「エロ法規制の歴史」の版間の差分
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2011年3月9日 (水) 12:40時点における版
言葉の定義
- 刑事犯罪は『捜査』『起訴』『公判』の3段階に分かれる。
- 『任意取り調べ』とは捜査段階で令状発付を伴わないもの。
- 『逮捕』とは捜査機関が犯罪を犯したと思料する人の身柄を拘束する手続。法律用語。拘束は48時間以内と限られており、検察に身柄送検される。逮捕していない場合は書類送検。送検されない場合もある。
- 『検挙』とは捜査期間が犯罪を見つけたことを意味し、一般的に犯人まで特定している。厳密な法律用語ではない。
- 『摘発』とは「検挙」と似ているが捜査期間が犯罪を見つけただけで、犯人の特定にまで至っていないようなケースも含む。厳密な法律用語ではない。
- 『起訴』。検察官は送検されてきた被疑者に対して、裁判所に勾留請求をおこない、勾留期間(通常10日)内に捜査を行い、「起訴」「不起訴」「起訴猶予」などを決定。「起訴猶予」は「不起訴」の一種。
- 『略式起訴』。検察官が簡易裁判所に略式命令を請求する方式。50万円以下の軽い罰金の場合にこの方法がとられる。法廷を開かずに書類だけですむので、日本の刑事事件の9割以上が略式手続きで行われている。ほとんどの場合(判決に対して被告、検察から不服請求が出されない場合)は、そのまま有罪判決が確定する。略式起訴で『前科』がついたかどうかは下を参照。
- 『前科』は専門用語には存在しない。「前科歴のある者はお断り」といった表記は正確でない。正確には「禁錮刑以上の犯罪歴が有る者は公務員にはなれない」「罰金刑以上の犯罪歴が有る者は医師にはなれない」である。刑事事件の9割を占める『略式起訴』は、社会通念上『前科』がつく、とは言わない。
- 『留置所』とは逮捕者の留置、送検者の拘留をおこなう施設で警察内に設置。
- 『拘置所』とは刑事被告人を収容する法務省の施設。
- 『刑務所』とは刑罰に服する者を収容する法務省の施設。死刑確定者は拘置所に収容。
- 『発禁』。書物の発禁は厳密には存在しない。「わいせつ物頒布罪」は出版した者が刑事罰の対象となるだけで、出版物の発禁ではない。人権侵害、著作権侵害で裁判所より出版が差し止められることがあり、俗に発売禁止と呼ばれる。「○×マガジンが発禁処分をくらう」とは、令状による取り調べ、家宅捜査、あるいは任意取り調べなどで現実的に書籍の発行が阻害される状態を意味する。
- 「逮捕」「摘発」がそのまま「送検」を意味しないので注意が必要。わいせつ図書販売などの場合、多くの場合は「摘発」され、1,2日間留置所(ブタ箱)に拘束された後、「起訴猶予」で終わり前科はつかない。
主な事件
1894年(明治27年)、クラフト=エビングの『色情狂編』(日本法医学会/春陽堂)が発禁処分。
1947年(昭和22年)1月1日、帝都座で秦豊吉がしかけた『額縁ショー』の頃の警視庁保安課取り締まり規則は次の通り。「ズローズは股下二寸未満のもの及び肉色のものはこれを禁ずること。背部は上体の二分の一より以下を露出せしめざる事。静物と称し全身に肉襦袢を着し、裸体の曲線美を表するものは、腰部をスカートその他これに類するものを以て覆わしむこと」[1]。
1947年(昭和22年)1月9日、カストリ雑誌の1つ『猟奇』1946年(昭和21年)12月号(通巻2号)が公然わいせつ罪で摘発。対象は北川千代三の「H大佐夫人」と宮永志津夫「王朝の好色と滑稽譚」[注 1][2][3]。
1948年(昭和23年)6月、正邦乙彦の演出で、常磐座においてヘレン滝をヌードでブランコにのせて動かす。ヘレン滝は「猥褻陳列罪第一号」として逮捕[4]。
1950年代、ジプシー・ローズの「グラインド」が禁止。「二回以上の尻回しと三回以上の腰振りは猥雑にあたる」[2]。
1950年(昭和25年)5月、D・H・ローレンスの作品『チャタレイ夫人の恋人』を翻訳した伊藤整と、版元の小山書店社長小山久二郎が刑法第175条違反で起訴。『チャタレー事件』裁判が始まる[注 2]。
1953年(昭和28年)、内外タイムスと東京毎夕新聞2月3日号が猥褻容疑で摘発。日刊紙としては初の摘発[5]。
1954年(昭和29年)、風俗草紙2月号が摘発。奇譚クラブ3月号が摘発[注 3]。風俗草紙4月号、奇譚クラブ4月号が摘発[6]。6月号〜9月号、12月号〜1955年3月号が休刊。
1955年(昭和30年)3月25日、奇譚クラブ4月号が押収。容疑箇所は伊藤晴雨の「指人形」、古川裕子の「孤独」、二俣志津子の「悪魔の遊戯」[7]。
1956年(昭和31年)、『売春防止法案」が成立・公布。
1956年(昭和31年)7月、高橋鐵の『生心リポート』猥褻裁判が始まる[注 4]。
1958年(昭和33年)4月1日、『売春防止法案」が施行。
1960年(昭和35年)、森下高茂の「あけぼの会事件」がマスコミにたたかれる。
1961年(昭和36年)、マルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を翻訳した澁澤龍彦と現代思潮社社長石井恭二が猥褻文書販売および同所持の容疑で在宅起訴。『悪徳の栄え事件』裁判が始まる[注 5]。
