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1908年(明治41年)頃、27歳で包茎手術を行ない一度目の結婚<ref group="注">包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。</ref>。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。
1908年(明治41年)頃、27歳で包茎手術を行ない一度目の結婚<ref group="注">包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。</ref>。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。


1916年(大正5年)、34歳で愛人お葉をモデルに責め絵を描く
1916年(大正5年)、34歳で愛人お葉をモデルに責め絵を描く。


1919年(大正8年)、37歳で最初の妻と離婚。開盛座([[伊藤晴雨]]が同座の看板を描いていた)の女役者'''[[佐原キセ]]'''(帰世子)と結婚<ref name="kawaguchi"></ref><ref group="注">1893-5年(明治26-8年)頃の生まれと思われる。後に浮気をして晴雨のもとを去る。</ref>。
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1919年(大正8年)12月、[[佐原キセ]]をモデルに自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀<ref name="kawaguchi"></ref><ref group="注">この作品の一部は後に[[斎藤昌三]]の『』で発表される。</ref>。
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1920年(大正9年)秋、[[佐原キセ]]をモデルに最初の吊りの試み<ref name="tsuri">[[伊藤晴雨]]『'''吊り責めさまざま'''』[[風俗草紙]]1954年(昭和29年)1月号, [http://nawa-art.com/etc/fs/FS195401/02/102.html p113]
1920年(大正9年)秋、[[佐原キセ]]をモデルに最初の吊りの試み<ref group="注">写真師を呼んで撮影したとる。いろいろ課題を残した失敗作。</ref>。しばらくして[[佐原キセ]]の妹<ref group="注">当時17才。東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた。後の清元櫻比呂。</ref>を撮影<ref group="注">こちらは胸を圧迫しないように細工をしたために形としては成功したが、晴雨は満足していなかった模様。[[井川洗崖]]の吊るし責めの絵はこの写真を模写したものだろうと書いている。</ref><ref name="tsuri">[[伊藤晴雨]]『'''吊り責めさまざま'''』[[風俗草紙]]1954年(昭和29年)1月号, [http://nawa-art.com/etc/fs/FS195401/02/102.html p113]</ref>。
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1921年(大正10年)、[[鈴木泉三郎]]が[[伊藤晴雨]]をモデルとした『'''[[火あぶり]]'''』を早稲田大学紀要(''要確認'')に発表<ref>[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) '''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195311/01/079.html p82]</ref>。
1921年(大正10年)、[[鈴木泉三郎]]が[[伊藤晴雨]]をモデルとした『'''[[火あぶり]]'''』を早稲田大学紀要(''要確認'')に発表<ref>[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) '''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195311/01/079.html p82]</ref>。

2011年4月16日 (土) 16:27時点における版

伊藤晴雨 (1882-1961)

いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日

概要

昭和SMの開祖。明治15年に生まれ、幼い頃から芝居や物語の責め場に強い関心をもち、恋人や妻をモデルに緊縛写真や責め絵などの作品を制作。大正末期にはおりからのエログロブームに取り上げられ、世間の注目を集める。1928年(昭和3年)にはわが国初の緊縛写真集『責の研究』を発刊するが発禁。戦前、粹古堂書店より『美人乱舞』などの多くの作品集を出し、アーティストとしての全盛期を迎えるが、第二次世界大戦で中断を余儀なくされる。戦後もカストリ雑誌に続き、奇譚クラブ風俗草紙などに精力的に執筆。また、写真撮影会などを頻繁に開催していたようで、そこで撮影された「晴雨風」の緊縛写真を風俗草紙風俗奇譚裏窓などで見ることができる。1953年(昭和28年)には「責めの劇団」を結成・公演しているのも見逃せない。昭和SM文化の精神的支柱とも言える存在で、特別の存在である。舞台芸術家、演劇評論家など、「責め絵画家」「緊縛師」としては括れないケールの大きな仕事をしており、時代考証家としての著作『いろは引・江戸と東京風俗野史』も名著の誉れ高い作品である。

別名

Seiu Ito, 伊藤一(本名)

略歴

1882年(明治15年)3月3日、東京市浅草区金竜山下瓦町384に伊藤錠太郎の長男として生まれる。

1890年(明治23年)頃、8歳で光琳派の野沢堤雨に弟子入り[1]。9歳で芝居の折檻シーンや女の髪の臭いに執着する性癖が発現。

1891年(明治24年)6月、母[注 1]から中将姫の雪責めの物語を聞かされたのが雪責めへの憧れとして青年時代まで残る[1]

