SMショーの歴史

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歴史

1889年(明治22年)6月12日、新派の前身である壮士芝居[注 1]である大阪新明座で公演で中将姫の雪責め[1]

891年(明治24年)11月、浅草吾妻座で依田学海の済美館「男女合同改良演劇」による壮士芝居「政党美談淑女の操」が上演。この芝居に責め場があったかどうか不明だが、小説雑誌「都の花」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された際、小林永濯が責め絵的な挿絵を描いている[2]

1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での『日清戦争・夜討之仇譚』の看護婦の拷問シーンが話題となり、同種の拷問芝居がブームになる[3][1][注 2]

1952年(昭和27年)、奇譚クラブ11月号, p64の朝見速夫『ストリップ変態記』でサドマゾを取り入れたストリップショーのことが紹介。

1953年(昭和28年)6月4日、伊藤晴雨が市川市鈴木演芸場で『責めの劇団』の第1回公演[注 3]。7月11日文京区東片町中村座で第2回公演[注 4][注 5]

1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号, グラビアに『捕物の舞台写真』が紹介。

1955年(昭和30年)、奇譚クラブ2月号, p283に浅草の大衆劇場で上演されていた音羽照子一座の責め芝居に関する観劇レポート。伊藤晴雨が関係したような記述。

1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)すぎに「残酷ショー」が流行る。ロベルト秋山(=ローズ秋山?)、伊藤残酷ショー(=伊藤一夫?)。鉄の五郎ショーとか次々現れた[4][注 6]

1964年(昭和39年)年頃、向井一也青木順子ショウを東京や名古屋で。

1964年(昭和39年)、辻村隆の『SMカメラハント』第1回目のモデルが青木順子

1965年(昭和40年)頃、深井が「残酷ショー」を始める。全盛期は30組ほど存在[5]

1965年(昭和40年)頃、ローズ秋山が「残酷ショー」で有名に。

1966年(昭和41年)、ピンク実演の走りとされるカシバシ座での劇団「赤と黒」の芝居。[6]

1967年(昭和42年)、風俗奇譚9月号に『劇団赤と黒「拷問くの一」より』

1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号, p246に「青木順子のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。

1967年(昭和42年)、銀座地球座が邦画名画座からピンク映画上映館に路線変更すると同時に、ピンク実演を開始。こけら落としに内田高子、松井康子谷ナオミが舞台挨拶[6]

1968年(昭和43年)、向井一也が劇団「新しい波」の設立[7][注 7]

1968年(昭和43年)、奇譚クラブ7月号の「最近の縛り演劇・映画から」で忍妙子の「地獄絵ショー」が紹介。

1968年(昭和43年)、既にカシバシ座でのピンク実演に劇団「炎」[注 8]が加わっている[6]

1969年(昭和44年)、奇譚クラブ1月号,p233「奇クサロン」に谷ナオミの実演の観劇レポートが[注 9]

1969年(昭和44年)10月28日、ローズ秋山辻村隆、福田和彦と11PM「サド侯爵もびっくり」に出演[8]

1970年(昭和45年)、奇譚クラブ2月号, p234にローズ秋山が「大阪ダイコー、東大阪市のコーセー劇場で公演」とある。

1970年(昭和45年)、奇譚クラブ9月号, p247に池袋アートシアターでの人間座「奴隷」の観劇レポート。

1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場にいた杉浦則夫団鬼六の鬼プロに参加。たこ八郎が中心の鬼プロピンク実演の第1回目の制作に関わる。

1972年(昭和47年)2月、玉井敬友が関西で劇団スキャンダルを旗揚げ。

1973年(昭和48年)頃、浅草フランス座でも前衛舞踏系の踊りやSM系のショーがおこなわれる[9]

1974年(昭和49年)頃、向井一也の「オリジナルの会」[注 10]を開催しており、長田英吉が影響を受ける。

1974年(昭和49年)、桜田伝次郎、黒川真由美が劇団世界劇場(GSG)旗揚げ[注 11]

1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「奇クサロン」に舟橋一郎「向井一也青木順子の『サディストの告白』を観て」が掲載。

1974年(昭和49年)8月、奇譚クラブ12月号の「編集部便り」に「大阪キタのサパークラブ『スキャンダル』で(向井一也氏の)『サディストの告白』が8月末に公開」とある。

1976年(昭和51年)春、玉井敬友が六本木に劇団「シアタースキャンダル」設立。

1977年(昭和52年)、桜田伝次郎、黒川真由美、桜田信でGSG企画[注 12]を発足。西荻窪、大塚の『SMボンバー』、中野の『東京SM倶楽部』でGSG企画のSMショー[10]

