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[[若松孝二]]監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は[[東京企画]]で主演女優は[[香取環]]である。年代的にも、制作の[[東京企画]]も、個人的には興味深い存在である。 | [[若松孝二]]監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は[[東京企画]]で主演女優は[[香取環]]である。年代的にも、制作の[[東京企画]]も、個人的には興味深い存在である。 | ||
1960年代の前半といえば、いわゆる「[[ピンク映画]]」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる[[小林悟]]監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には[[本木荘二郎]]が『肉体自由貿易』(国新映画) | 1960年代の前半といえば、いわゆる「[[ピンク映画]]」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる[[小林悟]]監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には[[本木荘二郎]]が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の「[[ピンク映画]]」(「[[ピンク映画]]」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後の[[ピンク映画]]がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。 | ||
[[若松孝二]]監督が映画に関わり出したのは、映画ロケの弁当運び屋からだとされている<ref name="web1">[http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/c3095fb2514e0d44c190cb232d5ed0f6 インタビュー『若松孝二 わが映画履歴書』]より</ref>。テレビの『鉄人28号』『矢車剣之助』『月光仮面』などの助手もつとめていたようだ<ref name="web1"></ref>。『月光仮面』といえば『宣弘社』が1957年(昭和32年)に企画したテレビの大ヒット作品。西村俊一がプロデューサーである。おそらく[[若松孝二]]は、1950年代の後半にはTV作品の撮影現場に出入りしていたものと思われる。もちろんこの時代、大手映画会社から流れたスタッフがTV番組の作品を制作していた。 | [[若松孝二]]監督が映画に関わり出したのは、映画ロケの弁当運び屋からだとされている<ref name="web1">[http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/c3095fb2514e0d44c190cb232d5ed0f6 インタビュー『若松孝二 わが映画履歴書』]より</ref>。テレビの『鉄人28号』『矢車剣之助』『月光仮面』などの助手もつとめていたようだ<ref name="web1"></ref>。『月光仮面』といえば『宣弘社』が1957年(昭和32年)に企画したテレビの大ヒット作品。西村俊一がプロデューサーである。おそらく[[若松孝二]]は、1950年代の後半にはTV作品の撮影現場に出入りしていたものと思われる。もちろんこの時代、大手映画会社から流れたスタッフがTV番組の作品を制作していた。 | ||
西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後の[[ヤマベプロ]]の[[山邊信雄]]が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。[[山邊信雄]]も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へ入ってきた。 | |||
やがて[[山邊信雄]]は、1963年(昭和37年)頃に'''テレビ放送社''' | やがて[[山邊信雄]]は、1963年(昭和37年)頃に'''テレビ放送社'''に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。約2年後に'''テレビ放送社'''に入社してきたのが[[団鬼六]]である。[[団鬼六]]の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、現実は売れっ子プロデューサーと入社まもない翻訳家の力関係である。[[団鬼六]]は、三浦市三崎の英語教師を辞して上京してきた。[[奇譚クラブ]]の『[[花と蛇]]』第一部が完結した頃に相当する。 | ||
