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1982年(昭和57年)11月、『'''THE ONANIE'''』公開。
1982年(昭和57年)11月、『'''THE ONANIE'''』公開。
1984年(昭和59年)3月 、[[日本ビデオ映像]]の[[升水惟雄]]が独立して[[ジャパンホームビデオ]]を設立。[[代々木忠]]の作品販売もも[[日本ビデオ映像]]から[[ジャパンホームビデオ]]に移る<ref name="‎#AVKakumeishi">[[藤木TDC]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4344981251?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4344981251 '''アダルトビデオ革命史''']』([[幻冬舎]], 2009)</ref>。


1988年(昭和63年)、劇場公開作から撤退し、ビデオ作品に専念。
1988年(昭和63年)、劇場公開作から撤退し、ビデオ作品に専念。
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2010年(平成22年)11月、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』(2010, 監督:石岡正人)が第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門に出品される。
2010年(平成22年)11月、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』(2010, 監督:石岡正人)が第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門に出品される。
2021年(令和3年)8月、引退宣言<ref>[https://www.news-postseven.com/archives/20210827_1686836.html?DETAIL 巨匠・代々木忠監督が突然の引退宣言「コロナ禍ではもう撮れない」]</ref>


==エピソード==
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2021年8月28日 (土) 15:47時点における最新版

よよぎ ただし、1938年(昭和13年)3月18日-

概要

AV監督。映画監督。1960年代のピンク映画全盛期に、非映画畑出身者として映画界に参入。やがて日活の委託による作品を製作するプリマ企画で、ドキュメントタッチの独自の作風で注目を集める。日活ポルノ裁判の被告として法廷闘争を繰り広げた人物でもある。1974年(昭和49年)には自身のワタナベプロを設立し、山本晋也中村幻児などの監督作品を数多く製作した。1981年(昭和56年)には、ビデオ作品の製作会社アテナ映像を設立。ピンク映画時代のドキュメントタッチの作風をさらに先鋭化させ、『ザ・オナニー』シリーズなどのヒット作を次々に発表し、リアリズム作品としてのAVの方向付けをした仕掛人の一人としてみなされる。1983年(昭和58年)には長田英吉出演による『ザ・ドキュメント オーガズム』、翌年には根暗童子のドキュメント作品を製作している。2010年(平成22年)には、かつて助監督であった石岡正人による、代々木忠のドキュメント作品、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』が制作された。

別名

Tadashi Yoyogi、渡邊輝男(本名)、佐々木忠、渡辺忠

略歴

1938年(昭和13年)3月18日、北九州小倉に誕生。父親は製紙会社の研究所に勤務。祖母は大工の棟梁[1]

1941年(昭和16年)頃、母親が盲腸の誤診で死亡。妹と共に母方の親戚を渡り歩く[1]

1943年(昭和18年)頃、父方の実家に落ち着く[1]

1945年(昭和20年)、終戦後まもなく父親が再婚し、小倉の実家に戻りいろいろな商売をするが、いずれもうまくいかず[1]

1950年代、定時制の高校に入るが、荒れた生活。サブちゃんというヤクザと知り合いになる。警察の副所長の子供に大けがをさせ、警察に目をつけられる生活[1]

1956年(昭和31年)、大阪に移り、花屋の店員をしながら華道の師範資格を取得[2]

1961年(昭和36年)、結婚するがすぐに離婚。小倉に戻りやくざとなる[2]

1964年(昭和39年)、組の三代目を襲名[2]。30人ぐらいの組で、採石場とストリップの全国興行を仕切る[1]

1965年(昭和40年)、指をつめ任侠道から足を洗い、上京[2]。小倉から3人の踊り子を連れて上京し、ヒモのような生活[1]ピンク映画ワールド映画に入社[注 1]

1967年(昭和42年)、ピンク映画の助監督。真湖道代と結婚[2]

1971年(昭和46年)、プリマ企画に入社[2]

1971年(昭和46年)8月、日活がラブホテル用「U規格」のポルノ作品を代々木忠などピンク映画系製作会社に発注し月産4作品で発表[注 2]

1972年(昭和47年)1月、代々木忠演出の日活作品「火曜日の狂楽」「ワイルドパーティ」が摘発[注 3][3]

1972年(昭和47年)1月、日活ロマンポルノが警視庁に摘発[注 4]梅沢薫監督『女高生芸者』も摘発対象となり、製作責任者として代々木忠が被告に。

1972年(昭和47年)、『ある少女の手記・快感』で監督デビュー。その後も外注先として映画製作。

1974年(昭和49年)、ワタナベプロを設立[2][注 5]

1976年(昭和51年)、タレント事務所「アクトレス」を設立。愛染恭子を所属タレントに。

1981年(昭和56年)12月、鬼闘光たちとアテナ映像を設立。ビデオ作品『愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき』『ドキュメント・ザ・オナニー』がヒット。ロイヤリティ形式の契約での初の作品。

1982年(昭和57年)8月、日本初のキネコ作品、『華麗なる愛の遍歴 愛染恭子』を公開。

1982年(昭和57年)11月、『THE ONANIE』公開。

1984年(昭和59年)3月 、日本ビデオ映像升水惟雄が独立してジャパンホームビデオを設立。代々木忠の作品販売もも日本ビデオ映像からジャパンホームビデオに移る[4]

1988年(昭和63年)、劇場公開作から撤退し、ビデオ作品に専念。

2006年(平成18年)、アテナ映像の代表取締役を退き、監督業に専念。

2010年(平成22年)11月、『YOYOCHU SEX と代々木忠の世界』(2010, 監督:石岡正人)が第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門に出品される。

2021年(令和3年)8月、引退宣言[5]

エピソード

  • 第60回「代々木忠×週刊実話」で「SM調教師の根暗童子に撮影を申し入れた際、『調教は女の子の心理状態もあるので、たとえば1週間の間に、私は私の好きなときにやるが、それでもよければ』と言われた。僕らは、いつ彼が行動を起こしてもいいように、1週間現場に泊まり込み、24時間だれかが寝ずの見張りをした。この体験が『仕掛けて待つ』というドキュメントの手法を僕に教えたのだと思う。」と回顧している。

代表作

映画

AV

書籍

引用文献

注釈

  1. 一部、1963年(昭和38年)との記述もある。
  2. 、この段階ではまだビデオカメラではなく、機動性に優れていた16mmカメラが用いられていた
  3. 一審無罪、二審有罪・罰金20万円。
  4. 1980年(昭和55年)最高裁で無罪確定。
  5. 日活の下請会社。山本晋也の痴漢シリーズや未亡人シリーズでヒット。一部には1976年(昭和51年)設立の記述もあり。
  6. 第5回ローマ国際映画祭EXTRA部門出品
  7. Part 1〜7。
  8. 『好奇心2』の元となる作品。
  9. 『好奇心』の上映が終了してから約1年後の1985年秋に、再映するにあたりビデオ作品「梨花の排泄日記」を劇場公開向けに再編集し「好奇心2」として、「好奇心」とあわせて上映した。上映後、「好奇心2」は、アテナ映像からビデオ化され発売された。

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