1978年(昭和53年)、西荻窪のビルの地下で行われていたGSG企画のショーで、明智伝鬼桜田伝次郎桜田信が出会う。ショーの後、明智伝鬼が縛りのテクニックを披露[10]

1978年(昭和53年)頃、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得し、SMショーが始まる[注 13][4]

1978年(昭和53年)11月1日、玉井敬友のシアタースキャンダルが「春風座」でSMショー。

1980年(昭和55年)頃、明智伝鬼が「特別会員の会」を組織[10]

1985年(昭和60年)、池袋のスカイ劇場サヨナラ特別公演で「根暗童子夫妻のSMショー」[11]

1987年(昭和62年)7月、明智伝鬼がスタジオファントムを組織[12]。中野クイーンで定期的にショーを[10]

1987年(昭和62年)9月、明智伝鬼が「SM実験劇場スタジオファントム」を旗揚げ。最初月に1回、88.1より月2回の定例公演として97年6月までの10年間の長期公演[12]

1989年(昭和64年)、明智伝鬼が一般会員撮影会を発足。不定期に野外撮影会。その後「SFの会」「伝鬼の会」など四つの会を主宰[12]

1998年(平成10年)頃から、新宿ロフトプラスワン長田英吉早乙女宏美明智伝鬼乱田舞神浦匠ミラ狂美立花マリ蕾火等がショーを開催。

2003年(平成15年)11月1日、ショーアップ大宮にて川上譲治企画による『ザ・SM』シリーズが始まる。

2005年(平成17年)3月11日−20日、DX歌舞伎町にて『スーパーDX SM伝説 誕生篇』。

引用文献

  1. 1.0 1.1 伊藤晴雨其の頃を語る(一) 新派劇の責場奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
  2. 伊藤晴雨其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家奇譚クラブ1953年(昭和28年)8月号, p28
  3. 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)
  4. 4.0 4.1 みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
  5. 佐山淳『外人関西ヌードショウ』新劇、1973年(昭和48年)9月号
  6. 6.0 6.1 6.2 成人映画』1968年(昭和43年)4月号(通算28号)の「ピンク実演:決定的瞬間を生で見る迫力」より
  7. 『サロン楽我記』奇譚クラブ 1968(S43)年11月号
  8. 奇譚クラブ1970年(昭和45年)1月号号「サロン楽我記」
  9. ビートたけし『浅草キッド』(新潮社, 1992)
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 北原童夢『明智伝鬼と戦後日本のSM史』in 『変態さんがいく』(別冊宝島編集部, 2000)
  11. FOCUS, 1985(昭和60)年9/6号
  12. 12.0 12.1 12.2 エピキュリアン

注釈

  1. 書生芝居とも呼ばれ、自由民権運動の流れの中、旧劇・歌舞伎に対抗して生まれてきた。
  2. 男優が女装で演じていた。伊藤晴雨もこの芝居を観ている
  3. 濡木痴夢男はこの公演を観ている。演目は鈴木泉三郎脚本の「火あぶり」(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある(「奇譚クラブの絵師たち」より)。
  4. 江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場、とある。入場料300円。
  5. KK通信1953年(昭和28年)第13号
  6. 例えば季節風書店『裸か美グラフ』1962年(昭和37年)12月号のグラビアには、「バーレスクの残酷場面」と題し、いろいろな緊縛シーンの舞台写真が出ている。「チン版・羅生門」「人のいい痴漢」「誰よりもギャラを愛す」など
  7. 連絡先は、新宿の実験小劇場モダンアート、あるいは名古屋の今池アングラ劇場内の向井常、とある。
  8. 青木マリ、水咲陽子などが出演。濡木痴夢男が「炎」のためにいくつか脚本を書いている。
  9. 渋谷のC座。ヤマベプロ作『人妻地獄』で団鬼六脚本。看板には「奇譚クラブ連載<花と蛇>より」と。三景。谷ナオミ、鈴木通人、南弘二、竹原あこ。併映は『鞭と淫獣』。
  10. 例えば奇譚クラブ1974年11月号p233に「オリジナルの会主催「矛盾の告白」の案内(10.28-31,シアター・グリーン)、p242に8月公演の後書きがある。
  11. 池袋のシアターグリーン、浅草の木馬座、目黒のアスベスト館、京大の西武講堂、茗荷谷の林泉寺などで公演。
  12. 杉並区西荻南2-19-10
  13. 「SMとは何か」「SM調教の歴史と実験」など、けっこうおかたいテーマを作って舞台化。が、しだいに浣腸、鞭、ローソク、吊るしと過激化。

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