇場[注 12]社長(翌年10月まで)[12]。
1991年(平成3年)10月20日、脳血栓で倒れる[12]。
1993年(平成5年)3月、SMスピリッツ1993年(平成5年)3月号に『SUPERカルト対談 名和徹vs長田英吉』掲載。
1993年(平成5年)5月3日、大塚のホテルCoCoの1階にオープンしたSMパブ「ブラック&ホワイト」の記念パーティーで『長田英吉復帰公演』として数年ぶりのショーを早乙女宏美と[16][注 13]。
1993年(平成5年)11月、渋谷のパブ「doga」にてで小澤一美とショー[12]。
1993年(平成5年)12月、京都のSMクラブ「薔薇十字館」にてショー[12]。
1994年(平成6年)11月、道頓堀劇場で葵瑠璃とショー[12]。
1995年(平成7年)1月、上野スターで桂木綾乃らとショー[12]。
1996年(平成8年)9月12日、新宿の「SMパブ劇場ボンデージ」の顧問に就任[17]。オープニングで刹奈紫之とショー[12]。1999年(平成11年)9月まで毎週金曜日に定期ショー。
1997年(平成9年)3月9日、珠樹リサがSM大学『鳳雛大学』を開校。「緊縛研究講座」の講師は長田英吉、珠樹リサ。
1997年(平成9年)5月11日、オサダ・ゼミナールの「縛りのプロローグ」スペシャルバージョンが大塚で開催。早乙女宏美の切腹ショー、長田英吉&如月志乃[18]。
1997年(平成9年)6月14日と19日、若松劇場にて「長田ゼミナール」。出演:長田英吉、早乙女宏美[19]。
1997年(平成9年)8月21日〜30日、ショーアップ大宮にて『長田ゼミナール&早乙女宏美』[19]。
1997年(平成9年)10月21日、「SM塾オサダ・ゼミナール」のHP開設。
1997年(平成9年)10月21日〜30日、鶴見新世界にて早乙女宏美 (長田ゼミナール)[19]。
1998年(平成10年)7月27日、ロフトプラスワンてに早乙女宏美とショー。
1998年(平成10年)8月7日、長田英吉が「縛り方の勉強会」開催。
1998年(平成10年)、長田スティーブが見習いとして緊縛を学び始める[20]。
1999年(平成11年)6月、「縛る会(プロから学ぶ縛り方)」開催。
1999年(平成11年)7月、舞台から落ちて怪我[12]。
1999年(平成11年)9月、スレイブマニア9月号にボンデージでの長田英吉と小沢一美のショーのレポート。
1999年(平成11年)10月、パラダイスTVで『SM匠の世界#1~長田英吉の世界~』収録。早乙女宏美、小澤一美と[12]。
1999年(平成11年)11月、六本木ミストレスで定期的にショーを始める。2000年(平成12年)6月まで続く。
1999年(平成11年)7月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:早乙女宏美、いずみゆきこ、小沢一美(交代で)[19]。
1999年(平成11年)12月24日、六本木「マスターズバー」にて長田英吉と小澤一美がショー[21]。
2000年(平成12年)2月22日、パラダイスTVに生出演して緊縛を披露。
2000年(平成12年)4月、池袋にある長田スティーブのStudio6で定期的にショーを開催。9月まで続く。
2000年(平成12年)7月、フランスから取材。
2000年(平成12年)10月、オサダ・ゼミナールスタジオ設立。長田英吉、長田一美、長田スティーヴ、丸木司郎でステージをおこなう。
2000年(平成12年)2月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:小沢一美[19]。
2001年(平成13年)1月21日、入院。
2001年(平成13年)9月12日、永眠。
2001年(平成13年)11月23日、『長田英吉先生を偲ぶ会』。於:六本木Jail。出演者、長田一美、長田スティーブ、初代葵マリ、伊藤舞、桜田伝次郎、髭、根暗童子、みのわひろお、森美貴。S&Mスナイパー2002年2月号にレポート記事。
2002年(平成14年)1月1日、S&Mスナイパー2002年(平成14年)1月号で緊急特集『ショーSMの立役者長田英吉氏逝く』。2月号では早乙女宏美による『さよならストリップ劇場 長田英吉氏への詫び状』
2002年(平成14年)9月8日、六本木ミストレスで一周忌。出演:長田一美、荊子、ミラ狂美、小室芹奈、長田スティーブ
2002年(平成14年)9月12日、ショーアップ大宮でのメモリアルショー。出演:長田スティーブ、長田一美
2003年(平成15年)9月12日、中野「SMサロンMeet」にて三周忌イベント。
