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'''よよぎ ただし'''、1938年(昭和13年)3月18日-
'''よよぎ ただし'''、1938年(昭和13年)3月18日-


==活動内容==
==概要==
AV監督。映画監督。1960年代の[[ピンク映画]]全盛期に、非映画畑出身者として映画界に参入。やがて[[にっかつ|日活]]の委託による作品を製作する[[プリマ企画]]で、ドキュメントタッチの独自の作風で注目を集める。[[にっかつ|日活]]ポルノ裁判の被告として法廷闘争を繰り広げた人物でもある。1974年(昭和49年)には自身の[[ワタナベプロ]]を設立し、[[山本晋也]]や[[中村幻児]]などの監督作品を数多く製作した。1981年(昭和56年)には、ビデオ作品の製作会社[[アテナ映像]]を設立。[[ピンク映画]]時代のドキュメントタッチの作風をさらに先鋭化させ、『ザ・オナニー』シリーズなどのヒット作を次々に発表し、リアリズム作品としてのAVの方向付けをした仕掛人の一人としてみなされる。1983年(昭和58年)には[[長田英吉]]出演による『ザ・ドキュメント オーガズム』、翌年には[[根暗童子]]のドキュメント作品を製作している。2010年(平成22年)には、かつて助監督であった[[石岡正人]]による、[[代々木忠]]のドキュメント作品、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』が制作された。


==別名==
==別名==
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Tadashi_Yoyogi Tadashi Yoyogi]、渡邊輝男(本名)
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Tadashi_Yoyogi Tadashi Yoyogi]、渡邊輝男(本名)、佐々木忠、渡辺忠


==略歴==
==略歴==
1938年(昭和13年)3月18日、北九州小倉に誕生。父親は製紙会社の研究所に勤務。祖母は大工の棟梁<ref name="kairakuYOyogi">[[代々木忠]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4041101972/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4041101972&linkCode=as2&tag=iq05-22 快楽の奥義 アルティメット・エクスタシー]'''』(角川書店, 2012)</ref>
1941年(昭和16年)頃、母親が盲腸の誤診で死亡。妹と共に母方の親戚を渡り歩く<ref name="kairakuYOyogi"></ref>。
1943年(昭和18年)頃、父方の実家に落ち着く<ref name="kairakuYOyogi"></ref>。
1945年(昭和20年)、終戦後まもなく父親が再婚し、小倉の実家に戻りいろいろな商売をするが、いずれもうまくいかず<ref name="kairakuYOyogi"></ref>。
1950年代、定時制の高校に入るが、荒れた生活。サブちゃんというヤクザと知り合いになる。警察の副所長の子供に大けがをさせ、警察に目をつけられる生活<ref name="kairakuYOyogi"></ref>。
1956年(昭和31年)、大阪に移り、花屋の店員をしながら華道の師範資格を取得<ref name="yoyochu">『'''YOYOCHU Sexと代々木忠の世界'''』(ゴールド・ビュー, 2010)の映画パンフレッドより</ref>。
1961年(昭和36年)、結婚するがすぐに離婚。小倉に戻りやくざとなる<ref name="yoyochu"></ref>。
1964年(昭和39年)、組の三代目を襲名<ref name="yoyochu"></ref>。30人ぐらいの組で、採石場とストリップの全国興行を仕切る<ref name="kairakuYOyogi"></ref>。
1965年(昭和40年)、指をつめ任侠道から足を洗い、上京<ref name="yoyochu"></ref>。小倉から3人の踊り子を連れて上京し、ヒモのような生活<ref name="kairakuYOyogi"></ref>。[[ピンク映画]]の[[ワールド映画]]に入社<ref group="注">一部、1963年(昭和38年)との記述もある。</ref>。
1967年(昭和42年)、[[ピンク映画]]の助監督。[[真湖道代]]と結婚<ref name="yoyochu"></ref>。
1971年(昭和46年)、[[プリマ企画]]に入社<ref name="yoyochu"></ref>。
1971年(昭和46年)8月、[[にっかつ|日活]]がラブホテル用「U規格」のポルノ作品を[[代々木忠]]などピンク映画系製作会社に発注し月産4作品で発表<ref group="注">、この段階ではまだビデオカメラではなく、機動性に優れていた16mmカメラが用いられていた</ref>。
1972年(昭和47年)1月、[[代々木忠]]演出の[[にっかつ|日活]]作品「火曜日の狂楽」「ワイルドパーティ」が[[エロ法規制の歴史|摘発]]<ref group="注">一審無罪、二審有罪・罰金20万円。</ref><ref name="kakumei">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4344981251?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4344981251 藤木 TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎, 2009)]</ref>。
1972年(昭和47年)1月、[[にっかつ|日活]]ロマンポルノが警視庁に[[エロ法規制の歴史|摘発]]<ref group="注">1980年(昭和55年)最高裁で無罪確定。</ref>。[[梅沢薫]]監督『女高生芸者』も摘発対象となり、製作責任者として[[代々木忠]]が被告に。
1972年(昭和47年)、『'''ある少女の手記・快感'''』で監督デビュー。その後も外注先として映画製作。
1974年(昭和49年)、[[ワタナベプロ]]を設立<ref name="yoyochu"></ref><ref group="注">[[にっかつ|日活]]の下請会社。[[山本晋也]]の痴漢シリーズや未亡人シリーズでヒット。一部には1976年(昭和51年)設立の記述もあり。</ref>。
1976年(昭和51年)、タレント事務所「アクトレス」を設立。[[愛染恭子]]を所属タレントに。
1981年(昭和56年)12月、鬼闘光たちと[[アテナ映像]]を設立。ビデオ作品『'''[[愛染恭子]]の本番生撮り 淫欲のうずき'''』『'''ドキュメント・ザ・オナニー'''』がヒット。ロイヤリティ形式の契約での初の作品。
1982年(昭和57年)8月、日本初の[[キネコ作品]]、『'''華麗なる愛の遍歴 [[愛染恭子]]'''』を公開。
1982年(昭和57年)11月、『'''THE ONANIE'''』公開。
1984年(昭和59年)3月 、[[日本ビデオ映像]]の[[升水惟雄]]が独立して[[ジャパンホームビデオ]]を設立。[[代々木忠]]の作品販売もも[[日本ビデオ映像]]から[[ジャパンホームビデオ]]に移る<ref name="‎#AVKakumeishi">[[藤木TDC]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4344981251?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4344981251 '''アダルトビデオ革命史''']』([[幻冬舎]], 2009)</ref>。
1988年(昭和63年)、劇場公開作から撤退し、ビデオ作品に専念。
2006年(平成18年)、[[アテナ映像]]の代表取締役を退き、監督業に専念。
2010年(平成22年)11月、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』(2010, 監督:石岡正人)が第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門に出品される。
2021年(令和3年)8月、引退宣言<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20210827_1686836.html?DETAIL 巨匠・代々木忠監督が突然の引退宣言「コロナ禍ではもう撮れない」]</ref>


