池袋スカイ劇場
すかいげきじょう。1980年代に池袋にあったストリップ劇場。川上譲治の企画で、暗黒舞踏系のショーやSM系のショーが多く演じられていた。根暗童子も東京裸舞ハンターとして出演。
概要
池袋駅の近くにあった座席数40程度の小ストリップ劇場。1980年頃、川上譲治が活動拠点として使った。
別名
歴史
1980年(昭和55年)6月、森美貴が池袋スカイ劇場のSMショーで初舞台[1]。根暗童子のパートナーとして出演。『SM対抗デスマッチ』と題して、桜田伝次郎、玉井敬友、オサダゼミナール、ジェイ・高橋が出演[2]。
1981年(昭和56年)3月、川上譲治の企画で、マリ千鶴(松田千鶴)の『マリ千鶴・直感の世界[注 1]』が大ヒット[注 2][3]。
1981年(昭和56年)4月、川上譲治の企画ショー第2弾として「ポラロイドショー」[注 3][3]。
1981年(昭和56年)4月、川上譲治企画の『芸術ストリップ・ショー ダンスラブマシーン』[注 4][3]。
1981年(昭和56年)5月、川上譲治企画のアングラ舞踏家[注 5]の『杏&逗子王』白黒金粉ショー[3]。
1981年(昭和56年)9月11日、川上譲治企画の「泥んこ生板女子大レスリングショー」[3]。
1982年(昭和57年)1月、正月興行として『女優軍団・藤』の公演[4]。
1982年(昭和57年)2月、『ザ・ムギギ』
1982年(昭和57年)3月、川上譲治企画の「覗き部屋ショー」[3][注 6]。
1982年(昭和57年)5月、川上譲治企画の「スキャンダル東京キッド」のショー[3][注 7]。
1982年(昭和57年)7月、川上譲治企画の「ストトル・ショー」がヒット[3][注 8]。8日目に警察の手入れ。続いて2回目の手入れ。
1982年(昭和57年)8月、『SM特別月間』[注 9]。PART I(1日-10日):(昼)『白夜と愛の狩人(ラブハンター)』(夜)『桜田伝次郎、とGSG』、PART II(11日-20日):(昼)『玉井敬友とシアタースキャンダル+高杉かほり』(夜)『高橋&ザ・KAGEKI』、PART III(21日-31日):(昼)『オサダゼミナール』(夜)『黒と薔薇』[5]
1982年(昭和57年)8月2日、川上譲治が公然わいせつ罪の容疑で逮捕。3日に送検。8月23日まで拘留され略式起訴の罰金5万円の刑[3]。
1982年(昭和57年)8月11日〜20日、スカイ劇場にて『SMの帝王 玉井敬友引退特別興行』
1982年(昭和57年)12月、川上譲治企画の「デートショー」[3][注 10]。
1983年(昭和58年)1月川上譲治企画の日野繭子のポルノ劇[3][注 11]。ここでしばらくスカイ劇場の企画から離れる。
1983年(昭和58年)春、『ヌードグランプリ』コンテストでキャッシー環が優勝[6]
1983年(昭和58年)12月21日-30日、池袋スカイ劇場にてオサダ英吉SM公演『耽美緊縛地獄』[7]
1984年(昭和59年)1月頃、京&鉄舟の『残酷・女体解剖』[8]
1985年(昭和60年)5月1日、川上譲治がスカイ劇場の企画に復帰し、「シンドローム・ミスター」のホモショーを考案[3][注 12]。
1985年(昭和60年)7月1日-5日、スカイ劇場での美加マドカ公演[9]
1985年(昭和60年)8月31日、川上譲治企画によるスカイ劇場のさよなら興行「ラストストリップ」をプロデュース。紺野尚子のスネークショー、プチ亜利益沙[注 13]の金粉ショー、セクシープロイト[注 14]のSMショー、ダンスラブマシーン[注 15]、ビクトリー和胡[注 16]、美芸公[注 17]、ブレーク・トリボーズ[注 18]、東京ファンタジア。たまきあい、パペティアット銀猫、マリ千鶴、東京裸舞ハンター[注 19]。11日間の公演。この後、一時ストリップから引退し、運送業を営む[10]。
