「濡木痴夢男」の版間の差分

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===書籍===
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*『緊縛の美・緊縛の悦楽 』(1995, 河出文庫)
*『緊縛の美・緊縛の悦楽 』(1995, 河出文庫)
*『日本緊縛写真史 1』 (秋田 昌美、不二 秋夫と共著。1996, 自由国民社)
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4426738008?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4426738008 秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)]
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474160?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474160 濡木痴夢男『実録 縛りと責め』 (河出書房新社, 2001)]
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474160?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474160 濡木痴夢男『実録 縛りと責め』 (河出書房新社, 2001)]
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474497?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474497 濡木痴夢男『性の秘本 責めと愉悦』(河出書房新社, 2003)]
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309474497?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309474497 濡木痴夢男『性の秘本 責めと愉悦』(河出書房新社, 2003)]

2009年12月12日 (土) 20:41時点における版

ぬれき ちむお、1930年(昭和5年)-

活動内容

緊縛師、文筆家、編集者。

別名

Chimuo Nureki, 飯田豊一(本名)、青山三枝吉(奇譚クラブ、風俗奇譚)、藤木仙治(奇譚クラブに映画スチールを提供、サスペンスマガジン)、藤見郁(奇譚クラブ、風俗奇譚、SM奇譚、裏窓、SMセレクト他)、飯田豊吉(裏窓に官能サスペンス)、赤木恵介、市川国彦、影村一鬼、白鳥大蔵、塔婆十郎、藤木仙冶、真木不二夫(奇譚クラブの「黄色オラミ誕生」で有名)、目黒天平、矢桐重八(奇譚クラブにエッセイ)、豊田一狼、北園透一郎、松平荘司、南村蘭、ホーハンター、若杉薫、早蕨亮太、曲二十八、豊幹一郎稲田乾二[注 1]

略歴

誕生〜青年時代

1930年(昭和5年)、浅草に生まれる。3代続いての浅草育ち。

1945年(昭和20年)、亀有駅近くにある鶴亀劇場(映画館を改造した小さな芝居小屋)で市川福之助という女形歌舞伎役者の弟子となる。

奇譚クラブ時代

1953年(昭和28年)頃、東京のデザイン会社から名古屋に派遣。アパレル関係の宣伝雑誌[注 2]を制作。この頃奇譚クラブを知る[1]

1953年(昭和28年)、『悦虐の旅役者』が奇譚クラブ11月号に採用[注 3]。ペンネームは青山三枝吉。

1953年(昭和28年)頃、 鈴本演芸場での『火あぶり』の公演時に、伊藤晴雨を目撃。

1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号が発禁処分。真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(八木静男挿絵)の内容が問題となり発売4日後に発禁[1]

裏窓時代

1957年(昭和32年)、赴任先の名古屋から東京に戻る。戻る少し前に松坂屋の本屋で『裏窓』を見つけ、喜多玲子の名を見つける[1]

1957年(昭和32年)12月、『青い顔の男』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』に掲載[注 4]。その後、奇譚クラブ裏窓に並行して投稿。

1958年(昭和33年)、『血まみれ観音像』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』1月号に、『血まみれマリー』が藤見郁のペンネームで5月号に掲載。

1958年(昭和33年)、須磨から執筆依頼され、『地獄の乳房』を5月号〜9月号に連載。これを機にプロに転向。

1958年(昭和33年)頃、須磨と共に「緊縛プレイ」の実践。相手は、深井俊彦が支配人をつとめる新宿ミュージックホールの踊り子[注 5]

1958年(昭和33年)頃、団鬼六氏と初対面[注 6]

1959年(昭和34年)、吉田に依頼され、『乳房に火をつけるな』を藤木仙治の名前で奇譚クラブ100号突破懸賞として投稿[注 7]

1960年(昭和35年)、吉田奇譚クラブの東京進出と編集長の打診を受ける。

1961年(昭和36年))、裏窓1962年(昭和37年))1月号から須磨の後を継いで編集長に。

1964年(昭和39年))、裏窓1965年(昭和40年))1月号で裏窓が廃刊。サスペンスマガジンをへと続く。

1968年(昭和43年))、奇譚クラブへの投稿再開。

1969年(昭和44年))、須磨と共に久保書店を去る[1]

1970年(昭和45年))、須磨と共に虻プロを立ち上げあぶめんとの編集長に。社長は須磨[1]。同年9月にあぶめんとは廃刊。

緊縛師時代

2000年代

エピソード

代表作

書籍

映画

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 中原るつ『濡木痴夢男ののう1つの顔』 濡木痴夢男『緊縛★命あるかぎり』(河出書房新社, 2008)のあとがき。]

注釈

  1. 1.0 1.1 豊幹一郎稲田乾二は緊縛が濡木痴夢男、カメラが枷井克哉、カメラアシスタントが不二秋夫の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体(日本緊縛写真史より)。
  2. 中原は『緊縛★命あるかぎり』のあとがきで、日本発のPR誌と位置づけ。
  3. 喜多玲子の挿絵を強く希望していたが、須磨利之が離脱したあとだったためにかなわず。代わりに都築峰子が挿絵。
  4. 「東京に戻る列車の中で執筆」とある(「緊縛命ある限り」あとがき中原るつ)。
  5. 「ときどき深井自身もその「緊縛プレイ」に参加した。」(おしゃべり芝居、20回)
  6. 須磨に連れられ団氏の自宅を訪問。新橋とか、銀座の酒場でも、数回ごちそうになった。「縄」に対する関心がないことがわかり、行きたがる美濃村の誘いを断りがち。
  7. 吉田に依頼」にあろうように出来レース。四馬孝の絵をつけることを提案されたが拒否して自作コラージュ。
  8. 8.0 8.1 マンボウ資料館』より。

つながり

須磨利之 枷井克哉 不二秋夫 深井俊彦

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