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'''ふかい としひこ'''、1916年(大正5年) - 1974年(昭和49年)11月12日。[[ストリップ]]演出家。「花魁ショー」等を始める。[[須磨利之]]や[[濡木痴夢男]]の関わるSM雑誌へ、踊り子をモデルとして斡旋。[[田中小実昌]]『'''イザベラね'''』の主人公。 | |||
== | ==概要== | ||
演出家。振り付け師。バーレスク演出家。文筆家。戦前の軽演劇の戯作者を経て、戦後は[[空気座]]文芸部、[[浅草フランス座]]、[[浅草ロック座]]などを中心として[[ストリップ]]の全盛期の作家、演出家として活躍し、[[新宿モダンアート]]の創立や浜松[[富士ミュージック]]の社長も遍歴。ストリップでの「[[花魁ショー]]」や「[[全ストショー]]」の仕掛け人でもある。[[須磨利之]]、[[濡木痴夢男]]との親交があり、両氏の関わるSM雑誌へ、踊り子をモデルとして斡旋していた。[[田中小実昌]]『イザベラね』(1981, 中央公論社)の「大内先生」は[[深井俊彦]]をモデルとしている。1970年代には[[たこ八郎]]が経営していた「[[たこ八郎|たこ部屋]]」の2階に住んでいた。 | |||
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1940年頃、「太平洋戦争の前から浅草の軽演劇の劇場にいて、その劇場がストリップ劇場になり」<ref name="izabera">[[田中小実昌]]『イザベラね』(1981, 中央公論社)</ref> | 1940年頃、「太平洋戦争の前から浅草の軽演劇の劇場にいて、その劇場がストリップ劇場になり」<ref name="izabera">[[田中小実昌]]『イザベラね』(1981, 中央公論社)</ref> | ||
1940年(昭和15年)、浅草[[常磐座]]の「笑いの王国」に参加<ref name="post">『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』週刊ポスト 1974年(昭和49年)5月24日号, p56-p62.</ref>。 | 1940年(昭和15年)、浅草[[常磐座]]の「笑いの王国」に参加<ref name="post">『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』週刊ポスト 1974年(昭和49年)5月24日号, p56-p62.</ref><ref name="#Syowashi"></ref>。 | ||
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1954年(昭和29年)、わいせつ罪で逮捕。求刑4ヶ月のところを罰金刑2万円<ref group="注">「”マッチ一本百円”という寸劇で、コメディアンがスカートをまくってマッチで覗くやつとか、シュミーズ1枚の女と上半身裸の男が、ジルバを踊って体をくっつけるだけ」</ref><ref name="post"></ref>。 | 1954年(昭和29年)、わいせつ罪で逮捕。求刑4ヶ月のところを罰金刑2万円<ref group="注">「”マッチ一本百円”という寸劇で、コメディアンがスカートをまくってマッチで覗くやつとか、シュミーズ1枚の女と上半身裸の男が、ジルバを踊って体をくっつけるだけ」</ref><ref name="post"></ref>。 | ||
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1963年(昭和38年)1月26日、[[ニュー内外ミュージックホール]]にて『虻川画伯のアトリエ』初演。台本は[[濡木痴夢男]]。演出は[[深井俊彦]]。[[裏窓]]3月号に台本。4月号に[[深井俊彦]]が[[北野竜一]]名でエッセイ。 | |||
1963年(昭和38年)9月15日、[[道劇ミュージックホール]]で「とんぼりヌーフォーリーズ ショッキングピンクヌード」に特別出演:[[青木順子]]。構成演出:[[深井俊彦]]、振付:[[杉太郎]]<ref name="#12594765756">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-12594765756.html cobanobuのブログ「特別出演 青木順子」]</ref>。 | |||
