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==ストリップ第2期== | ==ストリップ第2期== |
2020年5月26日 (火) 08:22時点における版
極めて初期の裸の出てくる芝居に関する文献
- 姫宮四郎『靜安劇場後日譚 魔都上海の思い出から』奇譚クラブ1953年(昭和28年)5月号, p116
- 姫宮四郎『靜安劇場後日譚 魔都上海の思い出から(その二)』奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p100
最初のストリップに関する諸説
1947年(昭和22年)帝都座1月説
帝都座は現在の丸井新宿本店
1947年(昭和22年)1月1日、帝都座五階劇場のオープンとして『ヴィナスの誕生』(18景)[注 1]が開幕。15日まで。仕掛け人は社長の秦豊吉。脚本:佐谷功、構成・振付:益田博[注 2]、ヴィナス役:中村笑子(えみこ)[注 3]。一日3回公演で料金は20円[1][2]。
1947年(昭和22年)2月11日、帝都座五階劇場第2回公演『ラ・パンテオン』(20景)でルーベンスの「アンドロメダ」の『額縁ショー』で甲斐美和[注 4]が乳房を見せる。
1948年(昭和23年)2月、帝都座五階劇場『思い出のアルバム 第一集』で、片岡マリ[注 5]が額縁から抜け出し、乳房を露出したまま踊りまわった[3]。
1947年(昭和22年)帝都座以外説
- 1947年(昭和22年)5月、渋谷東横デパート4階の軽演劇小屋「東横第二劇場」で劇団「東京フォーリズ」のバライエティ[注 6]で、ラナー多坂がソロの最後に舞台中央のタップ台に上がりポーズを決めブラを取る。ブラは自分で取るのではなく、進行係助手の田中小実昌が、後ろの割緞帳のあいだから手を伸ばして取った[5]。渋谷東横デパートにあるアミューズメントセンターの「乳房の祭典」で、「世界堂」のモデルから来たモデルが乳房を見せる。数秒で暗転[6]。ラナー多坂が辞めた後に、佐藤美子が全裸に紗の布をまとい舞台を歩き、最後に全部取る。全ストの元祖[5]。
- 1947年(昭和22年)5月、「日劇」で長谷川一夫、入江たか子の「花のルムパ」の中、上野美子が女神役で半裸に[4]。
- 1947年(昭和22年)頃、千葉・白浜の映画館のリベラルショーで、暗転になる前に30秒ぐらい乳房を見せる[6]。
- 1947年(昭和22年)頃、千日前の浪速座(関西の最初のストリップ劇場)で新宮暎児の新ショウ。踊り子はナナ千恵。千日前には木下興業や島田興業の仮設があった[6]。
1946年(昭和21年)説
- 中谷陽が福岡の柳橋劇場という仮設のような小屋(古池慶三が主催)でペティ丸山がパンツはいて足をあげるショーをやっているのを見た[6]。
- 1946年(昭和21年)春、浅草「千代田館」(実演と映画)の女剣劇一座がほんの数秒乳房を見せる。近くの「常磐座」でも[7]。
ストリップ第1期
動かないヌードから次第に動くストリップに。1950年(昭和25年)、1951年(昭和26年)に1つのピークを迎える。
1947年(昭和22年)3月、日劇小劇場での東京レビュー『院長さんは恋がお好き』公演で鈴木好子がベリー・ダンスをしながら衣装を次々に脱いでいった。演出は淀橋太郎[3]。
1947年(昭和22年)6月19日、岐阜の満映画劇場に帝都座の『額縁の裸體畫』が来演。「デカメロンレヴュー 女の學校 21景」[8]。
1947年(昭和22年)7月、「浅草ロック座」(旧万盛座)が開館[注 7]。
1947年(昭和22年)後期、「池袋文化劇場」「すみだ劇場」(浅草松屋 六階)が開館。
1948年(昭和23年)2月、浅草ロック座でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」でメリー松原がデビュー[3]。
1948年(昭和23年)3月、正邦乙彦が「常磐座」でヘレン滝の「デカメロン・ショー」を演出。ここで「ストリップ・ショウ」という名称を使い出す[3]。
