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概要
長田英吉が1960年代後半(要確認)に開始したSMサークル。第1回目が阿佐ヶ谷のアルス・ノーヴァでSM実験劇として催され、その後、定期的に場所を変えて開催されている。70年代に入ると、玉井敬友や桜田伝次郎の劇団舞台で開催され、SMショー・ブームの原動力となっていった。長田英吉の死後、長田一美が後を継ぐ。
別名
オサダ・ゼミナール オサダゼミナール 長田ゼミ 長田ゼミナール
事務所
東京都港区新橋6-20-8和光社(少なくとも1975以前、1999年10月9日まで)
東京都豊島区東池袋2-62-8 1F (遅くとも2001年頃から)
歴史
1960年代後半(要確認)、第1回目が阿佐ヶ谷のアルス・ノーヴァでSM実験劇として開催。
1975年(昭和50年)、館淳一が長田英吉を取材。この時既に名刺には「オサダ・ゼミナール 和光社 長田英吉」とあった[1]。
1976年(昭和51年)春、大阪から東京に進出してきた玉井敬友に乞われ、六本木「シアタースキャンダル」の事務所でオサダ・ゼミナールの会合を半年ほど開催[2][注 1]。
1977年(昭和52年)9月、SMセレクト9月号にオサダ・ゼミナールのアルス・ノーヴァでの公演の観劇レポート。出演は長谷恵子。
1978年(昭和53年)、道頓堀劇場に出演。制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得。
1978年(昭和53年)頃、オサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が『緊縛秘戯』(エドプロ, 不明)に特集されている。
1978年(昭和53年)頃、村井弦がオサダ・ゼミナールを手伝う[3]。
1979年(昭和54年)10月、SMクラブ1979年(昭和54年)10月号に「異色劇団オサダ・ゼミナール」の広告。
1980年(昭和55年)頃、SAMMで定期的(週に何回か、8時と10時)にショーをやっていた模様。この頃、花真衣が長田英吉のショーパートナーとして参加[4]。
1980年(昭和55年)10月、道頓堀劇場でのオサダ・ゼミナールの公演を川上譲治が観に行っている[5]。
1980年(昭和55年)頃、桜田伝次郎のGSG企画スタジオでオサダ・ゼミナールの会合を開く。黒川真由美などのGSG企画の女優をモデルに[2]。
1980年(昭和55年)頃、オサダ・ゼミナールの会員が120名に[6]。
1981年(昭和56年)1月8日、葵マリの赤坂ブルーシャトーでの定例ショーに出演[注 2]。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[7][注 3]。
1982年(昭和57年)、根暗童子とラー企画所属のモデルで地方公演[8]。
1982年(昭和57年)8月、『SM特別月間』[注 4]。PART I(1日-10日):(昼)『白夜と愛の狩人(ラブハンター)』(夜)『桜田伝次郎、とGSG』、PART II(11日-20日):(昼)『玉井敬友とシアタースキャンダル+高杉かほり』(夜)『高橋&ザ・KAGEKI』、PART III(21日-31日):(昼)『オサダゼミナール』(夜)『黒と薔薇』[9]
1986年(昭和61年)1月1日−10日、新宿モダンアート劇場で長田ゼミナール公演。
1986年(昭和61年)、早乙女宏美とショーを開始[8][注 5]。
1988年(昭和63年)4月1日-10日、若松劇場にて早乙女宏美 VS 長田ゼミナール[10]
1989年(平成元年)12月、鶴見新世界劇場で引退興行。
1997年(平成9年)5月11日、オサダ・ゼミナールの「縛りのプロローグ」スペシャルバージョンが大塚で開催。早乙女宏美の切腹ショー、長田英吉&如月志乃[11]。
1997年(平成9年)6月14日と19日、若松劇場にて「長田ゼミナール」。出演:長田英吉、早乙女宏美[12]。
1997年(平成9年)8月21日〜30日、ショーアップ大宮にて『長田ゼミナール&早乙女宏美』[12]。
1997年(平成9年)10月21日、「SM塾オサダ・ゼミナール」のHP開設。
1997年(平成9年)10月21日〜30日、鶴見新世界にて早乙女宏美 (長田ゼミナール)[12]。
1999年(平成11年)7月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:早乙女宏美、いずみゆきこ、小沢一美(交代で)[12]。
2000年(平成12年)4月、STUDIO SIXでオサダ・ゼミナールを開催。9月まで続く。
2000年(平成12年)、MISTRESSでオサダ・ゼミナール開催。
2000年(平成12年)2月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:小沢一美[12]。