'''テレビ放送社'''でプロデューサーをしていた[[山邊信雄]]であるが、当時勃興してきた「[[ピンク映画]]」に可能性を見いだす。'''テレビ放送社'''を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が[[1965年版「花と蛇」]]である。もちろん[[団鬼六]]の原作・脚本である。 | |||
さて、この[[1965年版「花と蛇」]]が[[若松孝二]]と関わってくる。 | |||
[[1965年版「花と蛇」]]については、2009年(平成21年)10月10日に「[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10361575543.html#mainArdent Obsession II ]」に「[[映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六]]」として一度記事を書いたことがある。その記事では、この[[1965年版「花と蛇」]]は、製作が[[東京企画]]、監督が[[山邊信夫]]の変名「岸信太郎」で、主演は紫千鶴と紹介した。これらの情報は[http://www.jmdb.ne.jp 日本映画データベース]に依ったものだった。 | |||
また、その記事では、[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』を引用し、「『撮影に二、三日立ち会ってみたが・・・監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない』・・・K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いた。 | |||
ところがである・・・ | |||
この記事を書いた後に、[[山邊信夫]]氏に何回かお話しをうかがう機会を得た。[[山邊信夫]]氏のこの[[1965年版「花と蛇」]]に関する記憶は鮮明で、それによると | |||
*製作:[[ヤマベプロ]] | |||
*監督:[[小林悟]] | |||
*助監督:[[若松孝二]] | |||
*主演:タカオユリ、[[たこ八郎|太古八郎]] | |||
*撮影場所:[[熱海城]] | |||
*脚本・緊縛指導:[[団鬼六]] | |||
だということであった。 | |||
これは大変なことである。[http://www.jmdb.ne.jp 日本映画データベース]の情報とは大きく異なるのである。 | |||
かなり昔の事であるので、[[山邊信夫]]氏の記憶違いであるのではと、ひつこく質問したのだが、[[山邊信夫]]氏の記憶にはあいまいさはなかった。ただし、主演のタカオユリに関しては、「最終的に『紫千鶴』という名前で出たのかなぁ」ということである。また、製作が[[東京企画]]となっているのは、配給を[[東京企画]]がおこなったから、そうなっているのだろうということた。 | |||
「紫千鶴」という名前に関しては、上述の『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』でも「紫千鶴は[[火石プロ]]に所属する21才」と出てくるので、表向きには「紫千鶴」という名前が使われていたのは確かなのであろう。タカオユリという名前で撮影に参加していたのかもしれない。日本女優辞典では、「紫千鶴は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消した」とされている。もしこのマキノ映画に出ていた紫千鶴が同一人物だとすると、1965年には33才になっている筈なので、「紫千鶴は[[火石プロ]]に所属する21才」とは随分と違ってくる。[[1965年版「花と蛇」]]の主演女優の実体は不明のままだが、[[山邊信夫]]氏によると「静子役にぴったりいい女優だったが、すぐやめた」ということだ。 | |||
撮影場所の「[[熱海城]]」に関しても腑に落ちなかった。[[山邊信夫]]氏のお父さんの秘書だった方が支配人をやっていたので、その縁で借りることができた「立派な宿泊施設」、というなのだが、「[[熱海城]]」は観光施設で旅館ではない。これもきっと、[[団鬼六]]がお気に入りだった熱海『起雲閣』と間違えているのだろうと確認するも、「[[熱海城]]」だときっぱり。 | |||
そうすると、ひょっとすると昔は宿泊施設があったのかもしれないと、熱海市立図書館に出向いて、学芸員の方にうかがうと、「何に使われるのですか?」と疑いの目をむけられながらも、どっさりと資料を見せていただけました。実は、熱海市と[[熱海城]]の間ではいろいろとバトルがあったようなのですが、それは横においておき、確かに1959年(昭和34年)10月にオープンした[[熱海城]]は、1960年代には大浴場や宿泊施設を有するレジャーランドとして人気を博していたことが明らかに。[[山邊信夫]]氏の記憶と矛盾しません。 | |||
