映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六

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この記事は2009年(平成21年)10月10日に「Obsession II 」に投稿されたブログ記事を転載したものです。

映画史上最初の「花と蛇」について書いている。「最初の『花と蛇』といえば、1974年の谷ナオミ主演、小沼勝監督の『花と蛇』ですね」と思われるかもしれないが、そうではない。それよりさらに10年ほどさかのぼった、1965年に製作された作品である。

1965年といえば、久保書店から「サスペンスマガジン」が創刊され、その表紙に遠慮がちに「SM」と略号が書かれている時代である。世間一般に「SM」という言葉が知られるようになるのは、もう少し時間がかかる。もちろん、一般の人々は「花と蛇」も「団鬼六」も知るよしもない。ただ、奇譚クラブの中では「花と蛇」は既に熱狂的な支持を受けており、その続編、「続・花と蛇」が連載中であった。

団鬼六氏はまだ30代前半。3年間の神奈川県三浦での英語教師の職を辞し、再び上京し(1957年に関西から一度上京し、新進若手小説家として幸先の良いスタートを切ったが、5年後には借金に追われ都落ち)、テレビ洋画製作会社で「ヒッチコック劇場」などの吹き替え(アテレコ)の仕事についていた。仕事の合間に奇譚クラブや裏窓に投稿していたわけで、SM作家を本業とする以前の生活である。

この1965年版「花と蛇」の監督は、「岸信太郎」である。岸信太郎こと、「山邊信夫」氏は、後に谷ナオミ、東てる美の主人となっている。団氏は山邊氏と、このテレビ洋画製作会社で知り合っている(混乱を避けるために、文末に簡単な登場人物のまとめを置いてある)。

団氏は自伝を複数書いているが、その内容が一定していない。自伝といえども、かなり創作部分がまじっているようで注意が必要である。団氏がピンク映画に関わり合いを持つようになった経緯も、いくつかのストーリーが用意されており、どれが真実に近いのか不明である。藤川黎一氏の「虹の橋」に、山邊氏側から見たこの時代の伝聞があり、また、日本映画データベースからは、製作年などの客観的なデータを得ることができる。それらを総合して、おそらくこうだろうと思われる当時の様子を再構成してみよう。

日本映画データベースによると、1965年9月以降、団氏は「団鬼六」「黒岩松次郎」「花巻京太郎」の名前を使い分けて、多くのピンク映画脚本を担当している。1965年が2本、66年が5本、67が9本といった感じである。日本映画データベースも完全なものではないと思われるので、実際にはこれより多くの脚本を書いていると思われる。

その記録では最初の脚本が、1965年10月の「濡れた女」(黒岩松次郎)となっているが、後で述べるように、これより1月前に制作されている「花と蛇」も明らかに団氏の脚本による。

団氏がどのような経緯でピンク映画の脚本を書くようになったのかははっきりしない。山邊氏を通して、山邊氏の知人のピンク映画制作者から依頼があったというストーリーや、たこ八郎氏を通して依頼があったというストーリーが自伝では使われている(ちなみに、後の鬼プロで活躍するたこ八郎氏は、このテレビ洋画製作会社時代に知り合ったということになっている)。

ともかく、団氏がピンク映画の脚本を精力的に書き出したのは1965年以降であることは間違いない。かなりハードな業務内容であるアテレコの報酬が月給七万円であるのに対し、2,3日で完成するピンク映画の台本の原稿料が、1本五万であったことが複数の自伝で述べられている。ちなみに、「花と蛇」の原稿料が一枚500円から始まったとある(人気の上昇と共に原稿料も上がっているはず)ので、こちらの方もそれなりの収入である。「SM小説家」に専念しても十分に生活していけそうだと考え出したのも、この1965年頃だったのであろう。