1964年(昭和39年)2月16日、[[道劇ミュージックホール]]にて『'''[[肉体の門]]'''』公演。制作:[[深井俊彦]]。第2部は「夜の真珠は濡れている」で構成・演出:[[深井俊彦]]、振付:[[村田凡二郎]]、出演:[[ヒロミ原]]、[[右ノリ子]]、[[光陽子]]<ref name="#12594763886">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-12594763886.html cobanobuのブログ「肉体の門」]</ref>。 | |||
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1965年(昭和40年)頃、浅草の松竹演芸場で[[たこ八郎]]と知り合う<ref name="jitsuwa">[[深井俊彦]]『'''[[ピンク実演]]の”あしたのジョー”?[[たこ八郎|太古八郎]]'''』([[実話情報]]12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148</ref>。 | 1965年(昭和40年)頃、浅草の松竹演芸場で[[たこ八郎]]と知り合う<ref name="jitsuwa">[[深井俊彦]]『'''[[ピンク実演]]の”あしたのジョー”?[[たこ八郎|太古八郎]]'''』([[実話情報]]12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148</ref>。 | ||
1966年(昭和41年)、『体当りマンハント旅行』(糸文弘監督、原作:[[豊原路子]]、横浜マコ、南条ユカ、オスカープロ)の製作に関与。[[田中小実昌]] | 1966年(昭和41年)、『体当りマンハント旅行』(糸文弘監督、原作:[[豊原路子]]、横浜マコ、南条ユカ、オスカープロ)の製作に関与。[[田中小実昌]]がトルコ風呂のマネージャー役で出演。制作は[[千中ミュージック]]の社長<ref>[http://tanakakomimasadb.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/index.html 田中小実昌データベース]</ref>。 | ||
1972年(昭和47年)頃、富士市にあるストリップ小屋の雇われ社長<ref name="post"></ref>。 | 1972年(昭和47年)頃、富士市にあるストリップ小屋の雇われ社長<ref name="post"></ref>。 | ||
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1974年(昭和49年)1月16日、新宿「磯源」にて『'''深井俊彦さんを偲ぶ会'''』<ref name="#12600038664"></ref>。出席者:深井香(妻)、深井俊哉(息子)、[[酒井俊]]、[[小崎政房]]、[[淀橋太郎]]、[[佐山淳]]、[[中谷陽]]、[[正邦乙彦]]、[[浅草駒太夫]]、[[田中小実昌]]、[[片山力]]、[[中村守恵]]、[[益岡清志]]([[益田凡児]])、[[山中康道]](元名古屋ミュージックホール支配人)、[[木俣堯喬]]、[[樋口四郎]]、[[北里俊夫]]、[[鶴見博]]、[[太古八郎]]、[[南寿郎]]、[[木村学司]]、[[市村美就夫]]、[[森永武治]]、[[横尾真一]]、[[島栄光]]、[[吉村平吉]]、[[緑川崇久]]等 | |||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*[[須磨利之|須磨]]が[[濡木痴夢男|濡木]] | *[[須磨利之|須磨]]が[[濡木痴夢男|濡木]]に深井を紹介する。[[新宿フランス座]]において。出会いから数年後、[[濡木痴夢男]]は[[深井俊彦]]一座の座付き作者となって、東海道の旅興行までついていく<ref name="shibai97"></ref>。 | ||
*[[田中小実昌]]『イザベラね』(1981, 中央公論社)は、[[深井俊彦]]にまつわる小説である。小説中深井は「大内先生」として登場する。 | *[[田中小実昌]]『イザベラね』(1981, 中央公論社)は、[[深井俊彦]]にまつわる小説である。小説中深井は「大内先生」として登場する。 | ||