次に、監督の[[小林悟]]。これも監督が[[小林悟]]だとすると話がスムーズになる記録が2つある。1つが『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』の[[団鬼六]]の記述。「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」である。過去のブログでは「K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いてしまったが、[[小林悟]]がK氏であれば「監督歴十何年のベテラン」で話はあう。また、[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]にも「『[[花と蛇]]』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とあるので、[[小林悟]]だとスムーズにつながる。 | |||
さらに、やはり過去のブログの「[[映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎]]」で、[[たこ八郎]]が「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いていることに対し、「[[小林悟]]の映画に[[たこ八郎]]が出演した記録は見つからないし、[[小林悟]]の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初の[[ピンク映画]]の監督とされる[[小林悟]]」と「[[団鬼六]]の『[[花と蛇]]』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。」と書いたが、[[山邊信夫]]氏は、[[1965年版「花と蛇」]]に[[たこ八郎]]が出たと明言していることを考えると、「[[ピンク映画]]に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』」は、まさにこの[[1965年版「花と蛇」]]にほかならない。 | |||
最後が助監督の[[若松孝二]]だ。[[山邊信夫]]氏は、映画製作に手を出し始めたのは、[[若松孝二]]が「どこにも束縛されないで作れる映画がある」と教えてくれたことがきっかけだとインタビューで答えている。[[山邊信夫]]氏の言によると、「今はえらくなっちゃったけど、あいつは当時は俺の車磨きをしてて、バカ松って呼んでいた仲なんだよ」ということだ。 | |||
確かに[[若松孝二]]も[[山邊信夫]]も1960年前後には「月光仮面」でつながっていた筈で、[[山邊信夫]]のキャラクターから考えて、後輩の[[若松孝二]]に[[1965年版「花と蛇」]]の手伝いをさせていたのも、いかにもありえそうである。[[若松孝二]]のデビュー作が[[東京企画]]からであり、[[1965年版「花と蛇」]]の配給も[[東京企画]]でつながる。 | |||
[[若松孝二]]監督が、[[1965年版「花と蛇」]]の製作に関わっていたという証拠を固めるために、さらに[[ヤマベプロ]]の俳優であった[[山本昌平]]氏と[[山吹ゆかり]]女史に、2011年にお話しを伺う機会を得た。[[山本昌平]]氏は恐らく1965年にはまだ[[ヤマベプロ]]には参加されていなかったようで、[[1965年版「花と蛇」]]に関しては覚えておられなかった。[[山吹ゆかり]]女史もどういう名前で作品が公開されたかは、全然知らないので、[[1965年版「花と蛇」]]の現場にいたかどうかは分からないということだった。ただし、両方とも、[[若松孝二]]監督や[[団鬼六]]氏が[[ヤマベプロ]]の撮影現場にいたのはよく覚えていいらっしゃり、懐かしそうに思い出されていた。 | |||
[[1965年版「花と蛇」]]のフィルムが残っており、そのスタッフの名前を確認すれば決定的な証拠になるのだが、今のところフィルムを探し出すのに成功していない。[[山邊信夫]]氏の記憶では[[ヤマベプロ]]の作品は東映化学工業株式会社に寄贈したとのことだが、社名を[[東映ラボ・テック]]に変えた東映化学工業に問い合わせても、見つからないということだ。もちろん、フィルムセンターも調べてみたがフィルムは見つからない。映画関係者の話では、現時点でも無いと思われていたフィルムがコンスタントに発見されフィルムセンターなどに寄贈され続けているということなので、今後[[1965年版「花と蛇」]]のフィルムが発見されることに期待している。 | |||
残る手段は、[[若松孝二]]監督に直接伺うことだ。あたり前のことなのだが、なんだかおっかなそうな人なので、緊張してしまう。そういうことを考えていたのが、ちょうど三島由紀夫を撮影されていた時期なので、そういう時にのこのこ出ていけば、きっと怒鳴られて終わりだろうな・・と悩みつつ、意を決して若松プロを訪れたのが2011年の9月1日。どういう背景で興味をもち、どういうことを尋ねたいかを手紙にして、それをまずはスタッフに手渡すことができれば、と突撃。 | |||