団氏がテレビ洋画製作会社をやめるのが1966年頃だと思われるので、この「花と蛇」が制作された年は、団氏はまだ会社員だったことになる。山邊氏の方がこの「花と蛇」の監督をした時、既にテレビ洋画製作会社をやめていたのかどうか不明である。ただ、日本映画データベースによると、この1965年の「花と蛇」と、その1月後に製作された「濡れた女」(黒岩松次郎 脚本、松原次郎 監督)は、共に製作が「東京企画」となっている。そのさらに一ヶ月後の「赤いぼうふら」という作品から、製作が「ヤマベ・プロ」となる。いいように解釈するなら、「団氏がテレビ洋画製作会社に就職し、アテレコ業務に奮闘している時に、山邊氏が入社する。たまたま山邊氏の知り合いの、東京企画関係者がピンク映画の脚本を書いてくれる作家を捜しており、山邊氏が団氏に相談する。それならば、と『花と蛇』の映画化が決まり、監督業に興味のあった山邊氏が監督までやってしまう。これは面白く、金になると思った山邊氏は、テレビ洋画製作会社を辞し、『ヤマベ・プロ』を設立し、本格的なピンク映画作製に乗り出す」といったところである。あくまで想像なので、ご注意を。

当初は、この「東京企画」がこそが、山邊氏の興した独立プロかと思っていたが、そうでもないようである。映画プロデューサーとして活躍された武重邦夫氏のブログに、「1963年」の「東京企画」の思い出が書かれている。それによると、当時学生であった武重氏は、「今村昌平監督から『熊井啓さんが知り合いのプロダクションを紹介してくれた。住所を調べて、明日にでも訊ねてごらん』」といった手紙をもらい、「渋谷の道玄坂」にある「東京企画」を訪れたとある。「看板も表札もなく、社長の三田浩の名刺」を玄関にはりつけただけの小さな事務所で、「本当にここが映画会社かと戸惑った」とある。ちょうど、「若松孝二監督を国映に引き抜かれた」後だったそうで、若松の代わりの「山本薩夫監督の助監督していたベテラン監督」による「地下室のうめき」という「つまらない脚本の助監督をいきなり担当」させられた、とある。

この武重氏の思い出は1963年のことである。山邊氏が自らのピンク映画プロダクションを作ろうと動き出したのは、どう考えても1965年以降なので、東京企画は団氏や山邊氏が映画を作り出す前からあるプロダクションということになる。あるいは、団氏に脚本依頼をおこなった「山邊氏の知人のピンク映画制作者」が東京企画の関係者だったのかもしれない。ただ、独立プロのさらに下請け独立プロもあったそうなので、なんともいえない。

話はそれるが、この武重邦夫氏のブログ、当時のピンク映画製作の独立プロの様子を知る格好の材料である。60年代には、大手から派生したピンク映画会社が出現すると同時に、新規参入の独立プロが多く誕生する。これら新規に設立された独立プロのいくつかは、映画関係者が興したものであっただろうが、同時に、それまで映画とは無関係の人達が始めた会社も多かったであろう。エロ業界で一儲けしてやろうと参入してくる人々である。その多くが、「本当にここが映画会社」なのかと思うような小さな会社だったのであろう。経営者は映画の素人だったかもしれないが、製作には、かつて五社で活躍したものの、倒産、縮小などで場を失った映画人が関わっていたことが分かる。同時に、映画のド素人である武重氏をいきなり助監督に起用することからも分かるように、独立プロならではの、低予算指向の製作体制がとられていたのであろう。また魅力的な脚本を書いてくれる作家が不足していたのも分かる。そういった中でも、若松孝二のような後世に名を残すような監督が育っていたのも見逃せない。

山邊氏といった映画のド素人が、いきなり「花と蛇」の監督をしてしまうというのも驚きである。奇譚クラブ1965年8月号には「鬼六談議・映画版花と蛇」には1965年版「花と蛇」の製作の様子が書かれている。奇譚クラブの読者をかなり意識して書いた文のようなので、どこまで事実を正確に伝えているのか判断に悩むところだが、気になる部分をピックアップしてみよう。

