ピンク映画の歴史

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別名

ピンク映画 ピンキー映画 桃色映画 お色気映画 エロダクション エロダクション映画 独立系成人映画 愛欲映画 寝室映画 ピンク映画の歴史

主な出来事

1962年(昭和37年)2月27日、神田アカデミー劇場など[1]で最初のピンク映画とされる『肉体の市場[注 1](協立映画小林悟監督)が公開[注 2]。公開二週間後に警視庁保安課の摘発で上映中止。摘発後、大蔵映画は再編集して3月16日に再公開[1]

1962年(昭和37年)5月1日、『不完全結婚』(純潔映画研究会小林悟監督)が公開[注 3][1]

1962年(昭和37年)11月、本木荘二郎が『肉体自由貿易』(Gプロ=国新映画、出演:絵麻アキ)を制作。この作品をピンク映画第1号とする説もある[注 4][2]

1963年(昭和38年)、内外タイムスの文芸部記者であった村井實関孝二監督の『情欲の洞窟』を取材した際、「おピンク映画」と表現。これが「ピンク映画」の語源とされる。

1963年(昭和38年)9月、若松孝二が『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。

1964年(昭和39年)、小森白監督の『日本拷問刑罰史』(新東宝)。緊縛指導は名和弓雄。製作=小森白プロダクション、配給=新東宝映画。

1965年(昭和40年)、若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品[注 5]

1965年(昭和40年)、山邊信雄団鬼六が『花と蛇』を制作。詳細は1965年版「花と蛇」

1967年(昭和42年)、『独立映画配給者協議会』が結成。大蔵映画日本シネマ関東ムービー国映東京興映葵映画関東映配ワールド映画明光セレクト六邦映画が加盟[3]

1967年(昭和42年)4月、谷ナオミが『スペシャル』(関孝二監督)でデビュー。

1967年(昭和42年)、デンマークでポルノ解禁。通付いて、69年にはノルウェーで。

1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』(監督:小沼勝、緊縛指導:浦戸宏、主演:谷ナオミ) 。

エピソード

  • 二階堂卓也ピンク映画を「(1964年以降公開の)五社の配給網に乗らない成人(劇)映画」としている[1]
  • 戦後すぐに発行された『猟奇』などのエロ雑誌は『桃色雑誌』と呼ばれていたので、少なくとも戦後には「エロ=桃色」という記号が広まっていた。
  • 1962年、1963年の作品はは配給ルートがハツキリしない[1]

代表作

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 二階堂卓也ピンク映画史: 欲望のむきだし』(彩流社, 2014.7.23)
  2. アダルトメディアランダムノート
  3. 成人映画 1967年(昭和42年)No. 15, p17

注釈

  1. 主演:香取環。助監督は小川欽也
  2. 協立映画が、大蔵映画大蔵貢によって設立されたペーパーカンパニーという説があり、もしそうならば、当時大蔵映画は六番目の大手だったので、ピンク映画の定義(独立プロダクション製作によるセックス映画)から外れる。大蔵の「太平洋戦争と姫百合部隊」が未公開のため、協立映画作としたという説。ただし、この一連の説に、小川欽也監督は異議。(『アダルトメディアランダムノート』より)。
  3. 主演:香取環
  4. 後藤敏説。他の説は3月公開の小林悟『肉体の市場』(協立映画)をそれとする村井実説。
  5. 西ドイツの映画業者が独自に出品したので「国辱もの」と物議をかもす。

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