ピンポーン、とベルを押して、スタッフが出てくるのを待つ。しばらくして「だ〜れ〜」と2階か3階かの窓があき、白髪のおっさんが顔を出す。(やばい、[[若松孝二]]監督だ!)と、パニックになり、あとは何を言ったか覚えていないが「ポストに入れといて〜」と言われ、手紙を置いてドキドキしながら、そのままJRで近くの風俗資料館に向かっている途中に、携帯に電話が。[[若松孝二]]監督からだった。 | |||
その時に伺った内容を要約すると | |||
「[[ヤマベプロ]]を手伝った記憶はない。」「[[ヤマベプロ]]や[[東京企画]]がたくさん映画をつくっていたとの認識はない。」「[[団鬼六]]は有名になってから『[[花と蛇]]』とを撮らないかとの話しはきたが、当時は知らない。」「山邊さんの車は磨かされていた。」「山邊さんとは弁当はこびの頃に出会った。」「TVで助監督はやったが、映画では助監督はやったことはない。」TV製作でけんかして[[東京企画]]で一本撮った。その後は国映。」「そもそも[[小林悟]]とは映画の方向性が違うので彼の助監督をやるはずがない。」 | |||
といったもの。 | |||
これで[[1965年版「花と蛇」]]の助監督問題は結着がつくかと思っていただけに、がっくり。[[若松孝二]]監督は全面否定どこから、[[団鬼六]]も会った事が無いような言いよう。[[団鬼六]]は[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)2月号の『[[鬼六談義]] 日本三文映画』で[[若松孝二]]監督のことを「私の知人の或る若いピンク映画の監督」と紹介し「壁の中の秘事」のベルリン映画祭の[[国辱映画を観る|エピソード]]を紹介している。もっとも、[[ヤマベプロ]]の人達は[[団鬼六]]氏のことは「松ちゃん」と呼んでいたので、[[若松孝二]]監督の頭の中では「松ちゃん」とその後の[[団鬼六]]が同一人物だと認識していない可能性も残る。 | |||
「これでまた振り出しか」と落ち込んでいた私に、緊縛師で映画監督の[[ダーティ工藤]]さんが「若松監督は初めての人には本当のことを喋るタイプでないよ」「映画では助監督はやったことないと言っているけど、実際はやっているしね」と優しい言葉を。確かに、最初は、つっけんどんだった電話の[[若松孝二]]監督も、最後の方は「山邊のおっさん、どうしてんの?」「今度会ったら、『お互い長生きしましょう』『女遊びはほどほどに』と伝えといてくれるか?ガハッハッ」と少し和やかに。 | |||
チャンスを見て、あと何回かインタビューしてみようと、思っていたのだが、それも叶わぬ夢に。 | |||
[[1965年版「花と蛇」]]に関しては、[[奇譚クラブ]]の読者から賛否両論の意見が寄せられている。1965年11月号では「期待はずれも甚だしい。併映の“冒涜の罠”の1コマに吊し上げて擽り責めするシーンの方がずっとよい」との厳しい意見が。この「併映の“冒涜の罠”」の監督が、実に[[若松孝二]]である。[[奇譚クラブ]]の読者を納得させる責め場を撮れる[[若松孝二]]の実力人改めて敬意を表し、ご冥福をお祈りしたい。 | |||
==関連した出来事== | |||
1931年(昭和6年)4月16日、[[団鬼六]]が滋賀県に生まれる。 | |||
1933年(昭和8年)、[[山邊信雄]]が浅草に生まれる。 | |||
1936年(昭和11年)4月1日、[[若松孝二]]が宮城県遠田郡涌谷町に生まれる。 | |||
1956年(昭和31年)、[[団鬼六]]が文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に[[黒岩松次郎]]の名前で応募した応募した『浪速に死す』が佳作。 | |||
1958年(昭和33年)頃、[[山邊信雄]]が「宣弘社」に入社。 | |||
1960年(昭和35年)4月、[[団鬼六]]の『大穴』 が松竹から映画化。 | |||
1960年前後、[[若松孝二]]がロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手。 | |||
1962年(昭和37年)、[[団鬼六]]『[[花と蛇]]』1〜3回を[[花巻京太郎]]の名で[[奇譚クラブ]]8月9月合併号から連載。[[団鬼六]]は新橋でのバー経営に失敗。東京から三浦市三崎に移転。 | |||
1963年(昭和37年)頃、[[山邊信雄]]がテレビ放送社に入社。 | |||
1963年(昭和38年)9月、[[若松孝二]]が『'''甘い罠'''』([[東京企画]]、睦五郎、[[香取環]])で監督デビュー。 | |||
1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。 | |||
1965年(昭和40年)春、[[団鬼六]]がテレビ放送社に入社。 | |||
1965年(昭和40年)、[[若松孝二]]が若松プロダクションを設立設立。『'''壁の中の秘事'''』がベルリン国際映画祭に出品。 | |||
1965年(昭和40年)、[[1965年版「花と蛇」]]の完成。 | |||
==参考資料== | |||
<references/> | |||
