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'''うらと ひろし'''、19??年(昭和??年)-
[[画像:Urado.jpg|250px|thumbnail|[[浦戸宏]] (1933- )]]
[[画像:Urado2.jpg|150px|thumbnail|[[にっかつ]]映画撮影に関わっていた頃の[[浦戸宏]]。女優は[[麻吹淳子]]<ref>[http://blog.livedoor.jp/mabukijunko-chiniku/archives/5168366.html 麻吹淳子の本当の年齢は?]</ref>]]


==活動内容==
'''うらど ひろし'''、1933年(昭和8年)11月18日-。1960年代に「裏窓」の編集者でSMの世界に入り、その後もSM耽美文学シリーズなどを発行。また、鬼プロの緊縛写真集や1970年代のにっかつSM映画の多くの作品で緊縛を担当していた。
緊縛師。編集者。
==概略==
緊縛師。編集者。20代後半に編集者として[[久保書店]]に入社し、[[須磨利之]]、[[濡木痴夢男]]などと共に[[裏窓]]の出版に携わる。30代半ばで独立し個人出版社を起こし、1969年(昭和44年)から[[耽美館]]の企画として[[芳賀書店]]から多くのSM関係小説・写真集を出版する。この頃から、[[久保書店]]時代からの知り合いであった[[団鬼六]]と近くなり、[[鬼プロ]]の準メンバーとしていろいろな製作活動に関与する。特に、[[団鬼六]]に依頼され、[[賀山茂]]に代わって、緊縛写真集の緊縛を担当したことが、編集者から緊縛師へと[[浦戸宏]]の軸足を変えることになる。1974年(昭和49年)には、[[谷ナオミ]]の[[にっかつ]]「[[花と蛇]]」の緊縛を担当することになり、これを機会にその後の[[にっかつ]]SM作品の多く(40数本)で緊縛師として活躍する。同時に、編集者としては[[SUN&MOON]]、[[サンアンドムーン]]、[[えすとえむ]]など、[[世田介一]]の流れのSM雑誌の編集人として活躍した。


==別名==
==別名==
浦戸宏史、[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Hiroshi_Urado Hiroshi Urado]、読みは本来は「うらど」だが「うらと」と呼ばれることが多い<ref name="K">[[Master "K"]]からの"私信</ref>。増井(本名)<ref name="nishi">『女優[[谷ナオミ]]:伝説のSM女王』西日本スポーツに1999年(平成11年)2月2日から10月ぐらいまで連載</ref>


==略歴==
==略歴==
1961,2年頃、「裏窓」の見習い編集者として友人の身代わりで面接に行き、それ以後四年ほど[[須磨利之]]の下で教えられた。
1933年(昭和8年)11月19日、高知県生まれ<ref name="K"></ref>。


1969-1970頃 富士五湖湖畔の団別荘に10名ぐらいで遊びに行く。谷ナオミをモデルにネズミ小僧の撮影を目黒の団鬼六邸でやろうと盛り上がる。その後、実際鬼六邸で撮影。そ
1950年代、法政大学社会学部卒業。卒業後は教科書、児童書の編集者<ref name="K"></ref>。


1970年7月に三崎岬で宮下順子を縛る。これはSMキング48年4月増刊号「緊縛の宴」に「漂泊の女」として出ている。
1961年(昭和36年)8月、「[[裏窓]]」([[久保書店]])の見習い編集者として友人の身代わりで面接に行き、それ以後四年ほど[[須磨利之]]の下で雑誌編集を教えられた<ref name="sprit">浦戸宏『回想のにっかつ銀幕物語』SMスピリッツ1989年〜1991年</ref><ref group="注">当時、[[マンハント]]の編集に3名、[[裏窓]]の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。[[須磨利之|須磨]]は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)当時の[[裏窓]]編集長は[[須磨利之]]で編集部員は滝本喜美と浦戸(私信to A)。</ref>。


1974年5月 にっかつ「花と蛇」で谷ナオミを縛る。にっかつ撮影所で台本を渡され一読した感想を率直に言えば「なんじゃこれは!」様式美のかけらも読み取ることができなかった。スタッフは30名を超えていた。「なめられたくないから、お互いに頑張ろうよ」と谷ナオミ。谷は日活には2年前にデビュー。当時の日活にはSMポルに対してある種の偏見。地下室の監禁されている谷の縛り方に対して、監督と決定的な意見の違い。監督はぐるぐる巻きしてくれと言う。浦戸は1本で縛らないとだめだと主張。「こんな下らない縛りをするために来たんじゃないぞ!」と言ってしまい場をしらけさす。その時谷が「あんた!言いすぎよ。プロならプロらしく監督の言うとおりになりなさいよ!」とぞっとする気迫で怒る。(「回想のにっかつ銀幕物語」12月号)
1961年(昭和36年)、[[久保書店]]入社後しばらくして、[[須磨利之|須磨]]に[[団鬼六|花巻京太郎]](=団)を紹介される<ref name="K"></ref>。


