早川佳克
はやかわ よしかず、1949年(昭和24年)1月20日-
概要
編集者。緊縛師。
別名
髭、髭の編集長、夢村寛、Yoshikazu Hayakawa
略歴
1949年(昭和24年)1月、呉服屋の長男として生まれる[1]。
1962年(昭和37年)頃、風俗奇譚を知り、SMに興味をもつ[2]。
1967年(昭和42年)頃、専修大学経営学科に入学。しばらくして和光大学に転学[1]。
1968年(昭和43年)頃、交際中の女性を初めて縛る[2]。
1972年(昭和47年)、大学を卒業[注 1]して三崎書房に入社[注 2]。『えろちか』の編集を担当。
1973年(昭和48年)3月、『えろちか』 が休刊したため、新しく『幻想と怪奇』の創刊編集長(編集顧問は荒俣宏)となるが、創刊号発刊と共に三崎書房が倒産。2号からは歳月社[注 3]が引き継いでで発行し、早川も歳月社に移る。『幻想と怪奇』は1974年(昭和49年)10月の12号まで続くが、早川は11号で歳月社をやめた[2]。
1974年(昭和49年)、歳月社時代、荒俣宏と鏡明に面白い本だとSMキングを紹介される[1]。
1974年(昭和49年)、小悪征夫の紹介で司書房に入社[注 4]。「別冊SMファン」デスクに2年半程。この時の「別冊SMファン」のデスクに須藤将史がおり、親密になる[3]。さらに竹書房の「ギャンブル・パンチ」デスク、「近代麻雀オリジナル」創刊編集長などを歴任。
1978年(昭和53年)、竹書房の「近代麻雀臨増」の編集長[1]。
1979年(昭和54年)、「S&Mスナイパー」9月号より
1980年(昭和55年)、ミリオン出版に入社。「S&Mスナイパー」5月号より編集長、「別冊スナイパー」創刊編集長となる。この頃から、「髭の編集長」と呼ばれる。
1983年(昭和58年)、ミリオン出版編集局長となる[4]。「S&Mスナイパー」9月号より、「髭の交遊録」連載開始。
1984年(昭和59年)、ミリオン出版を退職してフリー編集者となる。「フランス書院文庫」「トマト・ノベルス」の出版に関わる[注 5]。
1991年(平成3年)、「髭のサロン」を開催し、S&Mスナイパーにも「髭のサロン」の連載を開始。編集プロダクション(有)ソーマ設立。
1991年(平成3年)8月1日、『S&Mマニアライフ』(大洋図書)で特集。
1996年(平成8年)8月、早川佳克がパソコン通信のNIFTY-Serveにパティオ開設[注 6]。
1999年(平成11年)、早川佳克がインターネットに「髭のサロン」開設。
1999年(平成11年)10月15日、S&Mスナイパーの連載「髭のサロン」の100回を記念して『調教王II』(ミリオンムック88)がワイレア出版から発刊。
2000年(平成12年)、「mugen on the web」HP開設(泉屋のサブチャンネル上)。
2001年(平成13年)10月、六本木にSMラウンジ「Mugen」を開店。
2005年(平成17年)9月6日、東京厚生年金会館にて『明智伝鬼追悼式』(発起人:団鬼六、高須基仁、桜田伝次郎、早川佳克)
2006年(平成18年)10月3日、女王様スナック「なかむら」[注 7]を根拠として「髭のサロン」の活動を再開。
2009年(平成21年)12月25日、「なかむら」の閉店にともない、「髭のサロン」の活動を新宿の新し場所に移す。
2012年(平成24年)12月、「髭のサロン」終了。
2019年(平成31年)1月31日、「髭のサロン」復活
エピソード
- 蘭光生との公私とものつきあいが長い。
- 夫人は『奇想天外』の編集。
- 1980年(昭和55年)発行の月刊誌『FREAK』(セルフ出版)の対談で、「実際にはまだSMプレイはしていないがSM予備軍である」と紹介されている。
- 早川舞『そのとき歴史が鞭打たれた 第7回 SM誌の新世界を切り拓いた男』レポ2011年(平成23年) No. 7でインタビュー。
- パソコン通信やインターネットでの発信を活発におこなっている。ITの管理は、『〜』(通称ニョロ)氏が担当していた模様。
代表作
- 『髭の交友録 女たちのベンチャーSEX』S&Mスナイパー1990年(平成2年)7月5日号増刊号(ミリオン出版、発売人:平田明)
- 『D坂の殺人事件』(東京テアトル, 1998)(原作:江戸川乱歩、美術:池谷仙克 前田寿安、音楽:池辺晋一郎、緊縛指導:早川佳克、監督:実相寺昭雄、助監督:高橋巌、出演:真田広之 吉行由実他)
- 『調教王II』(ミリオンムック88)(ワイレア出版, 1999,10.15)(髭のサロン100回記念)
参考資料
注釈