1892年(明治25年)頃、両親と共に観に行った本所寿座の『吉田御殿、招く振袖』の責め場が強く印象に残る[1]

1894年(明治27年)頃、父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師のもとへ丁稚奉公。

1895年(明治28年)頃、13歳の頃から責め絵などを集め出す[1]

1896年(明治29年)、芝居の看板描きをはじめる[1]

1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での壮士芝居「日清戦争・夜討之仇譚」の看護婦の拷問シーンを観て感銘をうける[2][注 2]

1898年(明治31年)頃、17才の象牙彫刻師のもとへ丁稚奉公している時、暇を盗んで、東京朝日新聞の女性の挿絵に縄を描き添えて楽しんでいた、と回想している[3]

1905年(明治38年)頃、23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。

1907年(明治40年)頃、25歳から新聞の挿絵や評論を書く。

1908年(明治41年)頃、27歳で包茎手術を行ない一度目の結婚[注 3]。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。

1916年(大正5年)、34歳で愛人お葉をモデルに責め絵を描く。

1919年(大正8年)、37歳で最初の妻と離婚。開盛座(伊藤晴雨が同座の看板を描いていた)の女役者佐原キセ(帰世子)と結婚[1][注 4]

1919年(大正8年)12月、佐原キセをモデルに自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀[1][注 5]

1920年(大正9年)秋、佐原キセをモデルに最初の吊りの試み[注 6]。しばらくして佐原キセの妹[注 7]を撮影[注 8][4]

1921年(大正10年)、鈴木泉三郎伊藤晴雨をモデルとした『火あぶり』を早稲田大学紀要(要確認)に発表[5]

1923年(大正12年)2月10日、カメラマン鈴木雷水と下高井戸の坂本牙城[注 9]の借りていた農家付近で雪責めの撮影[1]

1923年(大正12年)、関東大震災。伊藤宅は焼け残る[1]。『いろは引・江戸と東京風俗野史』を出版。[注 10]

1924年(大正13年)、サンデー毎日6月1日号に佐原キセとの責め写真が紹介され、変態のレッテルを貼られる[1]

1925年(大正14年)夏、責め専門の劇団を設立[注 11][6]

1926年(大正15年)、梅原北明變態資料12月25日号に佐原キセをモデルにした『臨月の夫人の逆さ吊り写真』が無断掲載。月岡芳年の「臨月の女性の逆さ吊り[注 12]」と共に。

1927年(昭和2年)12月、『いろは引・江戸と東京風俗野史 第一巻』を弘文館より刊行。

1928年(昭和3年)、日本最初の緊縛写真集『責の研究』を発刊。発禁。

1931年(昭和6年)、三人目の妻が精神を病み闘病、借金に追われるようになる。

1932年(昭和7年)7月、粹古堂書店より『美人乱舞』発刊。

1932年(昭和7年)、『いろは引・江戸と東京風俗野史 第六巻』を城北書院より刊行し完結。

1933年(昭和8年)、2度目の劇団設立[注 13][6]

1937年(昭和12年)頃、3度目の劇団設立[注 14][6]

1945年(昭和20年)、東京大空襲で家財一切を焼失[注 15]

1947年(昭和22年)5月、猟奇第4号に『虐げられる日本婦人』。

1950年(昭和25年)頃、浅草「百万弗劇場」で責めの芝居をやっていた[7]

1951年(昭和26年)、4月より1954年(昭和29年)1月までの喜多玲子との書簡交換が記録に残っている[8]

1951年(昭和26年)、『人間探求』(第一出版社)に1952年までエッセイを連載。

1951年(昭和26年)4月21日、『あまとりあ』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「あまとりあ祭」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には高橋鐵伊藤晴雨中田雅久、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が[9]

1951年(昭和26年)12月、『あまとりあ』に綴じ込み付録となった伊藤晴雨の「女賊捕物帖」が問題となり、摘発[9]

1953年(昭和28年)1月、『奇譚クラブ』1月号に短文を寄稿し、その中で喜多玲子への想いを語っている[3]

1953年(昭和28年)、4度目の劇団「責めの劇団」を結成。中村座を活動拠点とする[6]

1953年(昭和28年)6月4日、「責めの劇団」の第1回公演を市川鈴本でおこなう[注 16][6]

1953年(昭和28年)7月11日、「責めの劇団」の第2回公演を中村座でおこなう[注 17][10][注 18][6]

1953年(昭和28年)、上田青柿郎編集の讀切ロマンスの臨時増刊『悦虐恍惚図』が監修:伊藤晴雨で発刊。

1954年(昭和29年)、須磨利之と実際に会う[注 19][11][12]