==つながり== | ==つながり== |
2015年10月12日 (月) 10:49時点における最新版
この記事は2012年(平成24年)10月18日に「Ardent Obsession III」に投稿されたブログ記事を転載したものです。
若松孝二と「花と蛇」
若松孝二監督が交通事故で亡くなった。1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「千年の愉楽」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。
若松孝二監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は東京企画で主演女優は香取環である。年代的にも、制作の東京企画も、個人的には興味深い存在である。
1960年代の前半といえば、いわゆる「ピンク映画」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる小林悟監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には本木荘二郎が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の「ピンク映画」(「ピンク映画」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後のピンク映画がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。
若松孝二監督が映画に関わり出したのは、映画ロケの弁当運び屋からだとされている[1]。テレビの『鉄人28号』『矢車剣之助』『月光仮面』などの助手もつとめていたようだ[1]。『月光仮面』といえば『宣弘社』が1957年(昭和32年)に企画したテレビの大ヒット作品。西村俊一がプロデューサーである。おそらく若松孝二は、1950年代の後半にはTV作品の撮影現場に出入りしていたものと思われる。もちろんこの時代、大手映画会社から流れたスタッフがTV番組の作品を制作していた。
西村俊一の『宣弘社』には、面白いことに、後のヤマベプロの山邊信雄が音響として参加していた。1958年(昭和33年)頃のことである。山邊信雄も山本薩夫、今井正らの映画製作の関わりから流れて、TV作品の制作へ入ってきた。
やがて山邊信雄は、1963年(昭和37年)頃にテレビ放送社に入社し、『どら猫大将』『恐妻天国』『ガンビーくんの冒険』のプロデュースで興行的に大成功を収める。約2年後にテレビ放送社に入社してきたのが団鬼六である。団鬼六の自伝には、この頃のことが脚色まじりに面白おかしく書かれているが、現実は売れっ子プロデューサーと入社まもない翻訳家の力関係である。団鬼六は、三浦市三崎の英語教師を辞して上京してきた。奇譚クラブの『花と蛇』第一部が完結した頃に相当する。
テレビ放送社でプロデューサーをしていた山邊信雄であるが、当時勃興してきた「ピンク映画」に可能性を見いだす。テレビ放送社を籍をおきつつ映画製作に乗り出し、その第一作が1965年版「花と蛇」である。もちろん団鬼六の原作・脚本である。
さて、この1965年版「花と蛇」が若松孝二と関わってくる。
1965年版「花と蛇」については、2009年(平成21年)10月10日に「Obsession II 」に「映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六」として一度記事を書いたことがある。その記事では、この1965年版「花と蛇」は、製作が東京企画、監督が山邊信夫の変名「岸信太郎」で、主演は紫千鶴と紹介した。これらの情報は日本映画データベースに依ったものだった。
また、その記事では、団鬼六の奇譚クラブ1965年(昭和40年)8月号『鬼六談義 映画「花と蛇」』を引用し、「『撮影に二、三日立ち会ってみたが・・・監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない』・・・K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いた。
ところがである・・・
この記事を書いた後に、山邊信夫氏に何回かお話しをうかがう機会を得た。山邊信夫氏のこの1965年版「花と蛇」に関する記憶は鮮明で、それによると
だということであった。
これは大変なことである。日本映画データベースの情報とは大きく異なるのである。
かなり昔の事であるので、山邊信夫氏の記憶違いであるのではと、ひつこく質問したのだが、山邊信夫氏の記憶にはあいまいさはなかった。ただし、主演のタカオユリに関しては、「最終的に『紫千鶴』という名前で出たのかなぁ」ということである。また、製作が東京企画となっているのは、配給を東京企画がおこなったから、そうなっているのだろうということた。
