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[[山邊信雄]]が「[[花と蛇]]」を原作に[[団鬼六]]の脚本で作製。[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケ。[[奇譚クラブ]]で話題。  
[[山邊信雄]]が「[[花と蛇]]」を原作に[[団鬼六]]の脚本で作製。[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケ。[[奇譚クラブ]]で話題。  
==概要==
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録音所:[[目黒スタジオ]]<br>
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協力:[[熱海城]]<br>
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遠山静子:[[紫千鶴]]<ref group="注">日本女優辞典では、[[紫千鶴]]は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消したとされている。[[奇譚クラブ]]には何回か、「[[花と蛇]]」の主演女優として[[紫千鶴]]の名前が出てくる。</ref><br>
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映倫番号:14003。
映倫番号:14003。
==監督は[[山邊信雄]]([[岸信太郎]])か[[小林悟]]か?==
==[[1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?]]==
情宣チラシには「監督:[[岸信太郎]](=[[山邊信雄]])」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)[[岸信太郎]]の監督作品とされている。一方で、[[山邊信雄]]本人は[[小林悟]]が監督であったと述べており、複数の周辺情報は[[小林悟]]が監督であったことを支持しており、真相は謎である。
{{1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?}}
 
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。
*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。


==主演女優[[紫千鶴]]は元[[新東宝]]・[[松竹]]の女優か?==
==主演女優[[紫千鶴]]は元[[新東宝]]・[[松竹]]の女優か?==
[[画像:murasakichiyo.jpg|150px|thumbnail|『'''伝七捕物帖 銀蛇呪文'''』([[松竹]], 1957)での[[紫千代]]([[紫千鶴]])の磔シーン。[[美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]]、1965)より。]]
[[画像:murasakichiyo.jpg|150px|thumbnail|『'''伝七捕物帖 銀蛇呪文'''』([[松竹]], 1957)での[[紫千代]]([[紫千鶴]])の磔シーン。[[美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]]、1965)より。[[1965年版「花と蛇」]]の主演女優の可能性がある。]]
情宣チラシには遠山静子役は「[[紫千鶴]]」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「[[紫千鶴]]」の名が出てくる。この「[[紫千鶴]]」が、1932年(昭和7年)生まれで[[新東宝]]の森繁作品などに出ていた[[紫千鶴]]なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。
情宣チラシには遠山静子役は「[[紫千鶴]]」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「[[紫千鶴]]」の名が出てくる。この「[[紫千鶴]]」が、1932年(昭和7年)生まれで[[新東宝]]の森繁作品などに出ていた[[紫千鶴]](後に[[紫千代]]に改名)なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。


*[[奇譚クラブ]]1957年(昭和32年)3月号の千葉栄市『'''映画即応欄'''』で紹介している松竹映画「よいどれ牡丹」(1956)で、[[紫千鶴]]が後ろ手に縛られるシーンが報告されている。
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。
*mixiのみか鈴情報で、[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0912090.htm 高尾ユリ]という女優が1965年頃に活動している。
*mixiのみか鈴情報で、[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0912090.htm 高尾ユリ]という女優が1965年頃に活動している。
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==ロケ地[[熱海城]]について==
==ロケ地[[熱海城]]について==
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*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、撮影は、当時宿泊施設を兼ねていた「[[熱海城]]」でおこなわれたとあり、チラシの協力=[[熱海城]]と一致する。
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、撮影は、当時宿泊施設を兼ねていた「[[熱海城]]」でおこなわれたとあり、チラシの協力=[[熱海城]]と一致する。
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>によると、[[熱海城]]の支配人は[[山邊信雄]]の父親の元・秘書であった。
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>によると、[[熱海城]]の支配人は[[山邊信雄]]の父親の元・秘書であった。
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[[若松孝二と「花と蛇」]]
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ヤマベプロ1965年製作『花と蛇』チラシ表(Nuit de Tokyo氏所蔵)
ヤマベプロ1965年製作『花と蛇』チラシ裏(Nuit de Tokyo氏所蔵)
ヤマベプロ1965年製作『花と蛇』。成人映画1965年10月号より
ヤマベプロ1965年製作『花と蛇』。1965年(昭和40年)9月の東京スポーツ新聞より

山邊信雄が「花と蛇」を原作に団鬼六の脚本で作製。たこ八郎山本昌平火鳥こずえなども出演しており、熱海城でロケ。奇譚クラブで話題。

概要

1974年から始まるにっかつでの『花と蛇』『団鬼六』ブームが目立つために見落とされがちだが、『花と蛇』の最初の映画化は山邊信雄団鬼六が1965年に作製した、ピンク映画である1965年版「花と蛇」である。企画は東京企画の設立者三田浩の夫人である三島佳子が担当し、たこ八郎山本昌平火鳥こずえ麻木正美なども出演しており、熱海城でロケがおこなわれた。監督は山邊信雄の変名、岸信太郎とする記録が多いが、小林悟であった可能性を示唆する情報もある。主演女優の紫千鶴が、マキノ映画などに出演していた1932年(昭和7年)生まれの女優なのか、同姓同名の別人かについてもはっきりしない。

山邊信雄団鬼六コンビは、1960年代にヤマベプロから『花と蛇』を原作と謳う『奇譚クラブ 花と蛇より 骨まで縛れ』『縄と乳房』『鞭と肌』『続・花と蛇 赤い拷問』『花と蛇より 肉の飼育』も作製している。

スタッフ・出演者[1]

製作:山辺信雄
制作:ヤマベプロダクション
配給:東京企画
企画:三島佳子
脚本:団鬼六
監督:岸信太郎
撮影:杉田安久利
照明:東京映画照明
音楽:西山登
録音:星野敏昭
助監督:安藤利男
制作主任:矢島進
録音所:目黒スタジオ
協力:熱海城
川田健二:伊海田弘
遠山静子:紫千鶴[注 1]
遠山隆義:須永康夫
桂子:火鳥こずえ
町子:麻木正美
木村:山本昌平
高岡:太古八郎
鬼村:水原瞭
菊江:森まさみ
京子:立花みゆき
村瀬:近藤敏夫
旅館女中:美川和子
ホテル女中:葵加代子
ホテル女中A:二路あをい
大谷:近藤光政
映倫番号:14003。

1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?