1974年、「生贄夫人」の制作。脚本は前回と同じ田中。8月下旬に初めて田中を紹介され、小沼と3人で縛りのことを相談。したがって、この映画では脚本段階から参加していた。東の浣腸シーンは気合いを入れて撮影。谷の排泄シーンはバナナで作る。リアルすぎて映倫がカット(「回想のにっかつ銀幕物語」2月号)。
1962年(昭和37年)9-10月、[[裏窓]]の編集長に[[濡木痴夢男]]が着任<ref name="A">私信 to A</ref><ref group="注">私信 to Aであるが1961年の記憶違いではないかと思われる。</ref>。


1974年、1974「花と蛇」と「生贄夫人」の間に、谷ナオミのファンの集いに参加し、2度縛る。付き人に東てる美がついてきた(「回想のにっかつ銀幕物語」2月号)。
1965年(昭和40年)頃、[[久保書店]]を退社し個人出版社『[[白竜社]]』を設立する。明治維新関係の本を出版<ref name="K"></ref><ref group="注">「坂本龍馬 海援隊始末記」などを出版しており、これは後に久保書店から再版されている。</ref>。


1977年、「貴婦人縛り壺」で久しぶりに「谷・小沼」コンビ。それまでに谷は6,7本のSMに出演していたが、それらの縛りは60半ばのフリーカメラマンA氏が担当。撮影中に勝手にスチールを撮影することで谷との間にトラブル。急遽撮影寸前に浦戸に依頼が来る。原稿をもらうのも寸前。谷もスターになり、谷のスケジュールにあわせて撮影が進行。田島はるかを知る。(「回想のにっかつ銀幕物語」6,7月号)。
1966年(昭和41年)11月、練馬区江古田のアパートを『[[白竜社]]』の事務所とする<ref name="A"></ref>。


1978年1月、 西村と初めて映画を作る。「黒薔薇夫人」。制作の結城良煕と脚本の桂千穂と西村で会い相談。その頃出版社でバイトしていた。田島を推薦した(「回想のにっかつ銀幕物語」2月号)。
1968年(昭和43年)1月、初めてプライベートで緊縛をおこなう<ref name="A"></ref>。
 
1968年(昭和43年)頃、フリーの編集者となる。南池袋に事務所をかまえる<ref name="A"></ref>。
 
1969年(昭和44年)、[[耽美館]]のSM耽美文学シリーズ<ref group="注">1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)に25冊出版されている。[[団鬼六]]、[[濡木痴夢男|飯田豊一・藤見郁]]などの名が連なる。</ref>の編集を担当し、[[芳賀書店]]から発行<ref group="注">最初は詩集の企画を持ち込んだところ、裏窓にいた経験に興味を持たれSM関連を担当。(Master "K"私信)</ref><ref name="K"></ref>。
 
1969年(昭和44年)、[[団鬼六]]が[[鬼プロ]]を発足し、外部メンバーとしてしばしば参加。
 
1970年(昭和45年)頃 富士五湖湖畔の[[団鬼六]]の別荘に10名ぐらいで遊びに行く。[[谷ナオミ]]をモデルにネズミ小僧の撮影を目黒の団鬼六邸でやろうと盛り上がる。その後、実際鬼六邸で撮影<ref name="sprit"></ref>。
 
1970年(昭和45年)7月に三浦三崎で宮下順子を縛る<ref name="sprit"></ref><ref group="注">これは[[SMキング]]1973年(昭和48年)年4月増刊号「緊縛の宴」に「漂泊の女」として出ている。([[マンボウ]]私信)</ref>
 
1971年(昭和46年)、[[団鬼六]]の『'''[[緊縛大全]]'''』([[芳賀書店]])の緊縛を担当。写真:[[篠山紀信]]、構成・イラストレーション:[[宇野亜喜良]]。
 