==エピソード==
==エピソード==
*[http://blog.livedoor.jp/yoyochu/archives/53519882.html 第60回「代々木忠×週刊実話」]で「SM調教師の[[根暗童子]]に撮影を申し入れた際、『調教は女の子の心理状態もあるので、たとえば1週間の間に、私は私の好きなときにやるが、それでもよければ』と言われた。僕らは、いつ彼が行動を起こしてもいいように、1週間現場に泊まり込み、24時間だれかが寝ずの見張りをした。この体験が『仕掛けて待つ』というドキュメントの手法を僕に教えたのだと思う。」と回顧している。


==代表作==
==代表作==
*監修:[[代々木忠]]『ザ・ドキュメント オーガズム Part-1』(みみずくビデオパック, 1983) 緊縛:[[長田英吉]]
===映画===
*監修:[[代々木忠]]『ザ・ドキュメント オーガズム Part-2』(みみずくビデオパック, 1983) 緊縛:[[長田英吉]]
*『'''歓びのセックス'''』([[ワールド映画]], 1968)(製作:菜穂俊一、監督:奥脇敏夫、助監督;吉岡一郎、脚本:[[代々木忠|渡辺忠]]、原案:長浜守彦、撮影:武田静也、出演:[[真湖道代]] 井村弘史 水上リサ 国分二郎 泉田洋志 美浪十四郎 小柳リカ [[乱孝寿]])
*『'''燃えたい女'''』([[ワールド映画]], 1968)(製作:菜穂俊一、監督:奥脇敏夫、助監督;[[代々木忠|渡辺忠]]、脚本:喜良ヒト見 斉藤雅則、出演:[[火鳥こずえ]] 高島和子 近松敏夫 国分次郎 [[野上正義]])
*『'''ドキュメントポルノ 恐るべきローティーン'''』([[プリマ企画]], 1973.4)(監督:[[代々木忠]])
*『'''オカルトSEX'''』([[ワタナベプロ]], 1974.8)(配給:[[にっかつ|日活]]、製作:[[代々木忠|渡辺忠]]、監督:[[山本晋也]]、撮影:久我剛、出演:[[野上正義]] 南ゆき 他)
*『'''ドキュメント・ポルノ 新トルコテクニック大全集'''』([[ワタナベプロ]], 1974.9)(配給:[[にっかつ|日活]]、企画:[[代々木忠|渡辺忠]]、監督:[[山本晋也]]、撮影:久我剛、出演:[[真湖道代]])
*『'''華麗なる愛の遍歴 愛染恭子'''』(ジョイパック・フィルム, 1982.8.14)(製作:[[代々木忠|渡辺輝男]]、監督:[[代々木忠]]、脚本:池田正一、撮影:久我剛、出演:愛染恭子 [[野上正義]] チャーリー・チャールズ)
*『'''THE ONANIE'''』(ミリオン, 1982.11)(監督:[[代々木忠]])
*『'''ザ・ドキュメント オーガズム'''』([[ジョイパックフィルム]], 1983.7.29)(監督:[[代々木忠]]、助監督:[[廣木隆一]]、 緊縛:[[長田英吉]]、撮影:久我剛 伊藤英男、出演:藤井まみ 田中恵子)
*『'''好奇心'''』(ミリオン, 1984.7)(監督:[[代々木忠]]、緊縛:[[根暗童子]]、出演:[[末次富士子]])
*『'''SMドキュメント 令嬢'''』(ミリオン, 1986)(監督:[[代々木忠]])
*『'''YOYOCHU Sexと代々木忠の世界'''』(ゴールド・ビュー, 2010)(監督:[[石岡正人]]、出演:[[代々木忠]]、[[真湖道代]]、[[本橋信宏]]、[[愛染恭子]]、[[村西とおる]]、[[高橋がなり]]、[[加藤鷹]]、[[奥村幸士]]など)<ref group="注">第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門出品</ref>
 