「紫千鶴」という名前に関しては、上述の『鬼六談義 映画「花と蛇」』でも「紫千鶴は火石プロに所属する21才」と出てくるので、表向きには「紫千鶴」という名前が使われていたのは確かなのであろう。タカオユリという名前で撮影に参加していたのかもしれない。日本女優辞典では、「紫千鶴は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消した」とされている。もしこのマキノ映画に出ていた紫千鶴が同一人物だとすると、1965年には33才になっている筈なので、「紫千鶴は火石プロに所属する21才」とは随分と違ってくる。1965年版「花と蛇」の主演女優の実体は不明のままだが、山邊信夫氏によると「静子役にぴったりいい女優だったが、すぐやめた」ということだ。
撮影場所の「熱海城」に関しても腑に落ちなかった。山邊信夫氏のお父さんの秘書だった方が支配人をやっていたので、その縁で借りることができた「立派な宿泊施設」、というなのだが、「熱海城」は観光施設で旅館ではない。これもきっと、団鬼六がお気に入りだった熱海『起雲閣』と間違えているのだろうと確認するも、「熱海城」だときっぱり。
そうすると、ひょっとすると昔は宿泊施設があったのかもしれないと、熱海市立図書館に出向いて、学芸員の方にうかがうと、「何に使われるのですか?」と疑いの目をむけられながらも、どっさりと資料を見せていただけました。実は、熱海市と熱海城の間ではいろいろとバトルがあったようなのですが、それは横においておき、確かに1959年(昭和34年)10月にオープンした熱海城は、1960年代には大浴場や宿泊施設を有するレジャーランドとして人気を博していたことが明らかに。山邊信夫氏の記憶と矛盾しません。
次に、監督の小林悟。これも監督が小林悟だとすると話がスムーズになる記録が2つある。1つが『鬼六談義 映画「花と蛇」』の団鬼六の記述。「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」である。過去のブログでは「K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。」と書いてしまったが、小林悟がK氏であれば「監督歴十何年のベテラン」で話はあう。また、奇譚クラブ1965年(昭和40年)2月号の鬼六談義にも「『花と蛇』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とあるので、小林悟だとスムーズにつながる。
さらに、やはり過去のブログの「映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎」で、たこ八郎が「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いていることに対し、「小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。」と書いたが、山邊信夫氏は、1965年版「花と蛇」にたこ八郎が出たと明言していることを考えると、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』」は、まさにこの1965年版「花と蛇」にほかならない。
最後が助監督の若松孝二だ。山邊信夫氏は、映画製作に手を出し始めたのは、若松孝二が「どこにも束縛されないで作れる映画がある」と教えてくれたことがきっかけだとインタビューで答えている。山邊信夫氏の言によると、「今はえらくなっちゃったけど、あいつは当時は俺の車磨きをしてて、バカ松って呼んでいた仲なんだよ」ということだ。
確かに若松孝二も山邊信夫も1960年前後には「月光仮面」でつながっていた筈で、山邊信夫のキャラクターから考えて、後輩の若松孝二に1965年版「花と蛇」の手伝いをさせていたのも、いかにもありえそうである。若松孝二のデビュー作が東京企画からであり、1965年版「花と蛇」の配給も東京企画でつながる。
若松孝二監督が、1965年版「花と蛇」の製作に関わっていたという証拠を固めるために、さらにヤマベプロの俳優であった山本昌平氏と山吹ゆかり女史に、2011年にお話しを伺う機会を得た。山本昌平氏は恐らく1965年にはまだヤマベプロには参加されていなかったようで、1965年版「花と蛇」に関しては覚えておられなかった。山吹ゆかり女史もどういう名前で作品が公開されたかは、全然知らないので、1965年版「花と蛇」の現場にいたかどうかは分からないということだった。ただし、両方とも、若松孝二監督や団鬼六氏がヤマベプロの撮影現場にいたのはよく覚えていいらっしゃり、懐かしそうに思い出されていた。
1965年版「花と蛇」のフィルムが残っており、そのスタッフの名前を確認すれば決定的な証拠になるのだが、今のところフィルムを探し出すのに成功していない。山邊信夫氏の記憶ではヤマベプロの作品は東映化学工業株式会社に寄贈したとのことだが、社名を東映ラボ・テックに変えた東映化学工業に問い合わせても、見つからないということだ。もちろん、フィルムセンターも調べてみたがフィルムは見つからない。映画関係者の話では、現時点でも無いと思われていたフィルムがコンスタントに発見されフィルムセンターなどに寄贈され続けているということなので、今後1965年版「花と蛇」のフィルムが発見されることに期待している。
