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'''たかはし てつ'''、1907年(明治40年)-1971年(昭和46年)5月31日。在野の性科学者。1949年(昭和24年)の性愛技書『'''あるす・あまとりあ'''』が大ヒット。『'''[[人間探究]]'''』『'''[[あまとりあ]]'''』他を発刊。「'''性愛の百科全書派'''」と称される。 | |||
== | ==概要== | ||
文筆家。編集者。性科学者。フロイトに傾倒する在野の性科学者だが、江戸時代の豊かな性文化の復権をめざした「'''性愛の百科全書派'''」とも位置づけられている<ref name="ryoukimodern">[[秋田昌美]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4787230875?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4787230875 '''性の猟奇モダン―日本変態研究往来''']』(青弓社, 1994) </ref>。1949年(昭和24年)に[[久保藤吉]]のバックのもとに出版した『'''あるす・あまとりあ 性交態位62型の分析'''』([[あまとりあ社]], 1949)が60万部を超す大ヒットとなり、続いて『'''[[人間探究]]'''』『'''[[あまとりあ]]'''』などの数々の雑誌を創刊。『[[生心リポート]]』猥褻裁判など[[エロ法規制の歴史|エロ法規制]]と闘う。大島渚監督の『'''新宿泥棒日記'''』(1969)に出演している。[[伊藤晴雨]]と交遊があった。 | |||
==別名== | ==別名== | ||
[ | [http://www.nawapedia.com/index.php?title=Tetsu_Takahashi Tetsu Takahashi]、高橋鐵次郎(本名)<ref name="dendou">鈴木敏文『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309241417?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309241417 '''性の伝道者 高橋鉄]'''』([[河出書房新社]], 1993)</ref><ref group="注">長男だが鐵次郎。本人も気に入らず、中学から高橋鐵を名乗り、1953年(昭和28年)に戸籍上も高橋鐵と変更。</ref>、高橋鉄、黄表紙鉄輔、古泉奔 | ||
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1953年(昭和28年)8月、日本生活心理学会の会員誌である[[生心リポート]]創刊。 | |||
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1969年(昭和44年)、大島渚監督の『'''新宿泥棒日記'''』に出演。 | |||
1969年(昭和44年)10月、『'''月刊愛苑'''』([[外苑書房]])創刊。 | |||
1970年(昭和45年)9月、『[[生心リポート]]』猥褻裁判に敗訴。 | |||
1971年(昭和46年)5月31日、没。 | |||
1972年(昭和47年)、[[えろちか]]6月臨時増刊『'''[[高橋鉄]]特集号'''』発行。 | |||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*[[秋田昌美]]は[[高橋鐵]]を「性愛の百科全書派」と位置づけている<ref name="ryoukimodern"></ref>。 | |||
*カルピスの宣伝部に勤務していたときには、「カルピスは恋の味」というコマーシャルを制作。 | *カルピスの宣伝部に勤務していたときには、「カルピスは恋の味」というコマーシャルを制作。 | ||
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==代表作== | ==代表作== | ||
===編集雑誌=== | |||
*『'''あるす・あまとりあ 性交態位62型の分析'''』([[あまとりあ社]], 1949) | |||
*『'''[[赤と黒]]'''』 | |||
*『'''[[人間探究]]'''』 | |||
*『'''[[あまとりあ]]'''』([[あまとりあ社]], 1951) | |||
*『'''[[愛苑]]'''』([[外苑書房]], 1969) | |||
*『'''[[りびどう]]'''』([[外苑書房]], 1970) | |||
===雑誌記事=== | |||
*[[高橋鐵]]『'''結婚初夜は何故破れたか 初夜真理の分析'''』モダン夫婦生活臨時増刊「性愛宝典」1950年(昭和25年) | |||
*[[高橋鐵]]『'''「裸體」異常愛!'''』[[風俗草紙]]1954年(昭和29年)1月号, [http://nawa-art.com/etc/fs/fs195312ext/01/072.html p80]。挿絵は[[中川彩子]]。 | |||
