「メリー松原」の版間の差分
提供:SMpedia
編集の要約なし |
(→略歴) |
||
18行目: | 18行目: | ||
1948年(昭和23年)2月、[[秦豊吉#.E7.95.A5.E6.AD.B4|浅草ロック座]]でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」で[[メリー松原]]が浅草デビュー<ref name="inoue">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4890361235?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4890361235 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)]</ref>。 | 1948年(昭和23年)2月、[[秦豊吉#.E7.95.A5.E6.AD.B4|浅草ロック座]]でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」で[[メリー松原]]が浅草デビュー<ref name="inoue">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4890361235?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4890361235 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)]</ref>。 | ||
1953年(昭和28年)5月、[[日劇ミュージックホール]]にて「地球を跨ぐ姫君たち」公演。 | |||
1976年(昭和51年)10月、[[ニューセルフ]]11月号に「[[シアタースキャンダル]]」が10月1日よりタレント養成学校『六本木ショー・スタジオ』を開校するとの情報。講師は樋口四郎(ダンス)、[[メリー松原]](ダンス)、西村昭五郎(演技指導)、松本孝(文学・共用)、[[原榮三郎]](フォト・ポーズ)。 | 1976年(昭和51年)10月、[[ニューセルフ]]11月号に「[[シアタースキャンダル]]」が10月1日よりタレント養成学校『六本木ショー・スタジオ』を開校するとの情報。講師は樋口四郎(ダンス)、[[メリー松原]](ダンス)、西村昭五郎(演技指導)、松本孝(文学・共用)、[[原榮三郎]](フォト・ポーズ)。 |
2014年7月31日 (木) 14:08時点における版
めりー まつばら、1928年(昭和3年)[注 1]-
概要
ストリップ創世記のスター。
別名
略歴
1928年(昭和3年)頃、東京下谷に生れる[1]。
精華高女卒。貴族院速記課にタイピストとして勤務[1]。
アーニーパイル劇場[注 2]の専属舞踊団第一期研究生に採用[2]。
1947年(昭和22年)頃、NHKの前の飛行館の裏当たりの観光ホテルで、メリー松原が秘密ショーをやった[3]。
1948年(昭和23年)2月、浅草ロック座でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」でメリー松原が浅草デビュー[4]。
1953年(昭和28年)5月、日劇ミュージックホールにて「地球を跨ぐ姫君たち」公演。
1976年(昭和51年)10月、ニューセルフ11月号に「シアタースキャンダル」が10月1日よりタレント養成学校『六本木ショー・スタジオ』を開校するとの情報。講師は樋口四郎(ダンス)、メリー松原(ダンス)、西村昭五郎(演技指導)、松本孝(文学・共用)、原榮三郎(フォト・ポーズ)。
エピソード
- 永井荷風のお気に入り。
- 日劇ミュージックホールの1927年頃の3大スターは伊吹マリ、メリー松原、ヒロセ元美と言われた[2]。
- 「有名女子高を卒業し、国会の貴族院で秘書を勤めたという経歴」をもつとも言われているが真偽は定かで無ない。
代表作
映画
- 『プーサン』(東宝, 1953)
- 『社長太平記』(東宝, 1959)
- 『女蕩し』(新東宝, 1964)
印刷物
- 田中小実昌、吉村平吉、メリー松原、正邦乙彦、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
- 「ストリップの女王から30年 メリー松原いま50才の新妻讃歌」『女性自身』昭和54年7月12日号