2004年(平成16年)1月22日、ロフトプラスワンにてSM塾オサダ・ゼミナールPresents 「縛りのプロローグ」緊縛師・長田英吉をたどる」【出演】長田一美&みい、夜羽エマ、みのわひろお、鬼塚隆文、ジョウジ川上
エピソード
- 六本木の自動車工場の2階の玉井氏の事務所で長田先生が会員の集まりを開いた後、玉井氏もSMの会合を持つようになる。ここで桜田伝次郎は始めて玉井氏と出会う。
- 根暗童子は長田の雀友。
- 80年代の前半は根暗童子が所属するラー企画から森美貴他のモデルを都合していた。「ラーの稽古場で練習してから、SAMMのショーで実践し、それからストリップ小屋へ乗るという順番でした。」[22]。
- 1980年頃、熱海旅館でオサダ・ゼミナールのイベントを開催していたところ、近所の住民が通報して警察が様子を見に来た。その時にゼミナールの会員が撮っていたビデオを押収され、後日、ビデオに映っていたモデル等が公然わいせつ罪で10日間の拘留と10万円の罰金[3]。
- オサダ・ゼミナールのイベントは「向島百花園のあたり、次ぎに上野の熱海亭[注 14](和風旅館)、その次ぎが蔵のある和風旅館[注 15](東京都文京区にある旅館 札幌)でイベント。佐土魔造氏も来てました。」とある[12]。
- 館淳一「新宿風鈴会館の向かい側にあった『典子』というSMマニアが集るバーで、ママの北条小夜子と親しくしていたのですが、そこに長田師が来て何度か会話した思い出があります。モダンアート出演のあとかな。上野の旅館での例の撮影会に踏み込まれて逮捕された事件の話なども聞きました」[4]。
- 「カラビナ」を使いはじめた
- 「緊縛師」という名称を使い出した。
- 桜の木でできた滑車を使っていた。
- 「かつて上野の某旅館でSM緊縛撮影会というのがあって、その現場に警察が踏み込んだのですよ。で、このS本さんと故長田英吉師が逮捕されてしまった。その時のモデルの一人が山田詠美で、彼女は出番が終わって帰ったあとだったので難を逃れた。 」(館淳一の「ぐらんぴ日記」2010年12月06日より)
代表作
緊縛教材
- 『縄の魔術師★長田英吉 緊縛テクニック BIND TECHNIQUE』(ボルドー, 1982)(監督:吉川次郎、企画:小山田二郎、カメラ:塩野和也 河原博美 上田賢一、VE:牛山照夫、出演:長田英吉 高橋ジェーン 吉岡明子)(新宿ACB会館と熱海旅館での撮影)
- 『♥緊縛テクニック CAMPUS PORNO』(ボルドー, 1982)(出演:長田英吉 )
- 『ザ・ドキュメント オーガズム Part-1』(みみずくビデオパック, 1983) (監修:代々木忠、製作:江口久考、企画:矢野浩祐、撮影:久我剛 伊東英男、照明:秋山徹、助監督:廣木隆一、編集:六本木ビデオセンター)
- 『ザ・ドキュメント オーガズム Part-2』(みみずくビデオパック, 1983) 監修:代々木忠
ビデオ
緊縛教材(印刷物)
- 『緊縛秘戯』(エドプロ, 不明)。長田英吉の緊縛や1978年(昭和53年)のオサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が特集されている。
- 長田英吉『緊縛学講座』増刊小説S&Mスナイパー1980年(昭和55年)8月30日第1巻第6号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座』SMスピリッツ1993年(平成5年)4月号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座 開股縛り』SMスピリッツ1993年(平成5年)5月号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座』SMスピリッツ1993年(平成5年)6月号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座 逆海老縛り』SMスピリッツ1993年(平成5年)7月号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座』SMスピリッツ1993年(平成5年)8月号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座 開脚海老縛り』SMスピリッツ1993年(平成5年)9月号
- 長田英吉『KINBAKU入門講座 後手椅子開脚縛り』SMスピリッツ1993年(平成5年)10月号
雑誌
- 長田英吉構成『悦虐の描点』SMマガジン1982年(昭和57年)8月号。カメラ:代田澄男、モデル:波瀬景子。
- 長田英吉構成『山荘の獲物』SMマガジン1983年(昭和58年)4月号。