1954年(昭和29年)1月28日、NHKが責めの研究についてインタビューに来る。29日の午後9時にNHK第一放送で流れる[13]

1955年(昭和30年)、写真家の川口博が動坂[注 20]の伊藤宅を訪れ、交友が始まる[1]

1956年(昭和31年)頃、この頃から辻村隆と交流がある[14]

1960年(昭和35年)、挿絵画家としての功績に対し出版美術連盟賞を受賞。

1961年(昭和36年)1月27日、没。

1966年(昭和41年)、団鬼六脚本の『猟奇の果て』[注 21]伊藤晴雨をモデルとしている[15]

1968年(昭和43年)、奇譚クラブ12月号、および翌1月号の2回に分けて団鬼六『私本 伊藤晴雨物語』。

1969年(昭和44年)、東映で団鬼六を中心として、伊藤晴雨の伝記映画の製作の話がかなり進んでいたようだが[注 22]、最終的には実現しなかった。

1977年(昭和52年)、『発禁本「美人乱舞」より 責める!』(製作:日活、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、出演:宮下順子)

1978年(昭和53年)、自由劇場にて、玉井敬友の『奇伝・伊藤晴雨』。

1996年(平成8年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』(朝日ソノラマ)。

2002年(平成14年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。

エピソード

  • 女性の黒髪に対する強い性的興味を示した。
  • 高橋鐵伊藤晴雨を「お江戸の熊楠」と呼んだ[16]
  • あだ名は「ビクテン」。興が乗ってくると額の青筋がビクビクと動いた[1]。生粋の江戸っ子で義理人情に厚かった[1]
  • 弟子に佐藤倫一(建築造型美術研究家)[1]
  • 「万朝報」時代の新聞記者仲間が中村金六[1]。・
  • 女優栗島すみ子(水木流家元の水木歌江)を縛ったことがある[1]
  • 『演芸画報』に舞台スケッチと共にエッセイ、レポートを掲載していた[17]
  • 喜多玲子こと須磨利之と3年にわたり書簡を交換していた[16]
  • 濡木痴夢男は『いろは引・江戸と東京風俗野史』を愛読し、ここから題材を得て、浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』を書いた[17]
  • 上田青柿郎は伊藤の流れをくむ緊縛師。
  • 月岡芳年の『奥州安達が原ひとつ家の図』を参考に妻を吊して写真にする。
  • 辻村隆奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」で「私が伊藤老と交渉があったのは、ほんの晩年数年」「老はかなり衰弱しておられ」とある。また、東映の団鬼六脚本による伊藤晴雨の映画化がどうも延期されそうだとも書いている。
  • 1955年(昭和30年)頃の映画制作では、責めシーンに伊藤晴雨提供の資料が使われていたようだ[18]

交友関係

  • 沢田正二郎(新国劇)
  • 曾我廼家五郎(1887-1948, 喜劇役者)
  • 市村羽左衛門(歌舞伎)
  • 尾上梅幸(歌舞伎)
  • 辰巳柳太郞(新国劇)
  • 喜多村緑郎(新派)
  • 水谷八重子(新派)
  • 長谷川伸(文筆家)
  • 江戸川乱歩(文筆家)
  • 岩田専太郎(画家)
  • 式場隆三郎(医学者)
  • 宮尾しげ(画家)
  • 喜多玲子(画家)
  • 古今亭今輔(落語)

代表作

晴雨を扱った書籍

晴雨を扱った雑誌

晴雨を扱った映画

  • 猟奇の果て』 (ヤマベプロ, 1966.2)(製作:山邊信夫。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
  • 発禁本「美人乱舞」より 責める!』 (日活, 1977)((製作:結城良煕、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、脚本:いどあきお、出演:宮下順子)
  • およう』 (松竹, 2002)(製作:横畠邦彦、監督:関本郁夫、脚本:団鬼六『外道の群れ』、出演:熊川哲也 渋谷亜希 竹中直人 里見浩太朗 三田和代)

晴雨を扱った演劇・ショー

  • 奇伝・伊藤晴雨玉井敬友のシアタースキャンダル。1978年(昭和53年) 於 自由劇場。
  • 晴雨ふたたび千葉曳三の耽美会でのショー。1994年(平成6年)。
  • お葉といふ女~晴雨と夢二「晴雨編」外波山文明の椿組(はみだし劇場)。1998年12月 於 下北沢 OFF・OFFシアター。(原作:団鬼六「下道の群れ」)緊縛指導;長池士、出演;筒井真理子、たこ八郎)。

