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1966年(昭和41年)、[[成人映画]]4月20日号(通巻9号)に3月15日から1週間、池袋のシネマ・リリオで公演上演された劇団「[[赤と黒]]」の記事。昨年の1月、浜松のストリップ劇場で劇団の名前もつけず「[[めす猫の宿]]」を公演とある。 | 1966年(昭和41年)、[[成人映画]]4月20日号(通巻9号)に3月15日から1週間、池袋のシネマ・リリオで公演上演された劇団「[[赤と黒]]」の記事。昨年の1月、浜松のストリップ劇場で劇団の名前もつけず「[[めす猫の宿]]」を公演とある。 | ||
1966年(昭和41年)、[[ユーモアグラフ]]4月号のグラビアに[[藤田リカ]]が出ており、「劇団『[[赤と黒]]』に所属して」と紹介されている。 | 1966年(昭和41年)、[[ユーモアグラフ]]4月号のグラビアに[[藤田リカ]]が出ており、「劇団『[[赤と黒]]』に所属して」と紹介されている。 | ||
1966年(昭和41年)3月25日、池袋の[[シネマ・リリオ]]で3月25日より上演された、劇団『'''[[赤と黒]]'''』の『'''悶えるうめき'''』公演の様子が『[[成人映画]]』がNo. 8で紹介。[[戸塚純]]・作、[[松野京一]]・演出で出演は[[志村曜子]]、[[二ツ木綾子]]、[[藤田莉花]]、[[林美樹]]、[[糸井香子]]、[[堺新太郎]]、[[島崎始]]、[[山田昭三]]、[[木田英三]]。「きょねんの十月、浜松のストリップ劇場で、別に劇団の名前もつけずに、小人のマーチャンを座長にビックスターが集まって「'''[[めす猫の宿]]'''」([[戸塚純]]作・演出)を公演したところ大ヒット。その評判をきいてあちこの興行主から口がかかって大阪、姫路、神戸、平塚んど九都市で巡演、いずれもヒットを放った。そこで本格的な劇団にしようと劇団『'''[[赤と黒]]'''』と名前をつけ、晴れの東京進出となった」とある。 | |||
1966年(昭和41年)、[[ユーモアグラフ]]6月号のグラビアに[[林美樹]]が出ており、「ピンク劇団『[[赤と黒]]』で芝居に大ハッスル中」と紹介されている。 | 1966年(昭和41年)、[[ユーモアグラフ]]6月号のグラビアに[[林美樹]]が出ており、「ピンク劇団『[[赤と黒]]』で芝居に大ハッスル中」と紹介されている。 | ||
1967年(昭和42年)、[[風俗奇譚]]9月号に『劇団[[赤と黒]] | 1966年(昭和41年)10月、[[成人映画]] No.12 (10月1日発行)に劇団「[[赤と黒]]」の8回目の公演作『'''狂ったプラン'''』(原作・演出:[[松野京一]]、脚本:[[安永作二]])が池袋の[[リリオ]]と[[カジバシ座]]で公演中だと。次回作は芥川賞作品の石塚喜久三『'''回春堂'''』の予定だと。 | ||
1967年(昭和42年)、[[風俗奇譚]]9月号に『劇団[[赤と黒]]'''[[拷問くノ一]]'''より』 | |||
1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]8月号『[[鬼六談議]] カメラ嫌い』に「[[ピンク映画]]『鞭と肌』の女優のほとんどは劇団「[[赤と黒]]」の団員」とある。 | 1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]8月号『[[鬼六談議]] カメラ嫌い』に「[[ピンク映画]]『鞭と肌』の女優のほとんどは劇団「[[赤と黒]]」の団員」とある。 | ||
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1967年(昭和42年)、[[実話情報]]8月号に「劇団[[赤と黒]] | 1967年(昭和42年)、[[実話情報]]8月号に「劇団[[赤と黒]] '''[[拷問くノ一]]'''」 | ||
1967年(昭和42年)、[[風俗奇譚]]12月号に「拷問金瓶梅 [[赤と黒]]劇団公演より」 | 1967年(昭和42年)、[[風俗奇譚]]12月号に「拷問金瓶梅 [[赤と黒]]劇団公演より」 | ||
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1968年(昭和43年)6月、[[S・Mグラフ]]6月創刊号に『'''[[拷問くノ一]]卍'''』として[[藤田リカ]]、[[小川純]]らの舞台写真が紹介。 | |||