1974年(昭和49年)5月 [[山邊信雄]]から頼まれ<ref name="A"></ref><ref group="注">[[山邊信雄]]とは1970年前後に何度か顔を合わせていた。</ref>、にっかつ「[[花と蛇]]」で緊縛指導。主演は[[谷ナオミ]]<ref name="sprit"></ref><ref group="注">にっかつ撮影所で台本を渡され一読した感想を率直に言えば「なんじゃこれは!」様式美のかけらも読み取ることができなかった。スタッフは30名を超えていた。「なめられたくないから、お互いに頑張ろうよ」と[[谷ナオミ]]。[[谷ナオミ]]は日活には2年前にデビュー。当時の日活にはSMポルに対してある種の偏見。地下室の監禁されている[[谷ナオミ]]の縛り方に対して、監督と決定的な意見の違い。監督はぐるぐる巻きしてくれと言う。浦戸は1本で縛らないとだめだと主張。「こんな下らない縛りをするために来たんじゃないぞ!」と言ってしまい場をしらけさす。その時[[谷ナオミ]]が「あんた!言いすぎよ。プロならプロらしく監督の言うとおりになりなさいよ!」とぞっとする気迫で怒る。</ref>。以後、1988年まで46本余りのロマンポルノ作品の緊縛指導。
 
1974年(昭和49年) 、[[谷ナオミ]]のファンの集いに参加し、2度縛る。付き人に[[東てる美]]<ref name="sprit"></ref>。
 
1974年(昭和49年) 、「[[花と蛇]]」に続き「生贄夫人」の制作<ref name="sprit"></ref><ref group="注">脚本は前回と同じ田中。8月下旬に初めて田中を紹介され、小沼と3人で縛りのことを相談。したがって、この映画では脚本段階から参加していた。東の浣腸シーンは気合いを入れて撮影。[[谷ナオミ]]の排泄シーンはバナナで作る。リアルすぎて映倫がカット</ref>。
 
1974年(昭和49年) 、[[サスペンスマガジン]]に[[浦戸宏史]]の連載があるが、[[浦戸宏]]なのかもしれない。
 
1977年(昭和52年) 、「貴婦人縛り壺」の緊縛指導<ref name="sprit"></ref><ref group="注">久しぶりの「谷・小沼」コンビ。それまでに[[谷ナオミ]]は6,7本のSMに出演していたが、それらの縛りは60半ばのフリーカメラマンA氏が担当。撮影中に勝手にスチールを撮影することで[[谷ナオミ]]との間にトラブル。急遽撮影寸前に浦戸に依頼が来る。原稿をもらうのも寸前。[[谷ナオミ]]もスターになり、[[谷ナオミ]]のスケジュールにあわせて撮影が進行。田島はるかを知る。</ref>。
 
1977年(昭和52年) 、[[SUN&MOON]]の5号(11月)より編集に参加<ref group="注">編集に関しては素人の[[世田介一]]を助けるために、出版社が編集プロの浦戸の参加を乞うた。(Master "K"私信)</ref>。
 
1978年(昭和53年)、[[絃映社]]から[[マントピア]]増刊2月号として[[サンアンドムーン]]を発刊。編集人となる。誌名はやがて[[えすとえむ]]に変更。
 
1978年(昭和53年)1月、「黒薔薇夫人」で西村と初めて映画を作る<ref group="注">制作の結城良煕と脚本の桂千穂と西村で会い相談。その頃出版社でバイトしていた。田島を推薦した。</ref>。
 
1979年(昭和54年)、[[サンアンドムーン]]を[[えすとえむ]]に誌名変更して創刊。28号まで続く。
 
1979年(昭和54年)2月10日、[[林宗宏]]が創刊した『'''[[桃源郷]]'''』に『アヌス・フェティシズム』を寄稿。
 
1980年(昭和55年)、『[[Hey!Buddy]]』8月号に「俺は”縛り師”じゃあない!ロープマンだ!!」の特集記事。
 
1982年(昭和57年)、日活ビデオフィルムズから「SM本番生撮りビデオ~浦戸宏の世界」シリーズ5本<ref>[http://manbou0318.blog91.fc2.com/blog-category-10.html マンボウ資料館]</ref>。
 
1984年(昭和59年)夏頃、六本木'''[[シアタースキャンダル]]'''で9日間の『'''緊縛師大会'''』が開催された模様。最終日は[[美濃村晃]]が出演し、その指示に従い[[玉井敬友]]と[[浦戸宏]]が[[早乙女宏美]]と[[島田一枝]]を緊縛。[[美濃村晃]]夫人も同伴<ref name="sniper198411">[[S&Mスナイパー]]1984年(昭和59年)11月号</ref>。
 