2001年(平成13年)9月12日、長田英吉が永眠。
2002年(平成14年)、長田一美がオサダ・ゼミナールで緊縛講習会開催。
2004年(平成16年)1月22日、ロフトプラスワンにてSM塾オサダ・ゼミナールPresents 「縛りのプロローグ」緊縛師・長田英吉をたどる」【出演】長田一美&みい、夜羽エマ、みのわひろお、鬼塚隆文、ジョウジ川上
トピックス
- オサダ・ゼミナールがいつスタートしたかについては不明である。FOCUSには1977年(昭和52年)に始まったと書いている。また「59年にちょいとジケンがあって目下開店休業中」とある[13]。
- 少なくとも、1980-1996年の連絡先は東京都港区新橋6-20-8和光社となっている。
- エドプロ発行の『緊縛秘戯』には1978年(昭和53年)のオサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が特集されている。そこには「演劇活動を毎月定期公演として持ち」「撮影会は、舞台が終わってから会員希望者にのみ」「S・M愛好会『オサダ・ゼミナール後援会』も発足し、会員数は三十人前後、三十代から五十代の男性がほとんど」とある。
- 1980年(昭和55年)夏頃、早川佳克は佐渡魔造に連れられ大塚で開催されていた「長田ゼミナール」に参加し、そこで観客として来ていた関和子と知り合う。商社の役職だった夫を病気で失った直後[14]。
- BIZARRE MAGAZINE(日)1999年(平成11年)No.47にオサダ・ゼミナールが紹介。
- 花真衣の思い出によると「長田さんのショーは喜多郎の音楽で始まり、雷が鳴ると首輪をつけたM女を引きつれた長田さんが登場。最後は回転磔台に拘束し、長田さんが少し離れたところから叫びながら近づき、鞭でメチャクチャ叩いて終わる。」[4]
作品
ビデオ
- 『長田ゼミナール 初級者篇』(1990年代?、アムスの会)
- 『長田ゼミナール 中級者篇1』(1990年代?、アムスの会)
- 『長田ゼミナール 中級者篇2』(1990年代?、アムスの会)
- 『長田ゼミナール 上級者篇1』(1990年代?、アムスの会)
- 『長田ゼミナール 上級者篇2』(1990年代?、アムスの会)
- 『長田ゼミナール 応用完結篇』(1990年代?、アムスの会)
ギャラリー
-
SMクラブ1979年(昭和54年)10月号掲載の広告
-
赤坂ブルーシャトーでおこなわれていた長田英吉のショート思われる写真。葵マリー『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)より
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8mm作品
引用文献
- ↑ 館淳一 Facebook, 2015/1/7
- ↑ 2.0 2.1 長田英吉『私のSM遍歴』SMマニア1996年(平成8年)8月号〜12月号
- ↑ ビーナス No.9
- ↑ 4.0 4.1 花真衣私信 to U, 2012.2.7
- ↑ 川上譲治『さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
- ↑ 『SM講座』劇画スペシャル増刊ホット・レディ1980年(昭和55年)5月20日号
- ↑ 葵マリー『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)
- ↑ 8.0 8.1 長田一美web
- ↑ 別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)9月号
- ↑ SMスピリッツ1988年(昭和63年)5月号
- ↑ S&Mスナイパー1997年(平成9年)8月号
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 STRIPwikiより
- ↑ 『年末狸吊り寒中水責めーSM緊縛師のドン「長田英吉」の職人芸』FOCUS 1987年(昭和62年)1月2・9日合併号。
- ↑ 早川佳克淑女録3『女王たらし①和江』
注釈
- ↑ ピンク女優の長谷圭子をモデル。SM撮影会、SMショーを暑い頃の昼間におこなった。
- ↑ 長田一美のwebでは、1980年(昭和55年)10月から毎月イベントをおこない、1984年(昭和59年)から年4回のイベント。1988年(昭和63年)に赤坂ブルーシャトーが閉店する3ケ月前まで8年間続いたとある。
- ↑ 2月5日の節分ショーでも長田英吉が出演。北条小夜子に緊縛を教える。
- ↑ 川上譲治が公然わいせつ罪で逮捕されているので、実際に興行がおこなわれたかどうかは不明
- ↑ 「1ケ月に2回(1回は10日間の興業)の公演を3年ぐらい」「ヌードモデルプロダクションの藤木正夫さんの紹介で早乙女宏美さんに出会ったのは新宿東口にある じゅらくの2階」とある。