*[[高橋鐵]]『'''奇態同性愛譚'''』[[風俗草紙]]1954年(昭和29年)1月号, [http://nawa-art.com/etc/fs/FS195401/01/063.html p74]。挿絵は[[浜田稔]]。 | |||
*[[高橋鐵]]『'''残酷画家 [[伊藤晴雨]]一代記'''』in 『漫画読本』1968年(昭和43年)6月号(文藝春秋社) | |||
===新聞=== | |||
*『'''不思議新聞'''』(不明)、発行印刷:オリオン社、企画編集:日本生活心理学会内異常現象研究所、執筆:[[高橋鐵]]、[[江戸川乱歩]]、[[藤沢衛彦]]、[[浅田一]]、[[橘小夢]]。4ページ。 | |||
*『'''肉体芸術'''』(1948)、発行印刷:アルフア出版社、編集:[[武野藤介]]、編集主:[[高橋鐵]] | |||
===映画=== | |||
*『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B005094RJG/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B005094RJG&linkCode=as2&tag=iq05-22 新宿泥棒日記]'''』(創造社, 1969)(監督:大島渚、脚本:田村孟、佐々木守、[[足立正生]]、大島渚、出演:横尾忠則、横山リエ、田辺茂一、[[高橋鐵]]、佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏、唐十郎、[[麿赤兒]]、李礼仙、大久保鷹、不破万作、九頭登、藤原マキ、山中広介、四谷シモン、若林美宏) | |||
===[[高橋鐵]]研究本=== | |||
*『'''特集:評伝―[[伊藤晴雨]]/[[高橋鐵]]/[[梅原北明]]/稲垣足穂'''』[[黒の手帖]]1971年(昭和46年)11月号, ([[檸檬社]]) | |||
*鈴木敏文『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309241417?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309241417 '''性の伝道者 高橋鉄]'''』(河出書房新社, 1993) | |||
*[[斎藤夜居]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4787231294?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4787231294 '''セクソロジスト[[高橋鐵]]''']』(青弓社, 1996)<ref group="注">『悩まざりし人ありや 評伝高橋鐵』を…修正を施し、一部分を割愛して復刻</ref> | |||
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2023年9月26日 (火) 07:44時点における最新版
たかはし てつ、1907年(明治40年)-1971年(昭和46年)5月31日。在野の性科学者。1949年(昭和24年)の性愛技書『あるす・あまとりあ』が大ヒット。『人間探究』『あまとりあ』他を発刊。「性愛の百科全書派」と称される。
概要
文筆家。編集者。性科学者。フロイトに傾倒する在野の性科学者だが、江戸時代の豊かな性文化の復権をめざした「性愛の百科全書派」とも位置づけられている[1]。1949年(昭和24年)に久保藤吉のバックのもとに出版した『あるす・あまとりあ 性交態位62型の分析』(あまとりあ社, 1949)が60万部を超す大ヒットとなり、続いて『人間探究』『あまとりあ』などの数々の雑誌を創刊。『生心リポート』猥褻裁判などエロ法規制と闘う。大島渚監督の『新宿泥棒日記』(1969)に出演している。伊藤晴雨と交遊があった。
別名
Tetsu Takahashi、高橋鐵次郎(本名)[2][注 1]、高橋鉄、黄表紙鉄輔、古泉奔
略歴
1907年(明治40年)11月3日、東京都港区芝に生まれる[2][注 2]。
1925年(大正14年)、日本大学予科に入学[2][注 3]。
1926年(大正15年)、カルピス宣伝部にアルバイト学生として勤務[2]。
1927年(昭和2年)2月、浅草伝法院近くのとんかつと酒の店での会で伊藤晴雨と出会う[3]。
1929年(昭和4年)3月、私淑していた左翼運動家で性科学者山本宣治の暗殺に大きなショック[2]。
1929年(昭和4年)、華族の女性と恋愛関係になり心中未遂[2]。
1931年(昭和6年)、小春と結婚。
1933年(昭和8年)12月、大槻憲二の主宰する東京精神分析研究所[注 4]に入所[2]。
1937年(昭和12年)、「怪船『人魚号』」(『オール読物』)で作家デビュー[注 5]。
1939年(昭和14年)、『文学建設』[注 6]同人となる。
1941年(昭和16年)、霞ケ關書房より『世界神秘境』発行[注 7]。
1941年(昭和16年)4月、日本生活心理学会を設立。
1946年(昭和21年)9月、峯岸義一とリファイン社から『赤と黒』(後に『人間復興』に改題)を創刊[4]。
1948年(昭和23年)、新たに設立された「日本性教育協会」の調査研究部長に就任し、式場隆三郎監修、高橋鐵編集の「性教育掛図(初級用)」を完成。文部・厚労省の推奨[2]。
