「1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?」の版間の差分
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[[画像:SMPlay4.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号の '''小林悟'''『日本映画の中のSMロマン』。ここに[[1965年版「花と蛇」]]を手がけたと明記している。]] | [[画像:SMPlay4.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号の '''小林悟'''『日本映画の中のSMロマン』。ここに[[1965年版「花と蛇」]]を手がけたと明記している。]] | ||
[[画像:takohachiro2.jpg|150px|thumbnail|[[たこ八郎]]は 『'''たこでーす'''』(アス出版, 1983)に「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。」と書いている。[[1965年版「花と蛇」]]のことと推察される。]] | |||
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2017年7月23日 (日) 17:42時点における最新版
概要
1974年から始まるにっかつでの『花と蛇』『団鬼六』ブームが目立つために見落とされがちだが、『花と蛇』の最初の映画化は山邊信雄と団鬼六が1965年に作製した、ピンク映画である1965年版「花と蛇」である。企画は東京企画の設立者三田浩の夫人である三島佳子が担当し、たこ八郎、山本昌平、火鳥こずえ、麻木正美なども出演しており、熱海城でロケがおこなわれた。監督は山邊信雄の変名、岸信太郎とする記録が多いが、小林悟であった可能性を示唆する情報もある。
いろいろな情報
情宣チラシには「監督:岸信太郎(=山邊信雄)」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)岸信太郎の監督作品とされている。一方で、山邊信雄本人は小林悟が監督であったと述べており、複数の周辺情報は小林悟が監督であったことを支持しており、真相は謎である。
- 山邊信雄氏へのインタビュー[1]では監督が小林悟で、助監督が若松孝二であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。
- 団鬼六の奇譚クラブ1965年(昭和40年)8月号『鬼六談義では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=岸信太郎=山邊信雄では話が合わない。
- 小林悟自身が「私が始めてSM映画をてがけたのは、この『花と蛇』であった。鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」[2]と述懐している。
- 小林悟は月森功の変名で1965年(昭和40年)頃から東京企画の作品をいくつか監督している。
- 奇譚クラブ1965年(昭和40年)2月号の鬼六談義には「『花と蛇』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とある。K氏=岸信太郎=山邊信雄では話が合わない。
- たこ八郎は「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている[3]。
- 二階堂卓也は自身の書籍中のヤマベプロの解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・小林悟)」と書いている[4]。
引用文献
- ↑ by U (2010.5.2)
- ↑ 小林悟『日本映画の中のSMロマン』in SMプレイ1973年(昭和48年)2月号
- ↑ たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)
- ↑ 二階堂卓也『ピンク映画史: 欲望のむきだし』(彩流社, 2014)