*[[深井俊彦]]が[[百万弗劇場]]支配人、[[小黒玉明]]に今のはダメだから、ショウを書いてくれと頼まれて、そのダメなやつを見にいったら「変な、くず屋のかっこうして、でかい、へたな役者がいる。何だ、あれはっていつたら、渥美清」だった<ref name="IiIchiro">[[伊井一郎]]『颯爽女剣劇幕間なし-戦後編』in [[Luna-J]]2000年(平成12年)4月25日号</ref>。 | |||
*[[横浜セントラル]]前身のオペラ館の文芸部、[[納屋橋中央劇場]]、[[温泉劇場]]、[[公園劇場]]、[[岐阜セントラル]]、[[名古屋ミュージックホール]]、[[内外ミュージック]]などで演出。[[松倉宇七]]の[[東洋興業]]にも籍をおいていた<ref name="ex01">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-11874542447.html ミュージックホール納屋橋中央劇場跡探訪]</ref>。 | |||
*[[吉田興行]]に関係<ref name="#12586704310">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-12586704310.html cobanobuのブログ「DX東寺」]</ref>。 | |||
==代表作== | ==代表作== | ||
*[[深井俊彦|北野竜一]] | *[[深井俊彦|北野竜一]]『'''可愛い女 飼育'''』([[裏窓]]、1962年1月号)<ref group="注">この作品を最初として北野竜一の名前で[[裏窓]]に1965年まで7作を書いている。</ref> | ||
*[[深井俊彦|北野竜一]] | *[[深井俊彦|北野竜一]]『'''ある「純粋」な関係'''』([[サスペンスマガジン]]、1965年4月号)<ref group="注">この作品を最初として北野竜一の名前で[[サスペンスマガジン]]に1969年まで10作を書いている。</ref> | ||
*[[深井俊彦]]『'''[[ピンク実演]]の”あしたのジョー”?[[たこ八郎|太古八郎]]'''』([[実話情報]]12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148) | *[[深井俊彦]]『'''[[ピンク実演]]の”あしたのジョー”?[[たこ八郎|太古八郎]]'''』([[実話情報]]12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148) | ||
*[[深井俊彦]] | *[[深井俊彦]]『'''ああストリップ人生'''』(プレイ情報、1971年(昭和46年)3月号) | ||
* | *[[深井俊彦]]『'''舞台の上のマゾ女優'''』[[SMキング]]1973年(昭和48年)2月号 | ||
*[[深井俊彦]] | *[[深井俊彦]]『'''続・舞台の上のマゾ女優'''』[[SMキング]]1973年(昭和48年)5月号 | ||
*[[深井俊彦]]、[[正邦乙彦]] | *[[小沢昭一]]、 [[深井俊彦]]、[[中谷陽]]『'''消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史'''』(新劇、1973年(昭和48年)9月号) | ||
*[[深井俊彦]]・文、[[石井隆]]・画『'''[[残酷ショウ]]裏話'''』[[SMキング]]1974年(昭和49年)2月号 | |||
*[[深井俊彦]]、[[正邦乙彦]]、[[中谷陽]]、[[林征二]]『'''四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ'''』(週刊ポスト, 1974年(昭和49年)5月24日号) | |||
*[[小沢昭一]]、 [[深井俊彦]]『'''戦後ストリップ史 I'''』 in 「[[小沢昭一]]対談集 清談・性談・聖談そして雑談」([[白川書院]], 1974.8.20) | |||
*[[深井俊彦]]『'''ストリッパーとヌードダンサー'''』in [[ヌード・インテリジェンス]] 1974年(昭和49年)8月 44号 | |||
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画像:Yagi03.jpg|[[北野竜一]]『'''続・[[私の愛した女優]] しのび逢い刺青情話'''』[[裏窓]] 1963年(昭和38年)7月号より。挿絵:[[都築峰子]]。 | |||
画像:TakashiIshii05.png|[[深井俊彦]]・文、[[石井隆]]・画『'''[[残酷ショウ]]裏話'''』[[SMキング]]1974年(昭和49年)2月号 | |||