1949年(昭和24年)11月30日、久保藤吉[注 8]の協力を得て『あるす・あまとりあ』を出版。60万部を超す大ヒットとなる[注 9][2]。
1950年(昭和25年)、日本生活心理学会の会員誌『生心リポート』を創刊。
1950年(昭和25年)5月、『改造』の編集長らと共に、第一出版を作り、『人間探究』を発刊。1953.8まで続く。
1951年(昭和26年)2月、東京都板橋区常盤台に新居を構える[2][注 10]。
1951年(昭和26年)、『あまとりあ』発刊。ただし主宰ではない。
1951年(昭和26年)4月21日、『あまとりあ』の発行が軌道に乗ったことを祝し、「あまとりあ祭」として80名で伊豆・蓮台寺温泉に旅行。一行には高橋鐵、伊藤晴雨、中田雅久、三宅一朗、川上三太郎、岡田甫、池田文痴庵、正岡容、林家正楽、北里俊夫、南部僑一郎、武野藤介、小野常徳が[5]。
1952年(昭和27年)春、高橋鐵邸にてあまとりあ社の座談会。出席者:高橋鐵、伊藤晴雨、佐藤倫一郎、清水三重三、サトーハチロー、坂本篤。この時、『論語通解』が高橋鐵の手に渡った模様[6]
1953年(昭和28年)8月、日本生活心理学会の会員誌である生心リポート創刊。
1956年(昭和31年)7月、『生心リポート』猥褻裁判が始まる[注 11]。
1958年(昭和33年)、 八王子医療刑務所に拘禁
1961年(昭和36年)1月28日、伊藤晴雨永眠。葬儀には高橋鐵、須磨利之、上田青柿郎、中田雅久などが参列。
1964年(昭和39年)1月、高橋鐵宅、展望社、マイアミ出版社が家宅捜索をうけ、『高橋鉄コレクション(正・続)』(展望社, 1962, 1963)が押収。
1969年(昭和44年)、大島渚監督の『新宿泥棒日記』に出演。
1969年(昭和44年)10月、『月刊愛苑』(外苑書房)創刊。
1970年(昭和45年)9月、『生心リポート』猥褻裁判に敗訴。
1971年(昭和46年)5月31日、没。
1972年(昭和47年)、えろちか6月臨時増刊『高橋鉄特集号』発行。
エピソード
- 極度のアルコール依存症の上にガンと闘病
- 未亡人、末子さん(後妻)が家に灯油を撒いて自殺
- 門下生に広橋梵。『生活文化』「造化」『新生』を出す
代表作
編集雑誌
- 『あるす・あまとりあ 性交態位62型の分析』(あまとりあ社, 1949)
- 『赤と黒』
- 『人間探究』
- 『あまとりあ』(あまとりあ社, 1951)
- 『愛苑』(外苑書房, 1969)
- 『りびどう』(外苑書房, 1970)
雑誌記事
- 高橋鐵『結婚初夜は何故破れたか 初夜真理の分析』モダン夫婦生活臨時増刊「性愛宝典」1950年(昭和25年)
- 高橋鐵『「裸體」異常愛!』風俗草紙1954年(昭和29年)1月号, p80。挿絵は中川彩子。
- 高橋鐵『奇態同性愛譚』風俗草紙1954年(昭和29年)1月号, p74。挿絵は浜田稔。
- 高橋鐵『残酷画家 伊藤晴雨一代記』in 『漫画読本』1968年(昭和43年)6月号(文藝春秋社)
新聞
- 『不思議新聞』(不明)、発行印刷:オリオン社、企画編集:日本生活心理学会内異常現象研究所、執筆:高橋鐵、江戸川乱歩、藤沢衛彦、浅田一、橘小夢。4ページ。
- 『肉体芸術』(1948)、発行印刷:アルフア出版社、編集:武野藤介、編集主:高橋鐵
映画
- 『新宿泥棒日記』(創造社, 1969)(監督:大島渚、脚本:田村孟、佐々木守、足立正生、大島渚、出演:横尾忠則、横山リエ、田辺茂一、高橋鐵、佐藤慶、渡辺文雄、戸浦六宏、唐十郎、麿赤兒、李礼仙、大久保鷹、不破万作、九頭登、藤原マキ、山中広介、四谷シモン、若林美宏)
高橋鐵研究本
- 『特集:評伝―伊藤晴雨/高橋鐵/梅原北明/稲垣足穂』黒の手帖1971年(昭和46年)11月号, (檸檬社)
- 鈴木敏文『性の伝道者 高橋鉄』(河出書房新社, 1993)
- 斎藤夜居『セクソロジスト高橋鐵』(青弓社, 1996)[注 12]
引用文献
注釈
- ↑ 長男だが鐵次郎。本人も気に入らず、中学から高橋鐵を名乗り、1953年(昭和28年)に戸籍上も高橋鐵と変更。
- ↑ 父清三郎は株の仲介業をおこなう実業家。母てふは新橋花柳界出身。
- ↑ 1928年(昭和3年)には本科入学。
- ↑ 在野のフロイド研究家大槻憲二が1928年(昭和3年)に設立。機関誌は『精神分析』。
- ↑ 創作活動は僅か3年弱で途絶えるが『新青年』や『モダン日本』へ10篇程の短編を発表した。鮎川哲也によれば、昭和15年発表の「太古の血」が最後の創作小説と言う(出典:鮎川哲也・編『怪奇探偵小説集Ⅲ』双葉文庫)。
- ↑ 海音寺潮五郎らが創刊
- ↑ 1953年(昭和28年)に久保書店より再刊
- ↑ 久保藤吉自身もヴェルデの『完全なる結婚』を意識した出版を模索していたところ、東京タイムスの大村氏に高橋鐵を紹介されて訪問。書きかけの『あるす・あまとりあ』の原稿を一目見て出版を決意。式場隆三郎の推奨を得る。
- ↑ ヴァン・デ・ヴェルデの『完全なる結婚』を意識した作品。
- ↑ 当時としては大豪邸。久保籐吉から前借りして購入。「あまとりあ御殿」と呼ばれれる。
- ↑ 1963年(昭和38年)1月に第一審で有罪。第二審も有罪、1970年(昭和45年)9月に最高裁で有罪が確定。
- ↑ 『悩まざりし人ありや 評伝高橋鐵』を…修正を施し、一部分を割愛して復刻