1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]6月号『[[鬼六談議]] 酒場の話』に「赤と黒はもうつぶれた」とある。 | 1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]6月号『[[鬼六談議]] 酒場の話』に「赤と黒はもうつぶれた」とある。 | ||
1970年代?、[[辰巳出版]]の「SM特集」の中に[[松野京一]]『'''SM演劇裏ばなし 血と乳房'''』。「[[赤と黒]]」を主宰していたころの[[ピンク実演]]の想い出話。 | |||
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概要
新橋にあったカジバシ座などでSM色の強いピンク実演をやっていた。少なくとも1966年(昭和41年)の春には活動していた模様。志村曜子、林美樹、藤田リカや白川和子が出ていたようだ。『赤と黒』の団員はヤマベプロの作品に何作が出演している。
劇団「赤と黒」歴史
1965年(昭和40年)10月1日−10日、浜松のストリップ劇場「金馬車ミュージック」で戸塚純作演出の「めす猫の宿」全四景を上演。出演は麻木正美、綾川しのぶ、奈加公子、紫理子、丘百合子、志村曜子[1]。
1966年(昭和41年)、成人映画4月20日号(通巻9号)に3月15日から1週間、池袋のシネマ・リリオで公演上演された劇団「赤と黒」の記事。昨年の1月、浜松のストリップ劇場で劇団の名前もつけず「めす猫の宿」を公演とある。
1966年(昭和41年)、ユーモアグラフ4月号のグラビアに藤田リカが出ており、「劇団『赤と黒』に所属して」と紹介されている。
1966年(昭和41年)3月25日、池袋のシネマ・リリオで3月25日より上演された、劇団『赤と黒』の『悶えるうめき』公演の様子が『成人映画』がNo. 8で紹介。戸塚純・作、松野京一・演出で出演は志村曜子、二ツ木綾子、藤田莉花、林美樹、糸井香子、堺新太郎、島崎始、山田昭三、木田英三。「きょねんの十月、浜松のストリップ劇場で、別に劇団の名前もつけずに、小人のマーチャンを座長にビックスターが集まって「めす猫の宿」(戸塚純作・演出)を公演したところ大ヒット。その評判をきいてあちこの興行主から口がかかって大阪、姫路、神戸、平塚んど九都市で巡演、いずれもヒットを放った。そこで本格的な劇団にしようと劇団『赤と黒』と名前をつけ、晴れの東京進出となった」とある。
1966年(昭和41年)、ユーモアグラフ6月号のグラビアに林美樹が出ており、「ピンク劇団『赤と黒』で芝居に大ハッスル中」と紹介されている。
1966年(昭和41年)10月、成人映画 No.12 (10月1日発行)に劇団「赤と黒」の8回目の公演作『狂ったプラン』(原作・演出:松野京一、脚本:安永作二)が池袋のリリオとカジバシ座で公演中だと。次回作は芥川賞作品の石塚喜久三『回春堂』の予定だと。
1967年(昭和42年)、風俗奇譚9月号に『劇団赤と黒拷問くノ一より』
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ8月号『鬼六談議 カメラ嫌い』に「ピンク映画『鞭と肌』の女優のほとんどは劇団「赤と黒」の団員」とある。
1967年(昭和42年)、実話と手記 LOOK版8月号に「カジバシ座特報 拷問くの一 劇団『赤と黒』特別公演」。
1967年(昭和42年)、実話情報8月号に「劇団赤と黒 拷問くノ一」
1967年(昭和42年)、風俗奇譚12月号に「拷問金瓶梅 赤と黒劇団公演より」
1968年(昭和43年)、風俗奇譚1月号に『志村曜子の切腹シーン 劇団「赤と黒」』[注 1]
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ2月号, p16に南方純『劇団「赤と黒」の女の切腹』と p18に山城七々男『舞台に見る女体切腹』[注 1]。
1968年(昭和43年)6月、S・Mグラフ6月創刊号に『拷問くノ一卍』として藤田リカ、小川純らの舞台写真が紹介。
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ6月号『鬼六談議 酒場の話』に「赤と黒はもうつぶれた」とある。
1970年代?、辰巳出版の「SM特集」の中に松野京一『SM演劇裏ばなし 血と乳房』。「赤と黒」を主宰していたころのピンク実演の想い出話。
エピソード
- 長田英吉が「性の仕事師たち」の中で「“劇団赤と黒”というのがあって、基本的には大衆芝居なんだけど、よく折檻シーンなんかでてきたね」と語っている。
- 白川和子が出ていたと長田英吉『私のSM遍歴』SMマニア1996年(平成8年)10月号にある。
引用文献
- ↑ 『私たちも”春川ますみ”になりたい!』週刊漫画サンデー 1965年(昭和40年)11月3日号, p50-53.