===AV===
*『'''[[愛染恭子]]の本番生撮り 淫欲のうずき'''』([[SMビデオ|日本ビデオ映像]], 1981.11)(監督:代々木忠)
*『'''ドキュメント・ザ・オナニー'''』シリーズ([[アテナ映像]], 1982.1)(監督:[[代々木忠]])<ref group="注">Part 1〜7。</ref>
*『'''ザ・ドキュメント オーガズム Part-1'''』([[SMビデオ|みみずくビデオパック]], 1983) (監修:[[代々木忠]]、緊縛:[[長田英吉]])
*『'''ザ・ドキュメント オーガズム Part-2'''』([[SMビデオ|みみずくビデオパック]], 1983) (監修:[[代々木忠]]、 緊縛:[[長田英吉]])
*『'''インド式SMハウツゥテクニック'''』(アテナ映像, 1984)  (監修:[[代々木忠]]、緊縛:[[根暗童子]]、出演:[[末次富士子]])
*『'''好奇心 SMハウツゥテクニック 総集編'''』(アテナ映像, 1984)  (監修:[[代々木忠]]、緊縛:[[根暗童子]]、出演:[[末次富士子]])
*『'''SM 梨花の排泄日記'''』<ref group="注">『好奇心2』の元となる作品。</ref>(アテナ映像, 1985) 緊縛:[[根暗童子]]、出演:[[佐伯梨花]])
*『'''好奇心2'''』<ref group="注">『好奇心』の上映が終了してから約1年後の1985年秋に、再映するにあたりビデオ作品「梨花の排泄日記」を劇場公開向けに再編集し「好奇心2」として、「好奇心」とあわせて上映した。上映後、「好奇心2」は、アテナ映像からビデオ化され発売された。</ref>(アテナ映像, 1985)  (監修:[[代々木忠]]、緊縛:[[根暗童子]]、出演:[[佐伯梨花]])
 
===書籍===
*[[代々木忠]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J6K57I?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J6K57I 『エクスタシー』(恒友出版, 1985)]
*[[代々木忠]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/479581242X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=479581242X 『プラトニック・アニマル』(情報センター出版局, 1992)]


== 引用文献==
== 引用文献==
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==お役たちweb==
==お役たちweb==
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0249060.htm 日本映画データベース]
*[http://www.athenaeizou.com/athena_diary/ 週刊代々木忠]
*[http://www.athenaeizou.com/athena_diary/ 週刊代々木忠]


==つながり==
==つながり==
 
[[矢野浩祐]]
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よよぎ ただし、1938年(昭和13年)3月18日-

概要

AV監督。映画監督。1960年代のピンク映画全盛期に、非映画畑出身者として映画界に参入。やがて日活の委託による作品を製作するプリマ企画で、ドキュメントタッチの独自の作風で注目を集める。日活ポルノ裁判の被告として法廷闘争を繰り広げた人物でもある。1974年(昭和49年)には自身のワタナベプロを設立し、山本晋也中村幻児などの監督作品を数多く製作した。1981年(昭和56年)には、ビデオ作品の製作会社アテナ映像を設立。ピンク映画時代のドキュメントタッチの作風をさらに先鋭化させ、『ザ・オナニー』シリーズなどのヒット作を次々に発表し、リアリズム作品としてのAVの方向付けをした仕掛人の一人としてみなされる。1983年(昭和58年)には長田英吉出演による『ザ・ドキュメント オーガズム』、翌年には根暗童子のドキュメント作品を製作している。2010年(平成22年)には、かつて助監督であった石岡正人による、代々木忠のドキュメント作品、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』が制作された。

