「辻番付」の版間の差分
提供:SMpedia
編集の要約なし |
(→解説) |
||
16行目: | 16行目: | ||
1953年(昭和28年)、[[伊藤晴雨]]が[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195307/01/024.html p29]『'''[[其の頃を語る]](二) [[辻番付|辻番附]]の話'''』を寄稿している。 | 1953年(昭和28年)、[[伊藤晴雨]]が[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195307/01/024.html p29]『'''[[其の頃を語る]](二) [[辻番付|辻番附]]の話'''』を寄稿している。 | ||
==解説== | ==解説== | ||
*1897年(明治30年)頃には[[歌舞伎座]]、[[新富座]]、[[明治座]]は新聞広告を出せたが、その他の中小劇場は[[辻番付]]を理髪店、浴場、焼き芋屋などに掲示して宣伝<ref name="sonokoro">[[伊藤晴雨]]『'''[[其の頃を語る]](二) [[辻番付|辻番附]]の話'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195307/01/024.html p29]</ref> | *1897年(明治30年)頃には[[歌舞伎座]]、[[新富座]]、[[明治座]]は新聞広告を出せたが、その他の中小劇場は[[辻番付]]を理髪店、浴場、焼き芋屋などに掲示して宣伝<ref name="sonokoro">[[伊藤晴雨]]『'''[[其の頃を語る]](二) [[辻番付|辻番附]]の話'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195307/01/024.html p29]</ref>。 | ||
*<ref name="sonokoro"></ref> | *芝居の全場面を描き、ストーリーが分かるようになっている。また、役者の大きさは地位・人気により変わる<ref name="sonokoro"></ref>。 | ||
*同じものを『通し』として観劇中に観客に配ったり、贔屓先に贈呈<ref name="sonokoro"></ref>。 | |||
*大正末期から昭和初期に自然消滅<ref name="sonokoro"></ref>。 | |||
== 引用文献== | == 引用文献== | ||
<references/> | <references/> |
2014年12月1日 (月) 12:28時点における版
つじばんづけ。江戸〜明治時代に街中に貼られていたの芝居のポスター。伊藤晴雨は松竹の創立者、大谷竹治郎に乞われ歌舞伎座、新富座、明治座等の看板、辻番付を描く。
概要
江戸時代、明治時代に街中に貼られたの芝居のポスター。明治・大正時代に伊藤晴雨が新派のための辻番付を描いていた。
別名
辻番附
歴史
1903年(明治36年)6月1日、柳盛座で公演された「松隆會巻野憲次一座」の公演『十萬圓』の辻番付らしきものが奇譚クラブ1953年(昭和28年)7月号のグラビアに掲載されている[注 1]。
1906年(明治39年)11月1日、柳盛座で『蘆分小舟』[注 2]の公演。巻野憲二が出演。この時の辻番付は伊藤晴雨の手によるものかもしれない。
1916年(大正5年)頃、大谷竹治郎に乞われ、歌舞伎座、新富座、明治座の看板、辻番付、舞台装置などを担当[1]。
1953年(昭和28年)、伊藤晴雨が奇譚クラブ1953年(昭和28年)7月号, p29『其の頃を語る(二) 辻番附の話』を寄稿している。
解説
- 1897年(明治30年)頃には歌舞伎座、新富座、明治座は新聞広告を出せたが、その他の中小劇場は辻番付を理髪店、浴場、焼き芋屋などに掲示して宣伝[2]。
- 芝居の全場面を描き、ストーリーが分かるようになっている。また、役者の大きさは地位・人気により変わる[2]。
- 同じものを『通し』として観劇中に観客に配ったり、贔屓先に贈呈[2]。
- 大正末期から昭和初期に自然消滅[2]。
引用文献
注釈
お役たちweb
つながり
辻番付 江戸時代 捕縄術 江戸時代の責め 伝統芸能の中の責め 歌川国芳 勝川春章 歌川國貞 月岡芳年 落合芳幾 明治大学博物館 發花杖 江戸三座 中将姫の雪責め 明烏夢泡雪 魁駒松梅桜曙微 白木屋お熊 澤村田之助 草双紙