まず、この「花と蛇」の製作には、『日本拷問史のヒットということが念頭にあり』とある。これは以前に紹介した、前年(1964年)に公開された日本最初のSM映画、小森白監督の「日本拷問刑罰史」のことである。緊縛と責めを中心とした、ある種危険な映画であったが、社会からの特に大きな攻撃を受けることもなく、むしろ意外と好評だった。このことに勇気づけられ、団氏はSMをもう少しオープンにしても大丈夫だろうと思ったのであろう。

さらに、『スタッフ陣に本格的なマニアは皆無で・・・』と続く。山邊氏を巡る資料の中に、山邊氏がSMマニアであることを示唆するものはない。おそらく山邊氏はSMマニアではなかったのであろう。ピンク映画の素材としてのSMの可能性をいち早く気づいた事業家と考えるべきであろう。

続いて『・・私としては原作の匂いのないまでに脚本を作ったのであるが』とある。日本映画データベースには、この「花と蛇」に脚本に関するデータがないが、ここにあるようにこの映画の脚本は団氏である。『原作の匂いのないまでに脚本を作った』というところが興味深い。SMをオープンにすることにとまどいがあり、意識的にかなり内容をセーブして脚本を書いたのかもしれない。あるいは、完成間近の映画を見て、「これでは奇譚クラブのファンは満足しないだろう」とあらかじめ予防線を張ったのかもしれない。なんと言っても素人監督の作品である。ちなみに、公開後の奇譚クラブ読者の反応は分かれる。65年11月号には「期待はずれも甚だしい。併映の“冒涜の罠”の1コマに吊し上げて擽り責めするシーンの方がずっとよい」という投稿がある。この投稿は、既に1965年の段階で、「花と蛇」以外に、ピンク映画でSMシーンが撮影されていることを示しており、非常に貴重な投稿である。ちなみに「冒涜の罠」の監督は若松孝二である。続く12月号には、「鼻責めマニア」から「映画史上初めての鼻責めシーン」「感謝せねばばちが当たる」といった賞賛の投稿がある。奇譚クラブならではのマニアの悦びであろう。翌年の5月号には「圧巻」との賞賛投稿もある。

団氏が脚本書きだけに終わったのか、あるいは映画製作現場にも立ち会ったのか興味のあるところである。奇譚クラブには「撮影に二、三日立ち会ってみたが・・・監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とある。K氏とは、岸信太郎こと、山邊氏である。「監督歴十何年のベテラン」はウソである。ド素人である。たた可能性として残るのは、その後のヤマベ・プロの映画でメガホンを取る本木荘二郎、松原次郎などの五社出身者がアドバイザーとして参加していたことである。あるいは、これらの監督が実質的な采配をふるっていた可能性もあるのかもしれない。山邊氏が本木氏を最初に知ったのは、例のテレビ洋画製作会社の時代であったようだ。

「映画における緊縛指導」という観点からは、団氏が映画の中での緊縛に直接関与していたのかどうかが重要となる。鬼六談議では「主役の静子は、火石プロに所属する紫千鶴(21歳)で、制作者のY氏と私がかけずり回って見つけ出した・・・・私も手伝って彼女に縄をかけて、梁につり、そのまま三時間あまり、彼女はつま先達のまま、東山老人に鞭でぶたれる」とある。すなわち、団氏は1965年版「花と蛇」で緊縛指導をしたのである。

「おいおい、楽しみにしていた『映画における緊縛指導』の2人目は団鬼六氏のことなのか?」とお叱りを受けるかも知れない。団氏は、自ら度々述べているように、あまり緊縛には興味はない。緊縛も上手くない。団氏を緊縛師と呼ぶのには少々無理がある。とはいうものの、1959年頃から須磨氏の緊縛を実際に見て感心していたのは事実で、自らも緊縛実践をしているのも確実である。ド素人の山邊氏よりははるかに緊縛には慣れていたはずだ。したがって、名和弓雄氏に続く、2人目の映画における緊縛指導氏として紹介するに相応しい人物かと思われる。