1948年(昭和23年)4月、森川信の劇団「モデルと若様」で桜真弓が裸で長いすに座る[6]。
1948年(昭和23年)春、「百万弗劇場」で「動くストリップ」が出現。踊りながらパンツの隙間を覗かせる[9]。
1948年(昭和23年)6月、正邦乙彦の演出で、常磐座においてヘレン滝(ブランコにのせて動かす)、福田はるみが裸で踊る[6]。ヘレン滝は「猥褻陳列罪第一号」として逮捕[7]。
1948年(昭和23年)、浅草に「公園劇場」ができ、「入浴ショー」が上演[7]。
1948年(昭和23年)6月前後、「朱里みさを[注 8]とパルナスショウ」の「奴隷市場」にグレース松原。浅草ロック座、大都劇場、池袋文化劇場で[6]。
1948年(昭和23年)、関西のアポロショーで初の花魁ショー。深井俊彦が演出[6]。
1949年(昭和24年)、この頃からストリップ界に台本が使われるようになる。役者、楽団、照明、裏方に配布[10]。
1949年(昭和24年)、常磐座でメーリー松原ショー(振付:矢野英二)。ヒロセ元美が参加[6]。
1950年(昭和25年)、メリー松原、グレース松原、ヘレン滝、ミス池上、ヒロセ元美、原みどり、福田はるみ、ハニーロイ,リリー谷、がスター[6]。
1950年(昭和25年)、大阪のマーキーショーはつぶれ、ルミー芝ショー、メトロショー、モダンアートショーが生まれる[注 9]。京都には京極小劇場、大阪は温泉劇場と道頓堀劇場、神戸は新開地劇場。この頃は芝居と一緒で三遊亭柳枝劇団(ミヤコ蝶々がいた)など[6]。
1950年(昭和25年)、浅草座という「小劇場」スタイルが出来てくる。音楽隊の代わりにレコード。踊りの出来ないモデルのお酌をされたりゲームをしたり。踊りの下手なグレース松原が最初。第2期の美人座、カジノ座もこの系統。「入浴ショー」などで注目[6]。
ストリップ第2期
踊るだけのショーに飽きがきて、ミュージカル仕立てのショーや、アクロバティックなショー、空中ストリップなどのサーカス的なショー、さらには責めのシーンがある芝居が盛んになる。
1951年(昭和26年)、ジプシー・ローズが横浜セントラルでデビュー[注 10]。
1951年(昭和26年)、最初の外人ヌードショー(新宿セントラル)は在日ハンガリア人のミスアンドレア[6]。
1951年(昭和26年)、入浴ショーが浅草でブームに。「美人座」は檜風呂や鉄製アーチのショー[11]、「浅草座」は洋風のバスタブ。
1951年(昭和26年)7月、大阪九条OS劇場が開館。
1951年(昭和26年)7月、新宿セントラル劇場での田賀甫演出、サリー・宮川出演による「更屋敷」の緊縛シーンが讀切ロマンスのグラビアで紹介。
1951年(昭和26年)10月、浅草フランス座が開館。
1951年(昭和26年)暮、「女剣劇ブームのチラリズムの・・・専門劇場であった浅草国際セントラル劇場、赤羽公楽劇場が相次いで閉場」[11]
1951年(昭和26年)暮、百万弗劇場が伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』で大ヒット[11]。
1952年(昭和27年)、百万弗劇場での伊藤晴雨の責め芝居のヒットに刺激され、浅草フランス座で『毒婦暴状傳』を上演し大ヒット[注 11]続いて『妖婦火あぶり地蔵』[11]。
1952年(昭和27年)3月、日劇小劇場に日劇ミュージックホールがオープン。
1952年(昭和27年)、この頃、それまで乳首につけていたスパンコールが取れる[6]。
1952年(昭和27年)、奇譚クラブ11月号, p64の朝見速夫『ストリップ変態記』でサドマゾを取り入れたストリップショーのことが紹介。
1955年(昭和30年)、浅草フランス座で日本最初の女子プロレス・ショー開催[12]。