情宣チラシには「監督:岸信太郎(=山邊信雄)」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)岸信太郎の監督作品とされている。一方で、山邊信雄本人は小林悟が監督であったと述べており、複数の周辺情報は小林悟が監督であったことを支持しており、真相は謎である。

  • 山邊信雄氏へのインタビュー[2]では監督が小林悟で、助監督が若松孝二であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。
  • 団鬼六奇譚クラブ1965年(昭和40年)8月号『鬼六談義では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=岸信太郎=山邊信雄では話が合わない。
  • 小林悟自身が「私が始めてSM映画をてがけたのは、この『花と蛇』であった。鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」[3]と述懐している。
  • 小林悟月森功の変名で1965年(昭和40年)頃から東京企画の作品をいくつか監督している。
  • 奇譚クラブ1965年(昭和40年)2月号の鬼六談義には「『花と蛇』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とある。K氏=岸信太郎=山邊信雄では話が合わない。
  • たこ八郎は「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている[4]
  • 二階堂卓也は自身の書籍中のヤマベプロの解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・小林悟)」と書いている[5]

主演女優紫千鶴は元新東宝松竹の女優か?

伝七捕物帖 銀蛇呪文』(松竹, 1957)での紫千代(紫千鶴)の磔シーン。美濃村晃スクリーン・エロティシズム3』(久保書店、1965)より。1965年版「花と蛇」の主演女優の可能性がある。

情宣チラシには遠山静子役は「紫千鶴」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「紫千鶴」の名が出てくる。この「紫千鶴」が、1932年(昭和7年)生まれで新東宝の森繁作品などに出ていた紫千鶴(後に紫千代に改名)なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。

  • 奇譚クラブ1957年(昭和32年)3月号の千葉栄市『映画即応欄』で紹介している松竹映画「よいどれ牡丹」(1956)で、紫千鶴が後ろ手に縛られるシーンが報告されている。
  • 山邊信雄氏へのインタビュー[2]では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。
  • mixiのみか鈴情報で、高尾ユリという女優が1965年頃に活動している。
  • 鬼六談義 映画「花と蛇」』では「紫千鶴火石プロに所属する21才」とある。一方、日本女優辞典では、1932年(昭和7年)6月25日生まれ、とあるので、不一致。ただし、団鬼六火鳥こずえと混同している可能性もある。
  • 二階堂卓也は自身の書籍中の花と蛇の解説で「主演の紫千鶴はこれ一本で消えた」と書いている[5]

若松孝二は関係しているか?

山邊信雄氏へのインタビュー[2]では監督が小林悟で、助監督が若松孝二であったと明確に断言している。ただし1965年(昭和40年)には若松孝二は監督として独立しているので、助監督として正式に参加したと考えるには無理がある。チラシでは助監督は安藤利男となっている。

  • 若松孝二氏へのインタビューでは、山邊信雄の作品の助監督をやった事実はないとのことだった[6]
  • 山邊信雄若松孝二の関係は、1960年前後の「宣弘社」時代から始まり、若松孝二は、最初はスタジオに弁当を仕入れる仕事をしていた。山邊信雄によると親分・子分のような関係だったということだ[2]
  • 若松孝二氏へのインタビューでは、「山邊信雄とは弁当はこびの頃に出会った。」「音響の手伝いをしていた。」「山邊さんの車は磨かされていた。」とのことである[2]
  • 山本昌平氏や山吹ゆかり氏へのインタビューでは、ヤマベプロの撮影現場に(時期は不明だが)、若松孝二がしばしばいたと述べている。
  • 同時期に若松孝二熱海城で『冒涜の罠』を撮影しており[7]、何らかの関係があったのかもしれない。
  • 若松孝二の監督デビュー作は東京企画の『甘い罠』(1963)である。その後、国映に移籍。

ロケ地熱海城について

1965年版「花と蛇」の撮影で使われたとされる熱海城(2012年(平成24年)撮影)

エピソード

  • ポスターには「奇譚クラブ連載”花と蛇”の映画化」と明記している。

1965年版「花と蛇」に関する奇譚クラブの記事

引用文献

  1. 現存するチラシの情報をベースとしている。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 by U (2010.5.2)
  3. 小林悟日本映画の中のSMロマン』in SMプレイ1973年(昭和48年)2月号
  4. たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)
  5. 5.0 5.1 二階堂卓也ピンク映画史: 欲望のむきだし』(彩流社, 2014)
  6. 電話インタビュー by U (2011.9.1)
  7. 成人映画1965年(昭和40年)7月創刊号。

注釈

  1. 日本女優辞典では、紫千鶴は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消したとされている。奇譚クラブには何回か、「花と蛇」の主演女優として紫千鶴の名前が出てくる。

お役たちweb

つながり

若松孝二と「花と蛇」