「SMクラブの歴史」の版間の差分
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80年代の'''SMクラブ'''の象徴的存在といえる『'''[[中野クィーン]]'''』は[[本田富朗]]によりオープンされたが、それに先立ち、[[本田富朗]]は、1971年(昭和46年)頃に『'''[[Roo夢]]'''』をオープンしている。1977年(昭和52年)頃には、大阪に『'''[[アマゾン]]'''』がオープンする。[[アマゾン]]は「女性は登録制でサークルのような組織として始まった」とあるので、潜伏期の流れの延長線上に誕生したと思われる。いずれのクラブの設立初期の事業形態についての資料がないが、時代と共にいわゆる'''SMクラブ'''として地位を確立している。また、1979年(昭和54年) | 80年代の'''SMクラブ'''の象徴的存在といえる『'''[[中野クィーン]]'''』は[[本田富朗]]によりオープンされたが、それに先立ち、[[本田富朗]]は、1971年(昭和46年)頃に『'''[[Roo夢]]'''』をオープンしている。1977年(昭和52年)頃には、大阪に『'''[[アマゾン]]'''』がオープンする。[[アマゾン]]は「女性は登録制でサークルのような組織として始まった」とあるので、潜伏期の流れの延長線上に誕生したと思われる。いずれのクラブの設立初期の事業形態についての資料がないが、時代と共にいわゆる'''SMクラブ'''として地位を確立している。また、1979年(昭和54年)に[[賀山茂]]が六本木に高級SMサロン『'''[[SAMM]]'''』を、1980年(昭和55年)には[[初代葵マリー]]が『'''[[赤坂ブルーシャトー]]'''』を、[[本田富朗]]が上記『'''[[中野クィーン]]'''』をオープンさせ、本格的な'''SMクラブ'''の時代に入る。[[SAMM]]は、SMショーを観客に見せることが中心なのでここでの'''SMクラブ'''の範疇からは外れるかもしれないが、「お客さん同士でプレイが始まることも」あったそうである。数多くの[[SM雑誌]]の登場、TVや一般誌でのSMの紹介、[[団鬼六]]の登場など、それまで裏の世界に潜伏していたSMが次第に表の舞台に現れだした時代の結果として、'''SMクラブ'''の需要が高まってくる。 | ||
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2024年9月22日 (日) 14:25時点における版
概要
SMペディアでは、『SMクラブ(飲食)』と『SMクラブ(風俗)』の2つのカテゴリーを設定しているが、ここでは、主に『SMクラブ(風俗)』を中心として、その歴史を「潜伏期」「黎明系」「拡大期」「円熟期」の4つに沿って時系列でまとめてある。
解説
ここでは『SMクラブ』を『風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律』(2005年改正)で定義されている『無店舗型性風俗特殊営業』1号営業に届け・許可されている事業を指すこととする。わかりやすくは、事業営業所に連絡し、S女性、M女性などを指定場所に派遣してもらい、SMプレイをおこない、顧客はその対価として報酬を事業主に支払う形態の事業である。以下に、ここで定義する『SMクラブ』が誕生した経緯をまとめてある。
潜伏期
性の多様性に社会的寛容が十分になかった1970年以前においても、密かに事業としてのSMプレイがおこなわれていたことをうかがわせる記録は存在する。しかしながら、その詳細は不明で、また同好者が集まるサークル内での謝金としての金銭授受と、事業としてのSMクラブとの線引きも難しいであろう。そのような中で、奇譚クラブの文筆家でもあった山岸康二が、自身が1950年代に運営していた会員制変態クラブ『芸苑社』についての詳細をブログに残している。裏付けとなる資料はないものの、そこでは、SM嗜好をもつ顧客に、山岸康二が新聞広告などで集めた女性スタッフをあてがい、対価の報酬を顧客から受け取っていたことが書かれている。また、1959年にサークル内で撮影した写真にからんだ恐喝事件で世間を騒がした(あけぼの会事件)森下高茂のSMサークル『あけぼの会』も「紹介料」の授受に関する記述があるので、SMクラブへのつながりを見ることができる。60年代に入ると、関西において愛好者が集う『唄子の店』続いて『レイ』などの歴史に残るスナックが登場する。レイでは、店内のプレイに加えて、近くのホテルでのプレイもおこなわれていたとの記録があるので、SMクラブの萌芽的な形態と言えるかもしれない。また、70年代後半に女王様サークルとしてその地位を確立する静岡の『美芸会』も、設立は1966年の大阪からである。
黎明系