1985年(昭和60年)9月、閉館。
所在地
東京都豊島区東池袋1-4-7フラワービル4階[3]
トピックス
- 長田英吉が出演していた。
- 1968年に横浜駅東口のスカイビルに「スカイ劇場」がオープンしたが、これとは別物。
- 1937年(昭和12年)の開業した川崎映画劇場が1970年代に「川崎スカイ劇場」と改名し1983年に「川崎グランド2」となったが、これとは別物。
- 1982年の広告には「ポルノとジョークの館」「日本一格安の劇場」「ニュースカイ劇場」とある。
ギャラリー
-
1982年(昭和57年)2月、スカイ劇場での『ザ・ムギギ』のショー
引用文献
- ↑ 森美貴『I LOVE 自縛写』S&Mスナイパー1984年(昭和59年)6月号
- ↑ 森美貴『私が女王様になった理由』L&M1991年(平成3年)4月30日号
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 川上譲治『さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
- ↑ Billy 1982年(昭和57年)3月号
- ↑ 別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)9月号
- ↑ Billy1984年(昭和59年)5月号
- ↑ S&Mスナイパー1984年(昭和59年)2月号
- ↑ S&Mスナイパー1984年(昭和59年)3月号で紹介
- ↑ Billyボーイ1985年(昭和60年)8月号
- ↑ Web Sniper 「ジョウジ川上55歳の決意」
注釈
- ↑ 「マッチ売りの少女」としてマッチを観客に擦らせた。
- ↑ この公演あたりから従来のストリップファンに加えて、新しい若い層が観に来るようになる。
- ↑ ダンサーは『ゴールデンサラマンドラ』に出ていた「チエ」。「前田真理子」として出演。
- ↑ 暗黒舞踏団『 ダンスラブマシーン』主宰者の田村哲郎、その夫人の古川杏、『大駱駝館』の原田南店を練馬区豊玉にある『 ダンスラブマシーン』稽古場に訪れ、[[スカイ劇場]への出演を依頼。あまりにも前衛過ぎて、観客は拒否反応。
- ↑ インドに行くための資金稼ぎ。
- ↑ 当時流行りだした「覗き部屋」に触発された企画。根暗童子が企画に参加。
- ↑ 当時、小樽を拠点にしていた北方舞踏派のメンバー。かつて「鈴蘭党」とい名でストリップ劇場を回っていたが、京都で摘発されしばらくストリップには出ずに、主にキャバレーのフロアショーで資金稼ぎをしていた。川上譲治が北方舞踏派の高橋氏を紹介されたのは、宇野満氏からで、東京練馬にあった大駱駝館でであった。宇野満氏を川上譲治に紹介したのが、暗黒舞踏「天鶏」の主宰者、田中睦子女史からで、田中は川上譲治の舞台に上がっていた。
- ↑ 客を劇場外に連れ出し、マントルの内容の行為を劇場ビデオで他の客に見せるショー。「フォーカス」に取り上げられ、客が集まる。
- ↑ 川上譲治が公然わいせつ罪で逮捕されているので、実際に興行がおこなわれたかどうかは不明
- ↑ 根暗童子が企画に参加。
- ↑ ポルノ劇団『五人囃子 』の主宰者の一色が演出。
- ↑ 目白のプロダクションACCが協力。
- ↑ 元アリアドーネの会
- ↑ アングラ劇団出身の宮下夫婦。オフィス405という芸能社で知り合う。
- ↑ 中山直一とその彼女
- ↑ 北方舞踏派の主宰者、ビショップ山田の妻
- ↑ 大駱駝館からの参加
- ↑ 田中睦子と鳥居氏の夫婦が主宰する暗黒舞踏「天鶏」から鳥居と座員の典子。
- ↑ 根暗童子と妻のマミ。