1988年(昭和63年)頃、[[浦戸宏]]の『'''回想のにっかつ銀幕物語'''』が[[SMスピリッツ]]に断続連載。
 
2015年(平成27年)3月24日、『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/448087383X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=448087383X&linkCode=as2&tag=iq05-22 縛師: 日活ロマンポルノ SMドラマの現場]'''』を[[筑摩書房]]より出版。


==エピソード==
==エピソード==
*世田介一と同い年。
*大学時代は映画三昧の生活で、卒業に8年かかる<ref name="K"></ref>。
*元来編集者であったが、[[団鬼六]]よりが[[賀山茂]]の代理として緊縛を覚えてくれと頼まれ、緊縛を始める。[[団鬼六]]は写真集での[[賀山茂]]の緊縛指導料を浮かしたかった<ref name="K"></ref>。
*「実技・実践上の師匠は[[賀山茂]]ということになる。」<ref name="bakushi">[[浦戸宏]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/448087383X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=448087383X&linkCode=as2&tag=iq05-22 縛師: 日活ロマンポルノ SMドラマの現場]'''』([[筑摩書房]], 2015.3.24)</ref>。
*[[須磨利之]]から直接緊縛術を習ったことはないが、緊縛は[[須磨利之]]をめざし、手本とした<ref name="K"></ref>。
*[[SMキング]]の初期の頃、緊縛を手伝う<ref name="A"></ref>。
*鬼プロのメンバーというわけではないが、ゲストメンバーのような感じだった。鬼プロから給料をもらったことはない<ref name="A"></ref>。
*「にっかつ以前に鬼プロのからんだピンク映画で1,2度緊縛指導をしたが、どの映画だったか記憶にない。ミリオンがからんでいたような気もする」<ref name="A"></ref>。
*「緊縛指導」ではなく「ロープマン」という呼び方が好き。
*「緊縛指導」ではなく「ロープマン」という呼び方が好き。
*にっかつ以前にピンク映画で縛り係。
*にっかつで緊縛を担当した作品は「[[花と蛇]]」「生贄夫人」「団鬼六 貴婦人縛り壺」「団鬼六 黒薔薇夫人」「団鬼六 縄地獄」「団鬼六 薔薇の肉体」「団鬼六 縄化粧」「団鬼六 縄と肌」「団鬼六 花嫁人形」「堕靡泥の星 美少女狩り」「団鬼六 少女縛り絵図」「団鬼六 白衣縄地獄」「団鬼六 縄災夫人」「セックスハンター 性狩人」「団鬼六 薔薇地獄 」「団鬼六 OL縄地獄」「団鬼六 女秘書縄調教」「団鬼六 女秘書縄地獄」「団鬼六 女美容師縄飼育」「団鬼六 奴隷契約書」「団鬼六 黒髪縄夫人」「奴隷契約書 鞭とハイヒール」「団鬼六 蒼いおんな 」「団鬼六 少女木馬責め 」「縄と乳房」「団鬼六 蛇の穴 」「団鬼六 美女縄地獄<ref group="注" name="haruma">これらは記憶違いで、[[D・ハルマ]]が緊縛を担当した可能性がある(私信 to U from A)。</ref>」「団鬼六 美女縄化粧<ref group="注" name="haruma"></ref> 」「縄姉妹 奇妙な果実」「団鬼六監修 SM大全集」「団鬼六 修道女縄地獄 <ref group="注" name="haruma"></ref>」「団鬼六縄責め」「団鬼六 緊縛卍責め 」「[[花と蛇]] 地獄篇」「団鬼六 美教師地獄責め 」「[[花と蛇]] 飼育篇」「ザ・マニア 快感生体実験」「団鬼六 蛇と鞭」「[[花と蛇]] 白衣縄奴隷」「蘭光生 肉飼育」「団鬼六 生贄姉妹」「妖艶 肉縛り」「団鬼六 人妻なぶり」「赤い縄 果てるまで」「[[花と蛇]] 究極縄調教」「団鬼六 妖艶能面地獄」<ref name="K"></ref>。
*緊縛指導料金は、2-3週間の拘束で、初期で5万円、後期で25万円であった<ref name="K"></ref>。


