ピンク実演
ぴんくじつえん 「ピンク芝居」などとも呼ばれる。
概要
1960年代の中頃(総和40年頃)から10年ほどブームとなったピンク芝居。ピンク映画とカップルでピンク映画女優を含む少人数の役者が寸劇をおこなっていた。いくつかの劇団が活動していた模様で、団鬼六や濡木痴夢男も脚本を書いた。当時の記録からは相当な人気を博していたことがわかる。谷ナオミ、たこ八郎、内田高子、松井康子、林美樹、白川和子、桂奈美、辰巳典子、東てる美などが出ていた。
別名
ピンク芝居
主な出来事
1964年(昭和39年)11月、「大都プロ(奈加公子、綾川しのぶ、麻木正美ら所属)では、こうしたピンク映画の将来性を見越したか、昨年十一月地方公演に新境地をひらき、ストリップ劇場キャバレーの舞台で、ピンク映画ならぬピンク劇場に活路をみい出した。生の人間たちが、ラブシーンを演じるわけである」という記述がある[1]。
1965年(昭和40年)12月20日、千葉船橋にあったストリップ劇場「大宝」で「ピンク映画女優」のピンク実演。重光秀子、林美樹、糸井香子らによる「めす猫の宿」[2][注 1]。
1966年(昭和41年)、カシバシ座での劇団「赤と黒」の芝居がピンク実演の走りとする記述もある。[3]。
1966年(昭和41年)、映画『新拷問刑罰史 拷問』(小森白プロダクション, 1966.7)が京都の「田園キネマ」で上映される際、舞台で「残虐物語二景」と題したストリップが上演された[4]
1967年(昭和42年)、池袋名画座の正月興行の松井康子らのピンク実演が人気を集める。演出は小林悟[5][注 2]。
1967年(昭和42年)、銀座地球座が邦画名画座からピンク映画上映館に路線変更すると同時に、ピンク実演を開始。こけら落としに内田高子、松井康子、谷ナオミが舞台挨拶[3]。
1968年(昭和43年)、既にカシバシ座でのピンク実演に劇団「炎」[注 3]が加わっている[3]。
1969年(昭和44年)、奇譚クラブ1月号,p233「奇クサロン」に谷ナオミの実演の観劇レポートが[注 4]。
1970年(昭和45年)、奇譚クラブ9月号, p247に池袋アートシアターでの人間座「奴隷」の観劇レポート。
1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場にいた杉浦則夫が団鬼六の鬼プロに参加。たこ八郎が中心の鬼プロピンク実演の第1回目の制作に関わる。
エピソード
- 銀座地球座と同じく恵通チェーンの渋谷地球座でも年代不明だがピンク実演がおこなわれている。
- 1969年(昭和44年)の奇譚クラブ8月号び南彦造「演劇批評:『残酷劇』見たまま」では、当時ピンク実演をおこなっていた場所として、カジバシ座、「新宿座」「銀座・池袋・渋谷・錦糸町の地球座」が書かれている。
- 村井實の『はだかの夢年代記―ぼくのピンク映画史』(大和書房, 1989)には「地球座、カジバシ座、池袋名画座で一時間の実演と三本立て映画が450円で楽しめた。真湖、青木まり、水咲陽子、祝真理、芦川絵里、渚マリらが出演」とある。
代表作
- 『めす猫の宿』(重光秀子、林美樹、糸井香子)(1965年)
- 『婦女誘拐編』(辰巳典子)(1968頃)[3]
- 『残虐生娘日記』(祝真理、一星ケミ)(1968頃)[3]
- 「劇団宝石」の『拷問くの一火刑」(於カジバシ座、1969頃)[6]
- 「劇団宝石」の『戦国惨虐史・拷問風林火山」(於カジバシ座、1969頃)[6]
- 忍妙子一座の「血塗られた墓標」(於カジバシ座、1969頃)[6]
- 「劇団砂丘」旗揚げ公演(於カジバシ座、1969頃)[6]
- たこ八郎の演ずる『家畜人ヤプー』(銀座地球座、年代不明)[7]
引用文献
注釈
- ↑ このピンク実演に関しては、1966年(昭和41年)、奇譚クラブ4月号, p23の岩木一夫『「青木順子ショーについて」呼び掛け』の記事の中で、1965年(昭和40年)の暮れに船橋の大宝劇場でエロプロダクションによる『めす猫の宿』を見たが、サディスティックな場面がありなかなかよかったと書いている。
- ↑ 「この正月興行はどこも実演付きがにぎやかだった」「池袋名画座では正月四日から十日まで”松井康子とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出小林悟)を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:松井康子、白川昌雄。数名の女優。
- ↑ 青木マリ、水咲陽子などが出演。濡木痴夢男が「炎」のためにいくつか脚本を書いている。
- ↑ 渋谷のC座。ヤマベプロ作『人妻地獄』で団鬼六脚本。看板には「奇譚クラブ連載<花と蛇>より」と。三景。谷ナオミ、鈴木通人、南弘二、竹原あこ。併映は『鞭と淫獣』。