- 第2期(1951年〜1955年)には、国際セントラル(国際劇場の4階)、百万弗劇場(国際劇場のはす向かいで伊藤晴雨が責めの芝居をやっていた。渥美清もいた)、パリー座(錦糸町)、美人座(浅草ショウ劇場を改装して1951年開場)、浅草座、カジノ座、公楽座(赤羽)、池袋アバンギャルド、日劇小劇場、ロック座、新宿フランス座(茶川一郎、南伸介がいた。今の伊勢丹)、池袋フランス座、浅草フランス座(渥美清、長門勇、佐山俊二、谷幹一、関系六がいた)、銀座コニー劇場、オデオン座(五反田)、カジノ座(蒲田)、公演劇場(ロイ・ジェームスがいた)、東劇バーレスク(岡田真澄がいた)。関西ではグループ単位(踊り子8人、バンド4人、コメディアン)の活動がメインで、東京ショー、メトロショー、キットヒットショー、アポロショー、アカデミィショー、ルミー芝ショー、東京ファッションショー、ヘレン松原ショー、東京ニューヨークショー、モダンアートショー、金粉ショー。関西の小屋は浪速座(千日前)、弥生座(千日前)、道頓堀劇場、温泉劇場(1950年から。新世界のジャンジャン横町。後に映画館に)、木川劇場(十三)、飛田OS(前身は泉座。レニイ泉が踊り子の養成)。東寺劇場、伏見ミュージック、伊丹ミュージック。岐阜セントラル劇場。金沢の香林坊に立花劇場[6]。
ストリップ第3期
特出し、全ストが広まりストリップの衰退期に向かう。
1955年(昭和30年)頃、全裸ストリップが岐阜で始まる[9]。
1957年(昭和32年)、深井俊彦が「全ストショー」を百万ドルショーという一座にやらせる[注 12][13]。その後「特だし」が始まる。
1959年(昭和34年)11月、浅草フランス座を5階建てビルに改築。1-3階が「浅草東洋劇場」で4、5階が「浅草フランス座」。
1960年(昭和35年)、浅草で「残酷ショー」の『花嫁と山男』の公演[14]。
1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)すぎに「残酷ショー」が流行る。ロベルト秋山(=ローズ秋山?)、伊藤残酷ショー(=伊藤一夫?)。鉄の五郎ショーとか次々現れた[7]。
1964年(昭和39年)11月、ピンク映画の大都プロが「地方公演に新境地をひらき、ストリップ劇場キャバレーの舞台で、ピンク映画ならぬピンク劇場に活路をみい出し」とある[15]。
1965年(昭和40年)、広小路作戦(暴力団取り締まり)で、名古屋の10軒ほどの劇場をもっていた国際興業がつぶされ、それまで盛んだった名古屋ストリップが壊滅[10]。
1965年(昭和40年)頃、深井俊彦が「残酷ショー」を始める。全盛期は30組ほど存在[10]。
1965年(昭和40年)12月20日、千葉船橋にあったストリップ劇場「大宝」で「ピンク映画女優」のピンク実演。重光秀子、林美樹、糸井香子らによる「めす猫の宿」[16]。
1966年(昭和41年)、川越ミュージック11月公演以降、ストリップ界から台本が消える(日劇ミュージックホールは別)[10]。
1966年(昭和41年)頃、この頃からオープンが広まる[10]。
1966年(昭和41年)、映画『新拷問刑罰史 拷問』(小森白プロダクション, 1966.7)が京都の「田園キネマ」で上映される際、舞台で「残虐物語二景」と題したストリップが上演された[17]
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ7月号の「最近の縛り演劇・映画から」で忍妙子の「地獄絵ショー」が紹介。
1973年(昭和48年)頃、浅草フランス座でも前衛舞踏系の踊りやSM系のショーがおこなわれる[18]。
1978年(昭和53年)頃、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得し、SMショーが始まる[注 13][7]。
1978年(昭和53年)10月、全国的レベルでのストリップの取り締まりが始まる。
1978年(昭和53年)11月1日、玉井敬友のシアタースキャンダルが「春風座」でSMショー。
1985年(昭和60年)、池袋のスカイ劇場サヨナラ特別公演で「根暗童子夫妻のSMショー」[19]。
1988年(昭和63年)、「浅草フランス座」の浅草駒太夫の『花魁ショー」がブームとなる。浅草駒太夫のマネージャーで夫は演出家の佐山淳[9]。