==代表作==
==代表作==
[[画像:kinbakukyouzaiprint2.jpg|200px|thumbnail|[[浦戸宏]]『'''SM PLAY you can play S&M SM耽美文学別巻2'''』([[耽美館]], 1972)より]]
[[画像:kinbakukyouzai5.jpg|250px|thumbnail|[[浦戸宏]]監督『'''主婦水瀬しのぶの縛りと責め入門'''』([[にっかつ|日活ビデオフィルムズ]], 1982)より]]
===[[緊縛教材(印刷物)]]===
*SM新人会『'''[[SM PLAY you can play S&M]] SM耽美文学別巻2'''』([[耽美館]], 1972)([[浦戸宏]]編集)。
===[[緊縛教材]]===
*『'''主婦水瀬しのぶの縛りと責め入門''' 』(1982)(製作:[[にっかつ|日活ビデオフィルムズ]]、監督:[[浦戸宏]]、出演:[[水瀬しのぶ]])
===雑誌===
*浦戸宏『回想のにっかつ銀幕物語』[[SMスピリッツ]]1988年〜1991年に断続連載。
*浦戸宏『[[渡部好美]]特写記』[[SUN&MOON]]1977年12月号
*浦戸宏『SM映画作りのことなど』[[SUN&MOON]]1977年12月号
===書籍===
*SM新人会『'''[[SM PLAY you can play S&M]] SM耽美文学別巻2'''』([[耽美館]], 1972)([[浦戸宏]]編集)。
*( [[浦戸宏]]『'''銀幕浪漫 日活SMドラマの現場'''』<ref group="注">烏有書林から仮題『SMロマンポルノ 回想の日活銀幕物語』、改題『'''銀幕浪漫 日活SMドラマの現場'''』として2008年頃から出版準備が進んでいたが、何らかのトラブルで2012年4月に烏有書林が出版中止を決定。)</ref>)
* [[浦戸宏]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/448087383X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=448087383X&linkCode=as2&tag=iq05-22 縛師: 日活ロマンポルノ SMドラマの現場]'''』([[筑摩書房]], 2015.3.24)


===映画での緊縛指導===
*『'''花と蛇'''』(1974.06.22)(製作:[[にっかつ|日活]]、監督:[[小沼勝]]、脚本:田中陽造、原作:[[団鬼六]]、緊縛:[[浦戸宏]]、出演:[[谷ナオミ]] 坂本長利 石津康彦 藤ひろ子 あべ聖 八代康二 高橋明)
*『'''生贄夫人'''』(1974.10.26)(製作:[[にっかつ|日活]]、監督:[[小沼勝]]、脚本:田中陽造、緊縛:[[浦戸宏]]、出演:[[谷ナオミ]] [[東てる美]] 坂本長利 影山英俊 中平哲仟 高山千草 谷文太 庄司三郎 小見山玉樹)
*『'''団鬼六「黒い鬼火」より 貴婦人縛り壺'''』(1977.12.10)(製作:[[にっかつ|日活]]、監督:[[小沼勝]]、原作:[[団鬼六]]、緊縛:[[浦戸宏]]、出演:[[谷ナオミ]] 高木均 渡辺とく子 花上晃 志賀圭二郎 田島はるか)
*{{団鬼六 花嫁人形1979}}


==関連文献==
''その他多数''
「回想のにっかつ銀幕物語」
マンボウ資料館


===ビデオ===
*『'''SMの妖精・松川ナミの「奴隷ローソク責め」'''』(1982)(製作:[[にっかつ|日活ビデオフィルムズ]]、監督:[[浦戸宏]]、出演:[[松川ナミ]])
*『'''SMの妖精・松川ナミの「女囚磔 水責め」''' 』(1982)(製作:[[にっかつ|日活ビデオフィルムズ]]、監督:[[浦戸宏]]、出演:[[松川ナミ]])
*『'''主婦水瀬しのぶの縛りと責め入門''' 』(1982)(製作:[[にっかつ|日活ビデオフィルムズ]]、監督:[[浦戸宏]]、出演:水瀬しのぶ)
==引用文献==
<references/>
[http://manbou0318.blog91.fc2.com/ マンボウ資料館]
==注釈==
<references group="注"/>
==お役たちweb==
==お役たちweb==
<br>
*[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10426370039.html 映画における緊縛指導 〜その9〜 浦戸宏]
 


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浦戸宏 (1933- )
にっかつ映画撮影に関わっていた頃の浦戸宏。女優は麻吹淳子[1]

うらど ひろし、1933年(昭和8年)11月18日-。1960年代に「裏窓」の編集者でSMの世界に入り、その後もSM耽美文学シリーズなどを発行。また、鬼プロの緊縛写真集や1970年代のにっかつSM映画の多くの作品で緊縛を担当していた。