参考資料

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 川口博『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』(新潮社, 1996)
  2. 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)
  3. 3.0 3.1 伊藤晴雨女の責場を描く時の心境奇譚クラブ1953年(昭和28年)1月号, p145
  4. 伊藤晴雨吊り責めさまざま風俗草紙1954年(昭和29年)1月号, p113
  5. 伊藤晴雨其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) 奇譚クラブ1953年(昭和28年)11月号, p82
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 伊藤晴雨其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法奇譚クラブ1953年(昭和28年)10月号, p169
  7. 本田由郎「責め」の芝居雑考奇譚クラブ1956年(昭和31年)7月号, p68
  8. 『伊藤晴雨書簡』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
  9. 9.0 9.1 中田雅久あまとりあ回顧録』in 藤本義一編『あまとりあ傑作選』(東京スポーツ新聞社, 1977)
  10. KK通信1953年(昭和28年)第13号
  11. 美濃村晃『巨星落ちたり-妖美画家 伊藤晴雨伝』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
  12. 秋田昌美濡木痴夢男不二秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)
  13. 伊藤晴雨責繪は藝術品なり奇譚クラブ1954年(昭和29年)4月号, p178
  14. 奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」
  15. 奇譚クラブ1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 SとMは花ざかり』
  16. 16.0 16.1 小田光雄古本夜話3 SM雑誌の原点としての伊藤晴雨より。
  17. 17.0 17.1 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
  18. 奇譚クラブ1955年(昭和30年)2月号, p272

注釈

  1. 継母と思われる( 『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』より)。
  2. 男優が女装で演じていた。
  3. 包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。
  4. 1893-5年(明治26-8年)頃の生まれと思われる。後に浮気をして晴雨のもとを去る。
  5. この作品の一部は後に斎藤昌三の『』で発表される。
  6. 写真師を呼んで撮影したとる。いろいろ課題を残した失敗作。
  7. 当時17才。東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた。後の清元櫻比呂。
  8. こちらは胸を圧迫しないように細工をしたために形としては成功したが、晴雨は満足していなかった模様。井川洗崖の吊るし責めの絵はこの写真を模写したものだろうと書いている。
  9. 当時、伊藤晴雨宅に居候していたようだ。
  10. 1932年(昭和7年)に6巻で完結。今なお、時代考証の名著として知られる。
  11. 入場料10の「10銭芝居」と言われた劇団に属する。「大失敗に終わる」とある。
  12. 「奥州安達が原ひとつ家の図」と思われる。
  13. 「自ら脚本も書き背景も描き衣装小道具の製作と買い入れもすれば鬘屋の交渉にも飛び廻り、絵看板も描けば興行先の交渉もやる」「数千円の欠損をした」
  14. 「日支事変突発当時、ある美しい女形を発見したので、之を座長にして半年斗り小劇団を作って、東京市内の寄席を打ち廻って、毎晩責め場の芝居ばかりを」
  15. 伊藤晴雨責められる女の表情風俗草紙1953年(昭和28年)8月号, p84によると「疎開先の千葉市の川村剛一郎」が空襲で焼けたとある。
  16. 濡木痴夢男はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は鈴木泉三郎脚本の『火あぶり』(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある。ただし、伊藤晴雨の記録では「三〇余名の会員を前にして「雪責めの女」を上演」とある。
  17. 演目は「番町皿屋敷青山鉄山館の場」と林家正蔵の人情咄」。「江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場」とある。入場料300円。
  18. おそらくその後、「番町皿屋敷青山鉄山邸に上場し会員組織を以て興行した」とある。
  19. 当初、伊藤晴雨喜多玲子を本物の女性画家だと信じていた模様。また、最後まで須磨利之喜多玲子の主人と思っていた「ふり」をしていたという説もある。
  20. 「都立駒込病院の正門前路地の突き当たり」なので、現在の文京区千駄木5丁目あたりか?
  21. (1996.2)(製作:ヤマベプロ。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
  22. 例えば奇譚クラブ1968年(昭和43年)11月号の編集部だよりなどに書かれている。
  23. 新派の女優の緊縛写真や秘画を集めた作品。警察に没収。
  24. 責め絵、責め写真に加え、伊藤晴雨 『責め絵の研究』『吊り責めさまざま』、野村佳秀『責め絵の道一すじに生きた鬼才』、古今亭今輔らの座談会を含む。

つながり

高橋鐵 須磨利之 川口博 上田青柿郎 濡木痴夢男 夜久勉

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