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===映画=== | |||
*『'''快楽'''』(LL企画, 1965)の脚本。 | |||
*『'''体当りマンハント旅行'''』(1966) | |||
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2024年11月11日 (月) 14:39時点における最新版
ふかい としひこ、1916年(大正5年) - 1974年(昭和49年)11月12日。ストリップ演出家。「花魁ショー」等を始める。須磨利之や濡木痴夢男の関わるSM雑誌へ、踊り子をモデルとして斡旋。田中小実昌『イザベラね』の主人公。
概要
演出家。振り付け師。バーレスク演出家。文筆家。戦前の軽演劇の戯作者を経て、戦後は空気座文芸部、浅草フランス座、浅草ロック座などを中心としてストリップの全盛期の作家、演出家として活躍し、新宿モダンアートの創立や浜松富士ミュージックの社長も遍歴。ストリップでの「花魁ショー」や「全ストショー」の仕掛け人でもある。須磨利之、濡木痴夢男との親交があり、両氏の関わるSM雑誌へ、踊り子をモデルとして斡旋していた。田中小実昌『イザベラね』(1981, 中央公論社)の「大内先生」は深井俊彦をモデルとしている。1970年代にはたこ八郎が経営していた「たこ部屋」の2階に住んでいた。
別名
Toshihiko Fukai, 北野竜一
略歴
1916年(大正5年)、群馬県高崎市生まれ[2]
1940年頃、「太平洋戦争の前から浅草の軽演劇の劇場にいて、その劇場がストリップ劇場になり」[3]
1940年(昭和15年)、浅草常磐座の「笑いの王国」に参加[4][2]。
東京吉本文芸部に移り「素敵な青空」などの台本。戦前の軽演劇ブームの中心的存在[2]。
1948年(昭和23年)、関西のアポロショーで初の花魁ショー。深井俊彦が演出。
1952年(昭和27年)2月21日、大阪新世界の「温泉劇場」で『籠釣瓶女の乳煙(吉原百人斬)』を公演。花魁ショーの始まりとされる場合もある[5]。
1954年(昭和29年)、わいせつ罪で逮捕。求刑4ヶ月のところを罰金刑2万円[注 1][4]。
1957年(昭和32年)頃、名古屋の中央劇場の演出を担当[6]
1957年(昭和32年)、「全ストショー」を百万ドルショーという一座にやらせる[注 2][4]。
1961年(昭和36年)頃、向井一也が深井俊彦に手紙で青木順子を紹介。舞台テストで濡木痴夢男が逆海老に縛り、その後深井俊彦演出の舞台に出演[7]。
1963年(昭和38年)1月26日、ニュー内外ミュージックホールにて『虻川画伯のアトリエ』初演。台本は濡木痴夢男。演出は深井俊彦。裏窓3月号に台本。4月号に深井俊彦が北野竜一名でエッセイ。
1963年(昭和38年)9月15日、道劇ミュージックホールで「とんぼりヌーフォーリーズ ショッキングピンクヌード」に特別出演:青木順子。構成演出:深井俊彦、振付:杉太郎[8]。
1964年(昭和39年)2月16日、道劇ミュージックホールにて『肉体の門』公演。制作:深井俊彦。第2部は「夜の真珠は濡れている」で構成・演出:深井俊彦、振付:村田凡二郎、出演:ヒロミ原、右ノリ子、光陽子[9]。
1965年(昭和40年)、ピンク映画の演出に進出。八光企画の「媚態」を監督するとの記事[1]。
1965年(昭和40年)頃、浅草の松竹演芸場でたこ八郎と知り合う[10]。
1966年(昭和41年)、『体当りマンハント旅行』(糸文弘監督、原作:豊原路子、横浜マコ、南条ユカ、オスカープロ)の製作に関与。田中小実昌がトルコ風呂のマネージャー役で出演。制作は千中ミュージックの社長[11]。
1972年(昭和47年)頃、富士市にあるストリップ小屋の雇われ社長[4]。
1973年(昭和48年)頃、新宿「たこ部屋」の二階に30歳年下の愛妻と住んでいるとの記載がある[12]。たこ部屋については、濡木痴夢男が「井上荘という木造二階建てのアパートの一階・・・たこ八郎はその二階の四畳半の部屋で寝起きしていた。このとき、深井俊彦は、新宿百人町の井上荘、つまり「たこ部屋」の二階のアパートの一室に寝起きしていた。そこは、たこ八郎のとなりの部屋である。」と記述している[13]
1974年(昭和49年)11月12日、病死[14][15]。