2003年(平成15年)11月1日、ショーアップ大宮にて川上譲治企画による『ザ・SM』シリーズが始まる。
2005年(平成17年)、ショーアップ大宮閉館。
2005年(平成17年)3月11日−20日、DX歌舞伎町にて『スーパーDX SM伝説 誕生篇』。
参考資料
- ↑ 『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
- ↑ 田中小実昌、吉村平吉、メリー松原、正邦乙彦、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)
- ↑ 4.0 4.1 Strip Memorial
- ↑ 5.0 5.1 田中小実昌『ストリップ用語私史』新劇、1973年(昭和48年)9月号
- ↑ 6.00 6.01 6.02 6.03 6.04 6.05 6.06 6.07 6.08 6.09 6.10 6.11 6.12 6.13 6.14 6.15 小沢昭一、 深井俊彦、中谷陽「消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史」新劇、1973年(昭和48年)9月号
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
- ↑ cobanobuのブログ「額縁の裸体画 満映画劇場」
- ↑ 9.0 9.1 9.2 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 佐山淳『外人関西ヌードショウ』新劇、1973年(昭和48年)9月号
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 奈佳伸夫『近頃艶笑見世物談議』ロマンス生活1952年(昭和27年)4月号, p28
- ↑ 吉田潤『吉田潤写真集戦後フォーカス293-夢の輝き-』(潮出版社, 1983)
- ↑ 『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』週刊ポスト 1974年(昭和49年)5月24日号, p56-p62.
- ↑ 中谷陽『おお特出し』(立風書房, 1974)
- ↑ 実話と秘録1966年(昭和41年)4月増刊号, p144
- ↑ STRIP MEMORIAL
- ↑ 東山映史『最近の縛り映画から』奇譚クラブ1966年(昭和41年)12月号, p14
- ↑ ビートたけし『浅草キッド』(新潮社, 1992)
- ↑ FOCUS, 1985(昭和60)年9/6号
注釈
- ↑ 唄(中村哲、田千鶴子)と踊りとコントで構成。この中の12景にボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を模した『額縁ショー』が登場。
- ↑ 秦豊吉と共に『額縁ショー』のポーズを決めた。当時は動くことは許されなかった。
- ↑ 本名:松本エミ。当時29歳。銀座のおでん屋「お多幸」の娘。日劇ダンシングチーム第一期生。渡米修行の経験有り。戦中は軍隊慰問をおこない、戦後は後輩の指導をおこなっていた。
- ↑ =甲斐美春。矢田茂門下のダンサー(井上ひさし『フランス座の世界』より)。
- ↑ 元バレリーナ。肉色のパンツに薄いピンクのベールのみ。
- ↑ 当時の軽演劇は芝居が2本、バライエティが1本が標準。
- ↑ 8月説も。
- ↑ 朱里エイコの母
- ↑ 関西は個人でなくチームで活動したのが特徴。
- ↑ 横浜セントラルで初めてヌードになる女性が多かった。深井俊彦、高崎三郎、緑川士郎、正邦乙彦がいた。
- ↑ 女剣劇の新人辰巳洋子、ストリッパー桃山洋子。
- ↑ 「後悔してますよ。だって見せればもう、のこるは特だしショーしかないからね」
- ↑ 「SMとは何か」「SM調教の歴史と実験」など、けっこうおかたいテーマを作って舞台化。が、しだいに浣腸、鞭、ローソク、吊るしと過激化。