概略

緊縛師。編集者。20代後半に編集者として久保書店に入社し、須磨利之濡木痴夢男などと共に裏窓の出版に携わる。30代半ばで独立し個人出版社を起こし、1969年(昭和44年)から耽美館の企画として芳賀書店から多くのSM関係小説・写真集を出版する。この頃から、久保書店時代からの知り合いであった団鬼六と近くなり、鬼プロの準メンバーとしていろいろな製作活動に関与する。特に、団鬼六に依頼され、賀山茂に代わって、緊縛写真集の緊縛を担当したことが、編集者から緊縛師へと浦戸宏の軸足を変えることになる。1974年(昭和49年)には、谷ナオミにっかつ花と蛇」の緊縛を担当することになり、これを機会にその後のにっかつSM作品の多く(40数本)で緊縛師として活躍する。同時に、編集者としてはSUN&MOONサンアンドムーンえすとえむなど、世田介一の流れのSM雑誌の編集人として活躍した。

別名

浦戸宏史、Hiroshi Urado、読みは本来は「うらど」だが「うらと」と呼ばれることが多い[2]。増井(本名)[3]

略歴

1933年(昭和8年)11月19日、高知県生まれ[2]

1950年代、法政大学社会学部卒業。卒業後は教科書、児童書の編集者[2]

1961年(昭和36年)8月、「裏窓」(久保書店)の見習い編集者として友人の身代わりで面接に行き、それ以後四年ほど須磨利之の下で雑誌編集を教えられた[4][注 1]

1961年(昭和36年)、久保書店入社後しばらくして、須磨花巻京太郎(=団)を紹介される[2]

1962年(昭和37年)9-10月、裏窓の編集長に濡木痴夢男が着任[5][注 2]

1965年(昭和40年)頃、久保書店を退社し個人出版社『白竜社』を設立する。明治維新関係の本を出版[2][注 3]

1966年(昭和41年)11月、練馬区江古田のアパートを『白竜社』の事務所とする[5]

1968年(昭和43年)1月、初めてプライベートで緊縛をおこなう[5]

1968年(昭和43年)頃、フリーの編集者となる。南池袋に事務所をかまえる[5]

1969年(昭和44年)、耽美館のSM耽美文学シリーズ[注 4]の編集を担当し、芳賀書店から発行[注 5][2]

1969年(昭和44年)、団鬼六鬼プロを発足し、外部メンバーとしてしばしば参加。

1970年(昭和45年)頃 富士五湖湖畔の団鬼六の別荘に10名ぐらいで遊びに行く。谷ナオミをモデルにネズミ小僧の撮影を目黒の団鬼六邸でやろうと盛り上がる。その後、実際鬼六邸で撮影[4]

1970年(昭和45年)7月に三浦三崎で宮下順子を縛る[4][注 6]

1971年(昭和46年)、団鬼六の『緊縛大全』(芳賀書店)の緊縛を担当。写真:篠山紀信、構成・イラストレーション:宇野亜喜良

1974年(昭和49年)5月 山邊信雄から頼まれ[5][注 7]、にっかつ「花と蛇」で緊縛指導。主演は谷ナオミ[4][注 8]。以後、1988年まで46本余りのロマンポルノ作品の緊縛指導。

1974年(昭和49年) 、谷ナオミのファンの集いに参加し、2度縛る。付き人に東てる美[4]

1974年(昭和49年) 、「花と蛇」に続き「生贄夫人」の制作[4][注 9]

1974年(昭和49年) 、サスペンスマガジン浦戸宏史の連載があるが、浦戸宏なのかもしれない。

1977年(昭和52年) 、「貴婦人縛り壺」の緊縛指導[4][注 10]

1977年(昭和52年) 、SUN&MOONの5号(11月)より編集に参加[注 11]

1978年(昭和53年)、絃映社からマントピア増刊2月号としてサンアンドムーンを発刊。編集人となる。誌名はやがてえすとえむに変更。

1978年(昭和53年)1月、「黒薔薇夫人」で西村と初めて映画を作る[注 12]

1979年(昭和54年)、サンアンドムーンえすとえむに誌名変更して創刊。28号まで続く。

1979年(昭和54年)2月10日、林宗宏が創刊した『桃源郷』に『アヌス・フェティシズム』を寄稿。

1980年(昭和55年)、『Hey!Buddy』8月号に「俺は”縛り師”じゃあない!ロープマンだ!!」の特集記事。

1982年(昭和57年)、日活ビデオフィルムズから「SM本番生撮りビデオ~浦戸宏の世界」シリーズ5本[6]