1974年(昭和49年)1月16日、新宿「磯源」にて『深井俊彦さんを偲ぶ会』[15]。出席者:深井香(妻)、深井俊哉(息子)、酒井俊、小崎政房、淀橋太郎、佐山淳、中谷陽、正邦乙彦、浅草駒太夫、田中小実昌、片山力、中村守恵、益岡清志(益田凡児)、山中康道(元名古屋ミュージックホール支配人)、木俣堯喬、樋口四郎、北里俊夫、鶴見博、太古八郎、南寿郎、木村学司、市村美就夫、森永武治、横尾真一、島栄光、吉村平吉、緑川崇久等
エピソード
- 須磨が濡木に深井を紹介する。新宿フランス座において。出会いから数年後、濡木痴夢男は深井俊彦一座の座付き作者となって、東海道の旅興行までついていく[13]。
- 田中小実昌『イザベラね』(1981, 中央公論社)は、深井俊彦にまつわる小説である。小説中深井は「大内先生」として登場する。
- 深井俊彦が百万弗劇場支配人、小黒玉明に今のはダメだから、ショウを書いてくれと頼まれて、そのダメなやつを見にいったら「変な、くず屋のかっこうして、でかい、へたな役者がいる。何だ、あれはっていつたら、渥美清」だった[16]。
- 横浜セントラル前身のオペラ館の文芸部、納屋橋中央劇場、温泉劇場、公園劇場、岐阜セントラル、名古屋ミュージックホール、内外ミュージックなどで演出。松倉宇七の東洋興業にも籍をおいていた[17]。
- 吉田興行に関係[18]。
代表作
- 北野竜一『可愛い女 飼育』(裏窓、1962年1月号)[注 3]
- 北野竜一『ある「純粋」な関係』(サスペンスマガジン、1965年4月号)[注 4]
- 深井俊彦『ピンク実演の”あしたのジョー”?太古八郎』(実話情報12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148)
- 深井俊彦『ああストリップ人生』(プレイ情報、1971年(昭和46年)3月号)
- 深井俊彦『舞台の上のマゾ女優』SMキング1973年(昭和48年)2月号
- 深井俊彦『続・舞台の上のマゾ女優』SMキング1973年(昭和48年)5月号
- 小沢昭一、 深井俊彦、中谷陽『消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史』(新劇、1973年(昭和48年)9月号)
- 深井俊彦・文、石井隆・画『残酷ショウ裏話』SMキング1974年(昭和49年)2月号
- 深井俊彦、正邦乙彦、中谷陽、林征二『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』(週刊ポスト, 1974年(昭和49年)5月24日号)
- 小沢昭一、 深井俊彦『戦後ストリップ史 I』 in 「小沢昭一対談集 清談・性談・聖談そして雑談」(白川書院, 1974.8.20)
- 深井俊彦『ストリッパーとヌードダンサー』in ヌード・インテリジェンス 1974年(昭和49年)8月 44号
映画
- 『快楽』(LL企画, 1965)の脚本。
- 『体当りマンハント旅行』(1966)
参考資料
- ↑ 1.0 1.1 ショック映画1965年創刊号
- ↑ 2.0 2.1 2.2 中谷陽・編『ストリップ昭和史』(インテリジェンス社 , 1979)
- ↑ 田中小実昌『イザベラね』(1981, 中央公論社)
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』週刊ポスト 1974年(昭和49年)5月24日号, p56-p62.
- ↑ 深井俊彦『歌舞伎ストリップ・バーレスク:籠釣瓶女の乳煙(吉原百人斬)』新劇、1973年9月号
- ↑ 深井俊彦『残酷ショウ裏話』SMキング1974年(昭和49年)2月号
- ↑ 深井俊彦『舞台の上のマゾ女優』SMキング1973年(昭和48年)2月号
- ↑ cobanobuのブログ「特別出演 青木順子」
- ↑ cobanobuのブログ「肉体の門」
- ↑ 深井俊彦『ピンク実演の”あしたのジョー”?太古八郎』(実話情報12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148
- ↑ 田中小実昌データベース
- ↑ 深井俊彦「続・舞台の上のマゾ女優」(SMキング、1973年(昭和48年)5月号, p260-261)
- ↑ 13.0 13.1 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十七回
- ↑ 濡木痴夢男仕事メモ
- ↑ 15.0 15.1 cobanobuのブログ「月刊裸舞・らぶ3」
- ↑ 伊井一郎『颯爽女剣劇幕間なし-戦後編』in Luna-J2000年(平成12年)4月25日号
- ↑ ミュージックホール納屋橋中央劇場跡探訪
- ↑ cobanobuのブログ「DX東寺」