別名

Tadashi Yoyogi、渡邊輝男(本名)、佐々木忠、渡辺忠

略歴

1938年(昭和13年)3月18日、北九州小倉に誕生。父親は製紙会社の研究所に勤務。祖母は大工の棟梁[1]

1941年(昭和16年)頃、母親が盲腸の誤診で死亡。妹と共に母方の親戚を渡り歩く[1]

1943年(昭和18年)頃、父方の実家に落ち着く[1]

1945年(昭和20年)、終戦後まもなく父親が再婚し、小倉の実家に戻りいろいろな商売をするが、いずれもうまくいかず[1]

1950年代、定時制の高校に入るが、荒れた生活。サブちゃんというヤクザと知り合いになる。警察の副所長の子供に大けがをさせ、警察に目をつけられる生活[1]

1956年(昭和31年)、大阪に移り、花屋の店員をしながら華道の師範資格を取得[2]

1961年(昭和36年)、結婚するがすぐに離婚。小倉に戻りやくざとなる[2]

1964年(昭和39年)、組の三代目を襲名[2]。30人ぐらいの組で、採石場とストリップの全国興行を仕切る[1]

1965年(昭和40年)、指をつめ任侠道から足を洗い、上京[2]。小倉から3人の踊り子を連れて上京し、ヒモのような生活[1]ピンク映画ワールド映画に入社[注 1]

1967年(昭和42年)、ピンク映画の助監督。真湖道代と結婚[2]

1971年(昭和46年)、プリマ企画に入社[2]

1971年(昭和46年)8月、日活がラブホテル用「U規格」のポルノ作品を代々木忠などピンク映画系製作会社に発注し月産4作品で発表[注 2]

1972年(昭和47年)1月、代々木忠演出の日活作品「火曜日の狂楽」「ワイルドパーティ」が摘発[注 3][3]

1972年(昭和47年)1月、日活ロマンポルノが警視庁に摘発[注 4]梅沢薫監督『女高生芸者』も摘発対象となり、製作責任者として代々木忠が被告に。

1972年(昭和47年)、『ある少女の手記・快感』で監督デビュー。その後も外注先として映画製作。

1974年(昭和49年)、ワタナベプロを設立[2][注 5]

1976年(昭和51年)、タレント事務所「アクトレス」を設立。愛染恭子を所属タレントに。

1981年(昭和56年)12月、鬼闘光たちとアテナ映像を設立。ビデオ作品『愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき』『ドキュメント・ザ・オナニー』がヒット。ロイヤリティ形式の契約での初の作品。

1982年(昭和57年)8月、日本初のキネコ作品、『華麗なる愛の遍歴 愛染恭子』を公開。

1982年(昭和57年)11月、『THE ONANIE』公開。

1984年(昭和59年)3月 、日本ビデオ映像升水惟雄が独立してジャパンホームビデオを設立。代々木忠の作品販売もも日本ビデオ映像からジャパンホームビデオに移る[4]

1988年(昭和63年)、劇場公開作から撤退し、ビデオ作品に専念。

2006年(平成18年)、アテナ映像の代表取締役を退き、監督業に専念。

2010年(平成22年)11月、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』(2010, 監督:石岡正人)が第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門に出品される。

2021年(令和3年)8月、引退宣言[5]

エピソード

  • 第60回「代々木忠×週刊実話」で「SM調教師の根暗童子に撮影を申し入れた際、『調教は女の子の心理状態もあるので、たとえば1週間の間に、私は私の好きなときにやるが、それでもよければ』と言われた。僕らは、いつ彼が行動を起こしてもいいように、1週間現場に泊まり込み、24時間だれかが寝ずの見張りをした。この体験が『仕掛けて待つ』というドキュメントの手法を僕に教えたのだと思う。」と回顧している。

代表作

映画

AV

書籍

引用文献

注釈

  1. 一部、1963年(昭和38年)との記述もある。
  2. 、この段階ではまだビデオカメラではなく、機動性に優れていた16mmカメラが用いられていた
  3. 一審無罪、二審有罪・罰金20万円。
  4. 1980年(昭和55年)最高裁で無罪確定。
  5. 日活の下請会社。山本晋也の痴漢シリーズや未亡人シリーズでヒット。一部には1976年(昭和51年)設立の記述もあり。
  6. 第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門出品
  7. Part 1〜7。
  8. 『好奇心2』の元となる作品。
  9. 『好奇心』の上映が終了してから約1年後の1985年秋に、再映するにあたりビデオ作品「梨花の排泄日記」を劇場公開向けに再編集し「好奇心2」として、「好奇心」とあわせて上映した。上映後、「好奇心2」は、アテナ映像からビデオ化され発売された。

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