1984年(昭和59年)夏頃、六本木シアタースキャンダルで9日間の『緊縛師大会』が開催された模様。最終日は美濃村晃が出演し、その指示に従い玉井敬友浦戸宏早乙女宏美島田一枝を緊縛。美濃村晃夫人も同伴[7]

1988年(昭和63年)頃、浦戸宏の『回想のにっかつ銀幕物語』がSMスピリッツに断続連載。

2015年(平成27年)3月24日、『縛師: 日活ロマンポルノ SMドラマの現場』を筑摩書房より出版。

エピソード

  • 大学時代は映画三昧の生活で、卒業に8年かかる[2]
  • 元来編集者であったが、団鬼六よりが賀山茂の代理として緊縛を覚えてくれと頼まれ、緊縛を始める。団鬼六は写真集での賀山茂の緊縛指導料を浮かしたかった[2]
  • 「実技・実践上の師匠は賀山茂ということになる。」[8]
  • 須磨利之から直接緊縛術を習ったことはないが、緊縛は須磨利之をめざし、手本とした[2]
  • SMキングの初期の頃、緊縛を手伝う[5]
  • 鬼プロのメンバーというわけではないが、ゲストメンバーのような感じだった。鬼プロから給料をもらったことはない[5]
  • 「にっかつ以前に鬼プロのからんだピンク映画で1,2度緊縛指導をしたが、どの映画だったか記憶にない。ミリオンがからんでいたような気もする」[5]
  • 「緊縛指導」ではなく「ロープマン」という呼び方が好き。
  • にっかつで緊縛を担当した作品は「花と蛇」「生贄夫人」「団鬼六 貴婦人縛り壺」「団鬼六 黒薔薇夫人」「団鬼六 縄地獄」「団鬼六 薔薇の肉体」「団鬼六 縄化粧」「団鬼六 縄と肌」「団鬼六 花嫁人形」「堕靡泥の星 美少女狩り」「団鬼六 少女縛り絵図」「団鬼六 白衣縄地獄」「団鬼六 縄災夫人」「セックスハンター 性狩人」「団鬼六 薔薇地獄 」「団鬼六 OL縄地獄」「団鬼六 女秘書縄調教」「団鬼六 女秘書縄地獄」「団鬼六 女美容師縄飼育」「団鬼六 奴隷契約書」「団鬼六 黒髪縄夫人」「奴隷契約書 鞭とハイヒール」「団鬼六 蒼いおんな 」「団鬼六 少女木馬責め 」「縄と乳房」「団鬼六 蛇の穴 」「団鬼六 美女縄地獄[注 13]」「団鬼六 美女縄化粧[注 13] 」「縄姉妹 奇妙な果実」「団鬼六監修 SM大全集」「団鬼六 修道女縄地獄 [注 13]」「団鬼六縄責め」「団鬼六 緊縛卍責め 」「花と蛇 地獄篇」「団鬼六 美教師地獄責め 」「花と蛇 飼育篇」「ザ・マニア 快感生体実験」「団鬼六 蛇と鞭」「花と蛇 白衣縄奴隷」「蘭光生 肉飼育」「団鬼六 生贄姉妹」「妖艶 肉縛り」「団鬼六 人妻なぶり」「赤い縄 果てるまで」「花と蛇 究極縄調教」「団鬼六 妖艶能面地獄」[2]
  • 緊縛指導料金は、2-3週間の拘束で、初期で5万円、後期で25万円であった[2]

代表作

浦戸宏SM PLAY you can play S&M SM耽美文学別巻2』(耽美館, 1972)より
浦戸宏監督『主婦水瀬しのぶの縛りと責め入門』(日活ビデオフィルムズ, 1982)より

緊縛教材(印刷物)

緊縛教材

雑誌

書籍

映画での緊縛指導

  • 花と蛇』(1974.06.22)(製作:日活、監督:小沼勝、脚本:田中陽造、原作:団鬼六、緊縛:浦戸宏、出演:谷ナオミ 坂本長利 石津康彦 藤ひろ子 あべ聖 八代康二 高橋明)
  • 生贄夫人』(1974.10.26)(製作:日活、監督:小沼勝、脚本:田中陽造、緊縛:浦戸宏、出演:谷ナオミ 東てる美 坂本長利 影山英俊 中平哲仟 高山千草 谷文太 庄司三郎 小見山玉樹)
  • 団鬼六「黒い鬼火」より 貴婦人縛り壺』(1977.12.10)(製作:日活、監督:小沼勝、原作:団鬼六、緊縛:浦戸宏、出演:谷ナオミ 高木均 渡辺とく子 花上晃 志賀圭二郎 田島はるか)
  • 団鬼六 花嫁人形』(にっかつ, 1979)(配給:にっかつ、製作:八巻晶彦、企画:奥村幸士、監督:藤井克彦、撮影;水野尾信正、原作:団鬼六、脚本:いどあきお、緊縛指導:浦戸宏、出演:倉吉朝子 志麻いづみ 宇南山宏 中原潤 草薙良一 庄司三郎 大平忠行 佐藤了一 高山千草 北川レミ)

