昭和SMの歴史
古い時代
1683年(天和3年)、中山勘解由が「海老責」を考案[1]。
1686年(貞享3年)、井原西鶴が『好色五人女』で「八百屋お七」の事件[注 1]を取り上げる。
1717年(享保2年)、「八百屋お七」の事件を文楽にした紀海音『八百屋お七恋緋桜』がヒット。
1730(享保5年)、狂言の絵入台本集『狂言記 拾遺篇』に紹介されている『棒縛り』では太郎冠者が天秤棒担ぎ縛りにされ、次郎冠者は後手縛りに。
1740年(元文五年)、並木宗輔作『鶊山姫捨松』の三段目『中将姫雪責の段』
1746年(延享3年)、竹田出雲・三好松洛・並木千柳の文楽『菅原伝授手習鑑』で老女方の覚寿が苅屋姫を杖でせっかん。
1772年(安永元年)、新内『明烏夢泡雪』。
1773年(安永2年)、捕縄術の一派『鏡新明智流』の道場が日本橋に「士学館」として開館。
1775年(安永4年)、1727年に大岡越前の捌きで死罪となった「白子屋お熊(駒)[注 2]」の実話から文楽の松貫四・吉田角丸合作『恋娘昔八丈』が生まれる。
戦前
1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での『日清戦争・夜討之仇譚』の看護婦の拷問シーンが話題となり、同種の拷問芝居がブームになる[2][3][注 3]。
1897年(明治30年)4月、歌舞伎座での大口屋暁雨『侠客春雨傘』でせっかん場面。九代目市川團十郎で大ヒット。
1919年(大正8年)12月、伊藤晴雨が佐原キセをモデルに雪責めの写真。
1920年代?、浅草観音劇場で曾我廼家五九郎が『人肉の市』を舞台化[4][5]。
1921年(大正10年)6月、伊藤晴雨が佐原キセをモデルに『臨月の夫人の逆さ吊り写真』。
1921年(大正10年)、鈴木泉三郎が伊藤晴雨をモデルとした『火あぶり』を発表。
1925年(大正14年)夏、伊藤晴雨が責め専門の劇団を設立。
1928年(昭和3年)、伊藤晴雨が『責の研究』を発刊。
昭和20年代(1945年〜1954年)
1947年(昭和22年)1月1日、帝都座五階劇場のオープンとして『ヴィナスの誕生』公演。ストリップの源泉ともいわれる。
1947年(昭和22年)5月、『猟奇』第4号に伊藤晴雨『虐げられたる日本婦人』。
1947年(昭和22年)10月、『奇譚クラブ』創刊。カストリ雑誌時代の奇譚クラブである。
1948年(昭和23年)10月、遅くとも奇譚クラブ通巻9号から須磨利之、辻村隆が登場。
1949年(昭和24年)12月、『讀切ロマンス』創刊。
1951年(昭和26年)暮、百万弗劇場での伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』が大ヒット。
1951年(昭和26年)2月、高橋鐵の『あまとりあ』が創刊。
1952年(昭和27年)、讀切ロマンス2月号に緊縛写真が登場。
1952年(昭和27年)、奇譚クラブ5・6月号からB5版からA5版へと変わり、内容も次第にSMを中心としたものに変わっていく。奇譚クラブの分譲写真の開始に相当する『裸婦肉体美写真実費分譲』の案内。「責められる女各態」とある。
1953年(昭和28年)6月4日、伊藤晴雨「責めの劇団」の第1回公演が市川鈴本で。
1953年(昭和28年)7月、『風俗草紙』創刊。
1953年(昭和28年)、奇譚クラブ11月号に濡木痴夢男が登場。
1954年(昭和29年)2月15日、風俗科斈第2巻第2号に上田青柿郎の分譲写真の案内「耽美派通信」。