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*[[二階堂卓也]]は[[ピンク映画]] | *[[二階堂卓也]]は[[ピンク映画]]を「(1964年以降公開の)五社の配給網に乗らない成人(劇)映画」としている<ref name="#ピンク映画史">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』(彩流社, 2014.7.23)</ref> | ||
*戦後すぐに発行された『'''[[猟奇]]'''』などのエロ雑誌は『桃色雑誌』と呼ばれていたので、少なくとも戦後には「エロ=桃色」という記号が広まっていた。 | *戦後すぐに発行された『'''[[猟奇]]'''』などのエロ雑誌は『桃色雑誌』と呼ばれていたので、少なくとも戦後には「エロ=桃色」という記号が広まっていた。 | ||
2021年8月21日 (土) 16:41時点における版
別名
ピンク映画 桃色映画 お色気映画 エロダクション エロダクション映画 愛欲映画 寝室映画 ピンク映画の歴史
主な出来事
1962年(昭和37年)3月、小林悟監督による最初のピンク映画とされる『肉体の市場』[注 1]を協立映画から発表[注 2]。
1962年(昭和37年)11月、本木荘二郎が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作。この作品をピンク映画第1号とする説もある[注 3][1]。
1963年(昭和38年)、内外タイムスの文芸部記者であった村井實が関孝二監督の『情欲の洞窟』を取材した際、「おピンク映画」と表現。これが「ピンク映画」の語源とされる。
1963年(昭和38年)9月、若松孝二が『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。
1964年(昭和39年)、小森白監督の『日本拷問刑罰史』(新東宝)。緊縛指導は名和弓雄。製作=小森白プロダクション、配給=新東宝映画。
1965年(昭和40年)、若松孝二の『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品[注 4]。
1965年(昭和40年)、山邊信雄と団鬼六が『花と蛇』を制作。詳細は1965年版「花と蛇」
1967年(昭和42年)、『独立映画配給者協議会』が結成。大蔵映画、日本シネマ、関東ムービー、国映、東京興映、葵映画、関東映配、ワールド映画、明光セレクト、六邦映画が加盟[2]。
1967年(昭和42年)4月、谷ナオミが『スペシャル』(関孝二監督)でデビュー。
1967年(昭和42年)、デンマークでポルノ解禁。通付いて、69年にはノルウェーで。
1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』(監督:小沼勝、緊縛指導:浦戸宏、主演:谷ナオミ) 。
エピソード
- 二階堂卓也はピンク映画を「(1964年以降公開の)五社の配給網に乗らない成人(劇)映画」としている[3]
- 戦後すぐに発行された『猟奇』などのエロ雑誌は『桃色雑誌』と呼ばれていたので、少なくとも戦後には「エロ=桃色」という記号が広まっていた。