80年代のSMクラブの象徴的存在といえる『中野クィーン』は本田富朗によりオープンされたが、それに先立ち、本田富朗は、1971年(昭和46年)頃に『Roo夢』をオープンしている。1977年(昭和52年)頃には、大阪に『アマゾン』がオープンする。アマゾンは「女性は登録制でサークルのような組織として始まった」とあるので、潜伏期の流れの延長線上に誕生したと思われる。いずれのクラブの設立初期の事業形態についての資料がないが、時代と共にいわゆるSMクラブとして地位を確立している。また、1979年(昭和54年)に賀山茂が六本木に高級SMサロン『SAMM』を、1980年(昭和55年)には初代葵マリーが『赤坂ブルーシャトー』を、本田富朗が上記『中野クィーン』をオープンさせ、本格的なSMクラブの時代に入る。SAMMは、SMショーを観客に見せることが中心なのでここでのSMクラブの範疇からは外れるかもしれないが、「お客さん同士でプレイが始まることも」あったそうである。数多くのSM雑誌の登場、TVや一般誌でのSMの紹介、団鬼六の登場など、それまで裏の世界に潜伏していたSMが次第に表の舞台に現れだした時代の結果として、SMクラブの需要が高まってくる。
拡大期
円熟期
歴史
1951年(昭和26年)頃、須磨利之が飛田遊郭の「銀巴里楼」で「縛られ女郎ショー」を演じたと自伝にしばしば書いている。
1953年(昭和27年)、山岸康二が会員制変態クラブ『芸苑社』を設立。毎夕新聞に『MSクラブ 芸苑社』の広告を出す。門田奈子を女王様に[1]。
1957年(昭和32年)、奇譚クラブの読者を中心に GRクラブが結成[2]。
1960年(昭和35年)、森下高茂の「あけぼの会事件」がマスコミにたたかれる[3]。
1963年(昭和38年)年頃、大阪阿倍野に変態の集まる『唄子の店』が。
1966年(昭和41年)9月、松田富治男が大阪府寝屋川市で美芸会を発足[4]。
1970年代?、中村あけみが女王様スナック『なかむら』を新宿区舟町にオープン。
1971年(昭和46年)頃、大阪ミナミの女王様スナック「レイ」が表に出てくる。
1971年(昭和46年) 頃?、新宿大木戸門に「昆(ヤプーの館)」が。
1971年(昭和46年)頃?[注 1]、本田富朗によって新宿にRoo夢がオープン[5]。
1973年(昭和48年)10月、SMファンタジアNo.9の広告に『SMF研究会』。
1977年(昭和52年)頃、長池士が「唄子の店」の仲間とアムスを設立。
1978年(昭和53年)、大阪に『アマゾン』がオープン[4]。
1979年(昭和54年)、賀山茂が六本木にSAMMをオープン。
1979年(昭和54年)頃[注 2]、中村あけみが新宿二丁目にスナック「明美」を開店[6]。
1980年(昭和55年)、葵マリが『赤坂ブルーシャトー』を設立[7][注 3]。
1980年(昭和55年)、本田富朗と関和子により『中野クィーン』がオープン[4]。
1980年(昭和55年)頃、中野坂上に『アダム&イヴ』がオープン。
1981年(昭和56年)頃、麻布に『ジキルの館』、大阪に『姫殿』がオープン。
1982年(昭和57年)、中野クィーンの京子が独立して『レーヌ』をオープン[8]。
1982年(昭和57年)頃、渋谷に『渋谷ジュスティーヌ』がオープン。
1983年(昭和58年)、六本木に『アマン』『悦』、大阪に『マリエ』がオープン。
1983年(昭和58年)頃、大塚に『夢殿』、大阪の谷町九丁目にSMスナック『ポポ』がオープン。
1984年(昭和59年)頃、六本木と横浜に『ルージュ』、大阪に『秘密』がオープン。
1985年(昭和60年)、池袋に『グリーン企画』、赤坂に『赤坂ナビ』がオープン。
1986年(昭和61年)、六本木に『九尾猫』、代々木に『コルドンブルー』、大阪に『堕天使』、『秘密基地』がオープン。
1986年(昭和61年)頃、大阪に『夢楽園』がオープン。
1987年(昭和62年)、目黒に『目黒ルビ』、六本木に『奴隷契約書』、札幌に『札幌ヤプーの館』がオープン。
1988年(昭和63年)、六本木に『ハイヒール』、『ロマンドール』、麻布十番に『クィーンズクラブ』、池袋に『メロディー『プレジデントクラブ』、錦糸町に『錦糸町アリス』、大阪に『ヤプー2』、京都に『シークレットポイント』、高田馬場に『ベンベ』がオープン。九尾猫が『MISTRESS』に改名。
1989年(平成元年)、六本木に『Redスコーピオン』、渋谷に『渋谷シークレット』『デュエット』、目黒に『リーベ』、錦糸町に『錦糸町セリーヌ』、大阪に『クイーンズアベニュー』、札幌に『札幌クール』がオープン。
1989年(平成元年)、この頃、全国でSMクラブが130軒ぐらいあるという試算がある[4]。
2005年(平成17年)11月、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」改正(施行は2006年6月1日)。プレイルーム付きのSMクラブがなくなる。(→エロ法規制の歴史)