- 北原童夢『夢追い人礼讃』S&Mスナイパー1988年(昭和63年)2月号
- 長田英吉『私のSM遍歴』SMマニア1996年(平成8年)8月号〜12月号。
引用文献
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 長田英吉『私のSM遍歴』SMマニア1996年(平成8年)8月号〜12月号
- ↑ 『SM講座』劇画スペシャル増刊ホット・レディ1980年(昭和55年)5月20日号
- ↑ 3.0 3.1 「早乙女宏美の達人対談 第8回」S&Mスナイパー1993年(平成5年)9月号
- ↑ 4.0 4.1 館淳一 Facebook, 2015/1/7
- ↑ STRIP MEMORIALより
- ↑ みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
- ↑ 森美貴『私が女王様になった理由』L&M1991年(平成3年)4月30日号
- ↑ 川上譲治『さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
- ↑ 葵マリー『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)
- ↑ SMスパイラル1997年(平成9年)11月号
- ↑ SMファン1982年1月号
- ↑ 12.00 12.01 12.02 12.03 12.04 12.05 12.06 12.07 12.08 12.09 12.10 12.11 12.12 12.13 長田一美web
- ↑ S&Mスナイパー1984年(昭和59年)2月号
- ↑ 『年末狸吊り寒中水責めーSM緊縛師のドン「長田英吉」の職人芸』FOCUS 1987年(昭和62年)1月2・9日合併号。
- ↑ SMセレクト1990年(平成2年)1月号, p77に広告。
- ↑ S&M Reijoh1993年(平成5年)8月号。
- ↑ S&Mスナイパー1996年(平成8年)11月号
- ↑ S&Mスナイパー1997年(平成9年)8月号
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 STRIPwikiより
- ↑ 縛りの美学
- ↑ スレイブマニア2000年(平成12年)3月号
- ↑ 森美貴、私信 to U
注釈
- ↑ オサダ・ゼミナールの設立が1965年という表記をしばしば見るが、もう少し遅いのではないか?、向井一也の「矛盾の告白」を観て触発されたのであれば、1970年代中頃であってもおかしくない。慎重な調査が必要。
- ↑ 「(ピンク映画女優)笹森ルミをモデル。」「スポーツ紙に三行広告」「100人以上の人が集まる」SMマニアの自身の回想によると、きっちりとしたストーリーのあるSM演劇だったようだ。
- ↑ 、向井一也の「矛盾の告白」は1974年10月に開催予告されているp233。もしこれが初演だとすると、長田英吉が、向井一也の芝居を見始めたのは1974年ということになる。
- ↑ 「SMを哲学的には描いてはいたけれど・・・SMマニアではなかったのだろうし・・・物足りなかった。」と述べている。
- ↑ ピンク女優の長谷圭子をモデル。SM撮影会、SMショーを暑い頃の昼間におこなった。
- ↑ 「コバルト社代行部制作、オサダ・ゼミナール長田英吉作・演出」の「緊縛シリーズ」。サスペンス&ミステリーマガジンが改題したSMマガジンの最終号1983年(昭和58年)4月号まで広告が続く。4月号では、シリーズNo. 5, 6。
- ↑ 1978〜1980と情報混乱
- ↑ 長田一美のwebでは、1980年(昭和55年)10月から毎月イベントをおこない、1984年(昭和59年)から年4回のイベント。1988年(昭和63年)に赤坂ブルーシャトーが閉店する3ケ月前まで8年間続いたとある。
- ↑ 2月5日の節分ショーでも長田英吉が出演。北条小夜子に緊縛を教える。
- ↑ 「1ケ月に2回(1回は10日間の興業)の公演を3年ぐらい」「ヌードモデルプロダクションの藤木正夫さんの紹介で早乙女宏美さんに出会ったのは新宿東口にある じゅらくの2階」とある。
- ↑ 1997閉館。横浜市鶴見区鶴見中央4-33-4
- ↑ 1969年開場。千葉県船橋市本町2-17-27
- ↑ 「顧問として2ケ月ほど在籍するとともにSMショーを展開」
- ↑ 熱海旅館と思われる。
- ↑ 伊勢屋質店かもしれない(旅館ではないが)。
つながり
賀山茂 長田一美 長田スティーヴ 武いさお 桜田伝次郎 早乙女宏美 森美貴 向井一也 葵マリ 根暗童子 丸木司郎 花真衣とSAMMと長田英吉