残る手段は、若松孝二監督に直接伺うことだ。あたり前のことなのだが、なんだかおっかなそうな人なので、緊張してしまう。そういうことを考えていたのが、ちょうど三島由紀夫を撮影されていた時期なので、そういう時にのこのこ出ていけば、きっと怒鳴られて終わりだろうな・・と悩みつつ、意を決して若松プロを訪れたのが2011年の9月1日。どういう背景で興味をもち、どういうことを尋ねたいかを手紙にして、それをまずはスタッフに手渡すことができれば、と突撃。
ピンポーン、とベルを押して、スタッフが出てくるのを待つ。しばらくして「だ〜れ〜」と2階か3階かの窓があき、白髪のおっさんが顔を出す。(やばい、若松孝二監督だ!)と、パニックになり、あとは何を言ったか覚えていないが「ポストに入れといて〜」と言われ、手紙を置いてドキドキしながら、そのままJRで近くの風俗資料館に向かっている途中に、携帯に電話が。若松孝二監督からだった。
その時に伺った内容を要約すると
「ヤマベプロを手伝った記憶はない。」「ヤマベプロや東京企画がたくさん映画をつくっていたとの認識はない。」「団鬼六は有名になってから『花と蛇』とを撮らないかとの話しはきたが、当時は知らない。」「山邊さんの車は磨かされていた。」「山邊さんとは弁当はこびの頃に出会った。」「TVで助監督はやったが、映画では助監督はやったことはない。」TV製作でけんかして東京企画で一本撮った。その後は国映。」「そもそも小林悟とは映画の方向性が違うので彼の助監督をやるはずがない。」
といったもの。
これで1965年版「花と蛇」の助監督問題は結着がつくかと思っていただけに、がっくり。若松孝二監督は全面否定どこから、団鬼六も会った事が無いような言いよう。団鬼六は奇譚クラブ1966年(昭和41年)2月号の『鬼六談義 日本三文映画』で若松孝二監督のことを「私の知人の或る若いピンク映画の監督」と紹介し「壁の中の秘事」のベルリン映画祭のエピソードを紹介している。もっとも、ヤマベプロの人達は団鬼六氏のことは「松ちゃん」と呼んでいたので、若松孝二監督の頭の中では「松ちゃん」とその後の団鬼六が同一人物だと認識していない可能性も残る。
「これでまた振り出しか」と落ち込んでいた私に、緊縛師で映画監督のダーティ工藤さんが「若松監督は初めての人には本当のことを喋るタイプでないよ」「映画では助監督はやったことないと言っているけど、実際はやっているしね」と優しい言葉を。確かに、最初は、つっけんどんだった電話の若松孝二監督も、最後の方は「山邊のおっさん、どうしてんの?」「今度会ったら、『お互い長生きしましょう』『女遊びはほどほどに』と伝えといてくれるか?ガハッハッ」と少し和やかに。
チャンスを見て、あと何回かインタビューしてみようと、思っていたのだが、それも叶わぬ夢に。
1965年版「花と蛇」に関しては、奇譚クラブの読者から賛否両論の意見が寄せられている。1965年11月号では「期待はずれも甚だしい。併映の“冒涜の罠”の1コマに吊し上げて擽り責めするシーンの方がずっとよい」との厳しい意見が。この「併映の“冒涜の罠”」の監督が、実に若松孝二である。奇譚クラブの読者を納得させる責め場を撮れる若松孝二の実力人改めて敬意を表し、ご冥福をお祈りしたい。
関連した出来事
1931年(昭和6年)4月16日、団鬼六が滋賀県に生まれる。
1933年(昭和8年)、山邊信雄が浅草に生まれる。
1936年(昭和11年)4月1日、若松孝二が宮城県遠田郡涌谷町に生まれる。
1956年(昭和31年)、団鬼六が文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に黒岩松次郎の名前で応募した応募した『浪速に死す』が佳作。
1958年(昭和33年)頃、山邊信雄が「宣弘社」に入社。
1960年(昭和35年)4月、団鬼六の『大穴』 が松竹から映画化。
1960年前後、若松孝二がロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手。
1962年(昭和37年)、団鬼六『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブ8月9月合併号から連載。団鬼六は新橋でのバー経営に失敗。東京から三浦市三崎に移転。
1963年(昭和37年)頃、山邊信雄がテレビ放送社に入社。
1963年(昭和38年)9月、若松孝二が『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。
1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。
1965年(昭和40年)春、団鬼六がテレビ放送社に入社。
1965年(昭和40年)、若松孝二が若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品。
1965年(昭和40年)、1965年版「花と蛇」の完成。
参考資料
つながり
<metakeywords>緊縛, 映画, 昭和</metakeywords>