次回は、もう少しサプライズな人選をして、ヤマベ・プロのSMピンク映画における緊縛指導の考察を続けていきたい。



参考資料 団鬼六 「鬼六談議・映画版花と蛇」奇譚クラブ(1965) 団鬼六 「蛇のみちは」(1997) 団鬼六 「生きかた下手」(2004) 団鬼六 「快楽なくして何が人生」(2006) 藤川黎一 「虹の橋 黒澤明と本木荘二郎」(1984) 日本映画データベース www.jmdb.ne.jp 武重邦夫 「記憶の底の『地下室のうめき』」


主な登場人物

【団鬼六】 説明は不要であろう。「黒岩松次郎」「花巻京太郎」のペンネームももつ。ちなみに本名は黒岩幸彦。

【山邊信夫】 60年代にヤマベ・プロを作り団とのコンビでピンク映画を製作。その後、TV業界で活躍。「岸信太郎」の名前で監督もこなす。谷ナオミ、東てる美の元ご主人。映像関係の世界に入るのは、団氏が勤めていたテレビ洋画製作会社に入社(1965年頃)と思われる。それ以前は映像とは関係のない畑にいたようだ。その後、TBSのディレクターなどを経て、現在制作会社「フラッシュ・ワン」を経営。

【たこ八郎】 元日本フライ級王者「斎藤清作」の芸名。1964年にボクシングは引退(24歳)し、由利徹の弟子に。SM界では69年に設立された鬼プロの社員として有名であるが、65年頃から団氏との交流はあるようである。杉村則夫を鬼プロに入社させ、SMに目覚めさせたのもたこ八郎とされている。濡木氏の日記にもたこ八郎の名前が出てくる。「太古八郎」の名前で、ヤマベ・プロの作品に出演したのが映画出演の最初だと思われる。

【小森白(きよし)】映画監督。新東宝株式会社(倒産した大手映画会社)から新東宝映画株式会社(ピンク映画の新東宝)を通じて活躍した名監督。日本初のSM映画である「日本拷問刑罰史」を名和弓雄との協力のもと、1964年に製作している。

【名和弓雄】 武道家であると当時に、捕り縄の研究、拷問の研究、時代考証などの幅広い学術活動も行っていた才人。「裏窓」にも執筆していていた。小森白の「日本拷問刑罰史」の原作者で映画の緊縛指導もしている。

【本木荘二郎】 伝説の映画人。黒澤映画の名プロデューサーとして、「羅生門」「七人の侍」などの作品を残しながら、1957年突然黒澤と決別し、その後ピンク映画界へ。1958年に公開された「肉体貿易市場」をピンク映画第1号とする説もある。小針二郎、岸本恵一、品川照二、高木丈夫、藤本潤三の名前を使い低予算ピンク映画を量産。ヤマベ・プロからも団鬼六脚本のSM映画を数多く製作している。1977年、新宿のボロアパートで一人寂しく病死。黒澤ファンの中には、黒澤・本木コンビ時代の作品が最もレベルが高いと評価する者が多い。ピンク業界でも山本晋也や浜野佐知など信奉者が多い。一方で、金癖、女癖の悪さから嫌う人も多い。

【松原次郎】 ヤマベ・プロでいくつかの作品を監督している。元東映監督の仲木睦であろう。

【武重邦夫】 今村昌平監督に関係の深い映画プロデューサー。SMとは関係なし。

【藤川黎一】 作家。本木荘二郎の生涯を綴った「虹の橋 黒澤明と本木荘二郎」(1984,虹プロモーション)の著者である。ちなみに、インターネットではこの本は「小説家気取り、無頼派気取りのその文体にヘキエキ」「本木の人生を掘り起こそうとする男が一人称で語る小説体であることが分かり、気が滅入って・・」などとサンザンであるが、読んでみるとそこまで叩かれるかな、というのが正直な感想。むしろ私などは、藤川氏の偏執的ともいえる調査態度に脱帽である。

(写真は1965年版「花と蛇」の撮影風景。奇譚クラブより)

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