杉浦則夫
すぎうら のりお 1942年(昭和17年)4月9日-
概要
いわゆる「昭和SM写真」と称される陰影の強い独特の様式を完成させた写真家。劇団ひとみ座の大道具係を経験後、1967年(昭和42年) 頃、浅草の名門ストリップ劇場、東洋劇場進行係・照明係に就く。1971年(昭和46年)には団鬼六の鬼プロに参加し、たこ八郎と共にピンク実演の制作やピンク映画の助監督を担当。その後、鬼プロが1972年(昭和47年)にSMキングを発刊した頃から、写真家として活動を開始し、70年代中頃に写真家として独立する。司書房の「SMファン」、東京三世社のSMセレクト、小説SMセレクトなどのメインカメラマンとして活躍し、特に1974年(昭和49年)8月から始まる濡木痴夢男とのコンビで、昭和SM写真の典型的なスタイルを確立する。1982年(昭和57年)からは三和出版のSMマニア、SM秘小説、マニア倶楽部などに中心活動場所を移し、2002年(平成14年)頃からはインターネットを通じた作品発表にも力を入れている。
別名
Norio Sugiura、杉浦則文[注 1][1]。
略歴
1942年(昭和17年)4月9日、名古屋生まれ[2]。
1963年(昭和38年)頃、デザイン専門学校に進むが中退。劇団ひとみ座[注 2]に大道具として入団[3][4]。
1967年(昭和42年) 頃、兄の紹介で浅草東洋劇場の進行係・照明係[注 3][4]。
1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場の閉鎖の後、たこ八郎から団鬼六を紹介され鬼プロに参加[注 4]。たこ八郎が中心のピンク実演の第1回目の制作に関わる。鬼プロは渋谷区桜ヶ丘のAGアパートにあった[4]。
1971年(昭和46年)頃、本木荘二郎が監督する鬼プロのピンク映画[注 5]の制作に、田代幸三と共に助監督として参加。3本ほど制作[注 6][3][4]。
1972年(昭和47年)、SMキングの編集に参加し写真撮影技術を深めて行く[注 7][注 8]。
1973年(昭和48年)、SMキング別冊、『辻村隆の世界』に始めて緊縛写真が掲載[注 9][4]。
1970年代後半、写真家として独立[注 10]。
1974年(昭和49年)8月4日、司書房の撮影で濡木痴夢男と初の仕事。撮影場所はけごん旅館でモデルはトンボ[5]。
1975年(昭和50年)1月25日、東京三世社の撮影を「けごん旅館」にて。濡木痴夢男と。(これがおそらく杉浦則夫の東京三世社での初仕事)。
1982年(昭和57年)春頃、浅田昌弘の司書房から三和出版への独立に行動を共にする。「SMマニア」「SM秘小説」などの三和出版を中心に仕事をするようになる。
1980年代前半、アシスタントに橋本成喜。橋本成喜の独立後、入れ替わり不二秋夫が1年程アシスタントに[6]。
1980年代後半、濡木痴夢男のコンビが少なくなり、麻来雅人などの緊縛師と組む[6]。
1990年(平成2年)、株式会社杉浦則夫写真事務所設立。
2002年(平成14年)10月、HP「公式電網雑誌」を麻来雅人と共に立ち上げる[4]。ムーンネット株式会社。
2005年(平成17年)、「公式電網雑誌」は6月に閉鎖。7月から(株)杉浦則夫写真事務所から「杉浦則夫緊縛桟敷」を立ち上げる。
2007年(平成19年)、久しぶりの濡木痴夢男とのコンビ撮影。
2010年(平成22年)、奈加あきら、長田スティーブ、志摩紫光らとのコンビが多くなる。
2012年(平成24年)10月9日〜21日[注 11]、ギャラリー新宿座で初の個展『杉浦則夫写真展 女、裸、縄〜感じいるもの〜』。
エピソード
- SMセレクト上に、杉浦則文の名前は遅くとも1975年(昭和50年)の7月号に出てくる(グラビア『七夕の育』)。同号には濡木痴夢男の『星まつりの虜囚』がある。同年11月号の杉浦則文のグラビア『家庭訪問』が濡木痴夢男の縛りのように見える。(1976年(昭和51年)11月号の「撮影同行記」を確認必要)[1]。
- 須磨利之の緊縛写真を撮る機会はなかった[4]。
- 80年代は濡木痴夢男との仕事が主であったが、志摩紫光などとも仕事をした。若い世代では麻来雅人など。明智伝鬼、雪村春樹とはそれぞれ1回だけ仕事をしたことがある[3]。その他、ダーティ工藤、奈加あきら、狩野千秋、長田スティーブ、遥美沙樹などが杉浦と一緒に仕事をしている。
- 谷ナオミとはSMキング時代から懇意にしたが、谷の写真は撮ったことがない[3]。
- 杉浦則夫のもとでアシスタントを経験してその後独立した写真家には、不二秋夫、井上一馬、橋本成喜、国吉紀行などがいる。
- 伊勢屋質店を撮影によく使っている。
代表作
映画
写真集
書籍
- 『孤高のSMカメラマン」in 菅野久美子『アダルト業界のすごいひと』(彩図社, 2010)
引用資料
注釈
- ↑ SMセレクト1975年(昭和50年)7月号、および10月号にこの名前が使われている。次に登場する1976年8月号では「杉浦則夫」となっている。
- ↑ ひょっこりひょうたん島で有名な人形劇団。1963年11月から1年間TBS系で放映された『伊賀の影丸』の制作に携わっていた。
- ↑ 杉浦の兄は既に浅草東洋劇場にいた
- ↑ たこ八郎とは浅草時代に知り合っていた。たこ八郎は浅草の舞台には出ていた記憶はない。彼の芝居も観たことはなかった(私信 to U)。
- ↑ 『白い乳房の戦慄』(1970.4)(製作:鬼プロ、配給=ミリオン、監督:安芸敬三、脚本:団鬼六、出演:辰巳典子)の可能性あり。ただし年は1970年になる。
- ↑ 本木荘二郎が黒澤のプロデューサーであったことは田代幸三も教えてくれなかったので、2010年まで知らなかった。お酒好きの優しいおじさんで、可愛がってもらった(私信 to U)。
- ↑ SMキング時代は、メインは写真の編集であったようだ(Kinbakujoeインタビュー)。
- ↑ 鬼プロはこの頃にはピンク実演、ピンク映画は手を引いていた。
- ↑ 『倒錯の世界』の間違いか?確認中。全ての写真ではなく、一部が杉浦の作品。編集は杉浦と中原研一。
- ↑ SM写真を集中的に撮り始める前に、1,2年一般エロ写真を撮影していた。
- ↑ 急遽会期を28日まで1週間延長。