1962年(昭和37年)3月15日、都内4カ所で上映中の『肉体の市場』(小林悟監督)が摘発。
1962年(昭和37年)、裏窓8月号が摘発。
1965年(昭和40年)、日活映画『黒い雪』(監督:武智鉄二)が摘発。
1967年(昭和42年)、デンマークでポルノ解禁。通付いて、69年にはノルウェーで。
1967年(昭和42年)10月、米国で「わいせつとポルノに関する諮問委員会」設置。
1968年(昭和43年)9月、奇譚クラブが扉頁に「本誌自粛の徹底」を掲載(これ以降の号、毎月)。当局の取り締まりを意識。
1970年(昭和45年)9月、米国の「わいせつとポルノに関する諮問委員会」が調査結果を発表し事実上のポルノ解禁。
1971年(昭和46年)、「ポルノ」という言葉が日本でも広まる。11月には日活がロマンポルノを開始。
1972年(昭和47年)1月10日、代々木忠演出の日活作品「火曜日の狂楽」「ワイルドパーティ」が摘発[8]。
1972年(昭和47年)1月29日、日活ロマンポルノが警視庁の摘発。
1972年(昭和46年)、日活ロマンポルノ裁判開始[注 6]。
1972年(昭和47年)2月16日、日活、東映、ジャパン・ビコッテが「成人ビデオ倫理自主規制懇談会」(後の「日本ビデオ倫理協会」)設立[8]。
1973年(昭和48年)、SMキングの8月号と9月号が発禁処分に[9]。
1973年(昭和48年)、『面白半分』に永井荷風の作とされる『四疊半襖の下張』を掲載した編集長野坂昭如と株式会社面白半分社長の佐藤嘉尚がわいせつ文書販売で起訴。『四畳半襖の下張事件』裁判が始まる[注 7]。
1974年(昭和49年)、劇団ナオミが未成年者の山谷ますみを雇用していた件で谷ナオミ、山邊信夫が逮捕。起訴猶予処分[10]。
1978年(昭和53年)10月、全国的レベルでのストリップの取り締まりが始まる。
1980年(昭和55年)、ビニ本販売で芳賀書店専務の芳賀英明が指名手配、出頭。
1980年(昭和55年)、日活ロマンポルノ裁判が最高裁で無罪確定。
1999年(平成11年)、風俗営業法
2002年(平成14年)10月、松文館のコミック本が漫画単行本として初の摘発[注 8][8]。
2005年(平成17年)、風営法の大幅改正。プレイルーム付きのSMクラブがなくなる。
2008年(平成20年)3月1日、「日本ビデオ倫理協会」の審査部統括部長小野克巳らが逮捕。
2008年(平成20年)4月、改正風営法。一本鞭での鞭打ちや、逆さ吊り、針刺しなどの描写が規制。
2008年(平成20年)6月、日本ビデオ倫理協会が審査停止。「日本映像倫理審査機構」となる。
2010年(平成22年)10月15日、篠山紀信が青山霊園での撮影で公然いわせつ容疑で逮捕。礼拝所不敬+公然わいせつの罪で略式起訴。
引用文献
- ↑ 『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
- ↑ 2.0 2.1 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)
- ↑ 山本明『カストリ雑誌研究―シンボルにみる風俗史』(出版ニュース社, 1976)
- ↑ みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
- ↑ 城市郎『発禁本 明治・大正・昭和・平成 城市郎コレクション』別冊太陽 (1999, 平凡社)
- ↑ 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
- ↑ 『奇譚クラブ』1955年(昭和30年)10月号。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 藤木 TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎, 2009)
- ↑ SMキング1973年(昭和48年)11月号『鬼六談義 秋風の季節』
- ↑ 『女優谷ナオミ:伝説のSM女王』西日本スポーツに1999年(平成11年)2月2日から10月ぐらいまで連載
注釈
- ↑ 発禁号は闇市で200円で取引されていた。
- ↑ 第一審(東京地方裁判所昭和27年1月18日判決)では伊藤が無罪、小山が有罪。二審で両者有罪。1957年(昭和32年)の最高裁で上告が棄却され有罪確定。
- ↑ 濡木痴夢男の『魔性の姉妹』が対象。
- ↑ 1963年(昭和38年)1月に第一審で有罪。第二審も有罪、1970年(昭和45年)9月に最高裁で有罪が確定。
- ↑ 1962年(昭和37年)、東京地裁で無罪。1969年(昭和44年)、最高裁で有罪。7万円の罰金刑。
- ↑ 『愛のぬくもり』『恋の狩人・ラブハンター』『OL日記・牝猫の匂い』『女高生芸者』
- ↑ 第一審、第二審とも有罪。1980年(昭和55年)の最高裁で上告が棄却され有罪確定。
- ↑ 二審で有罪確定