正邦乙彦
まさくに おとひこ。ストリップ演出家。1948年(昭和23年)「常磐座」で「ストリップ・ショウ」という名称を使い出す。「1950年代にはジプシー・ローズのブームを仕掛ける。
概要
映画俳優。軽演劇役者。ストリップ演出家。
別名
略歴
1948年(昭和23年)3月5日、正邦乙彦が浅草「常磐座」でヘレン滝の「デカメロン・ショー」を演出。ここで「ストリップ・ショウ」という名称を使い出す[1]。
1948年(昭和23年)6月、正邦乙彦の演出で、常磐座においてヘレン滝(ブランコにのせて動かす)、福田はるみがは裸で踊る[2]。ヘレン滝は「猥褻陳列罪第一号」として逮捕[3]。
1950年(昭和25年)、「常磐座」で泉都(せんと)ルイスの穴埋めとしてジプシー・ローズ・マリー(志水敏子, 1935-1967)を使う。「常盤座」から「横浜セントラル」「新宿セントラル」と広げる。「新宿セントラル」の『情熱のサロメ』で額縁の中から飛び出して踊り出す。続いて浅草「公園劇場」での『女のデット・エンド』で注目[4]。
1951年(昭和26年)8月31日、横浜セントラルにて「女体枕草紙」。制作:正邦乙彦[5]。
1952年(昭和27年)、「東劇バーレスク」のオープニングの『アラビアンナイト』で初披露したグラインドでジプシーの地位は確立[4]。1分間に60回のグラインド。村松梢風、林房雄、舟橋聖一がファン[6]。やがてこのグラインドは猥雑に当たると規制される。
1954年(昭和29年)、ジプシー・ローズと地方巡業に出る。前後して東京ではストリップ関係者の検挙が相次ぐ。ジプシーのグラインドも封印。丸尾長顕の誘いで日劇ミュージックホールと契約[4]。
1967年(昭和42年)、ジプシー・ローズ事故死。
1972年(昭和47年)5月、キューティ画報5月号に「正邦乙彦企画室専属」ダンサーとしてロリータの特集。
エピソード
代表作
参考資料
- ↑ 1.0 1.1 1.2 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)
- ↑ 小沢昭一、 深井俊彦、中谷陽「消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史」新劇、1973年(昭和48年)9月号
- ↑ みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 正邦乙彦『最後のストリップティーズ』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
- ↑ cobanobuのブログ「川崎ミナト座」
- ↑ 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)
注釈