その他多数

ビデオ

引用文献

  1. 麻吹淳子の本当の年齢は?
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 Master "K"からの"私信
  3. 『女優谷ナオミ:伝説のSM女王』西日本スポーツに1999年(平成11年)2月2日から10月ぐらいまで連載
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 浦戸宏『回想のにっかつ銀幕物語』SMスピリッツ1989年〜1991年
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 私信 to A
  6. マンボウ資料館
  7. S&Mスナイパー1984年(昭和59年)11月号
  8. 浦戸宏縛師: 日活ロマンポルノ SMドラマの現場』(筑摩書房, 2015.3.24)

マンボウ資料館

注釈

  1. 当時、マンハントの編集に3名、裏窓の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。須磨は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)当時の裏窓編集長は須磨利之で編集部員は滝本喜美と浦戸(私信to A)。
  2. 私信 to Aであるが1961年の記憶違いではないかと思われる。
  3. 「坂本龍馬 海援隊始末記」などを出版しており、これは後に久保書店から再版されている。
  4. 1969年(昭和44年)から1970年(昭和45年)に25冊出版されている。団鬼六飯田豊一・藤見郁などの名が連なる。
  5. 最初は詩集の企画を持ち込んだところ、裏窓にいた経験に興味を持たれSM関連を担当。(Master "K"私信)
  6. これはSMキング1973年(昭和48年)年4月増刊号「緊縛の宴」に「漂泊の女」として出ている。(マンボウ私信)
  7. 山邊信雄とは1970年前後に何度か顔を合わせていた。
  8. にっかつ撮影所で台本を渡され一読した感想を率直に言えば「なんじゃこれは!」様式美のかけらも読み取ることができなかった。スタッフは30名を超えていた。「なめられたくないから、お互いに頑張ろうよ」と谷ナオミ谷ナオミは日活には2年前にデビュー。当時の日活にはSMポルに対してある種の偏見。地下室の監禁されている谷ナオミの縛り方に対して、監督と決定的な意見の違い。監督はぐるぐる巻きしてくれと言う。浦戸は1本で縛らないとだめだと主張。「こんな下らない縛りをするために来たんじゃないぞ!」と言ってしまい場をしらけさす。その時谷ナオミが「あんた!言いすぎよ。プロならプロらしく監督の言うとおりになりなさいよ!」とぞっとする気迫で怒る。
  9. 脚本は前回と同じ田中。8月下旬に初めて田中を紹介され、小沼と3人で縛りのことを相談。したがって、この映画では脚本段階から参加していた。東の浣腸シーンは気合いを入れて撮影。谷ナオミの排泄シーンはバナナで作る。リアルすぎて映倫がカット
  10. 久しぶりの「谷・小沼」コンビ。それまでに谷ナオミは6,7本のSMに出演していたが、それらの縛りは60半ばのフリーカメラマンA氏が担当。撮影中に勝手にスチールを撮影することで谷ナオミとの間にトラブル。急遽撮影寸前に浦戸に依頼が来る。原稿をもらうのも寸前。谷ナオミもスターになり、谷ナオミのスケジュールにあわせて撮影が進行。田島はるかを知る。
  11. 編集に関しては素人の世田介一を助けるために、出版社が編集プロの浦戸の参加を乞うた。(Master "K"私信)
  12. 制作の結城良煕と脚本の桂千穂と西村で会い相談。その頃出版社でバイトしていた。田島を推薦した。
  13. 13.0 13.1 13.2 これらは記憶違いで、D・ハルマが緊縛を担当した可能性がある(私信 to U from A)。
  14. 烏有書林から仮題『SMロマンポルノ 回想の日活銀幕物語』、改題『銀幕浪漫 日活SMドラマの現場』として2008年頃から出版準備が進んでいたが、何らかのトラブルで2012年4月に烏有書林が出版中止を決定。)

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