「オサダ・ゼミナール」の版間の差分
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2020年2月23日 (日) 13:20時点における版
長田英吉がSM劇として開始。76年に玉井敬友により表舞台に。GSG企画、SAMM、ブルーシャトー、ストリップ劇場と広がり、SMショー確立。
概要
長田英吉が1960年代後半(要確認)に開始したSMサークル。第1回目が阿佐ヶ谷のアルス・ノーヴァでSM実験劇として催され、その後、定期的に場所を変えて開催されている。70年代に入ると、玉井敬友や桜田伝次郎の劇団舞台で開催され、SMショー・ブームの原動力となっていった。長田英吉の死後、長田一美が後を継ぐ。
別名
長田ゼミ。長田ゼミナール
事務所
東京都港区新橋6-20-8和光社(少なくとも1975以前、1999年10月9日まで)
東京都豊島区東池袋2-62-8 1F (2002年頃)
歴史
1960年代後半(要確認)、第1回目が阿佐ヶ谷のアルス・ノーヴァでSM実験劇として開催。
1975年(昭和50年)、館淳一が長田英吉を取材。この時既に名刺には「オサダ・ゼミナール 和光社 長田英吉」とあった[1]。
1976年(昭和51年)春、大阪から東京に進出してきた玉井敬友に乞われ、六本木「シアタースキャンダル」の事務所でオサダ・ゼミナールの会合を半年ほど開催[2][注 1]。
1977年(昭和52年)9月、SMセレクト9月号にオサダ・ゼミナールのアルス・ノーヴァでの公演の観劇レポート。出演は長谷恵子。
1978年(昭和53年)、道頓堀劇場に出演。制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得。
1978年(昭和53年)頃、オサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が『緊縛秘戯』(エドプロ, 不明)に特集されている。
1979年(昭和54年)10月、SMクラブ1979年(昭和54年)10月号に「異色劇団オサダ・ゼミナール」の広告。
1980年(昭和55年)頃、SAMMで定期的(週に何回か、8時と10時)にショーをやっていた模様。この頃、花真衣が長田英吉のショーパートナーとして参加[3]。
1980年(昭和55年)10月、道頓堀劇場でのオサダ・ゼミナールの公演を川上譲治が観に行っている[4]。
1980年(昭和55年)頃、桜田伝次郎のGSG企画スタジオでオサダ・ゼミナールの会合を開く。黒川真由美などのGSG企画の女優をモデルに[2]。
1981年(昭和56年)1月8日、葵マリの赤坂ブルーシャトーでの定例ショーに出演[注 2]。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[5][注 3]。
1982年(昭和57年)、根暗童子とラー企画所属のモデルで地方公演[6]。
1986年(昭和61年)1月1日−10日、新宿モダンアート劇場で長田ゼミナール公演。
1986年(昭和61年)、早乙女宏美とショーを開始[6][注 4]。
1988年(昭和63年)4月1日-10日、若松劇場にて早乙女宏美 VS 長田ゼミナール[7]
1989年(平成元年)12月、鶴見新世界劇場で引退興行。
1997年(平成9年)5月11日、オサダ・ゼミナールの「縛りのプロローグ」スペシャルバージョンが大塚で開催。早乙女宏美の切腹ショー、長田英吉&如月志乃[8]。
1997年(平成9年)6月14日と19日、若松劇場にて「長田ゼミナール」。出演:長田英吉、早乙女宏美[9]。
1997年(平成9年)8月21日〜30日、ショーアップ大宮にて『長田ゼミナール&早乙女宏美』[9]。
1997年(平成9年)10月21日、「SM塾オサダ・ゼミナール」のHP開設。
1997年(平成9年)10月21日〜30日、鶴見新世界にて早乙女宏美 (長田ゼミナール)[9]。
1999年(平成11年)7月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:早乙女宏美、いずみゆきこ、小沢一美(交代で)[9]。
2000年(平成12年)4月、STUDIO SIXでオサダ・ゼミナールを開催。9月まで続く。
2000年(平成12年)、MISTRESSでオサダ・ゼミナール開催。
2000年(平成12年)2月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:小沢一美[9]。
2001年(平成13年)9月12日、長田英吉が永眠。
2002年(平成14年)、長田一美がオサダ・ゼミナールで緊縛講習会開催。
2004年(平成16年)1月22日、ロフトプラスワンにてSM塾オサダ・ゼミナールPresents 「縛りのプロローグ」緊縛師・長田英吉をたどる」【出演】長田一美&みい、夜羽エマ、みのわひろお、鬼塚隆文、ジョウジ川上
トピックス
- オサダ・ゼミナールがいつスタートしたかについては不明である。FOCUSには1977年(昭和52年)に始まったと書いている。また「59年にちょいとジケンがあって目下開店休業中」とある[10]。
- 少なくとも、1980-1996年の連絡先は東京都港区新橋6-20-8和光社となっている。
- エドプロ発行の『緊縛秘戯』には1978年(昭和53年)のオサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が特集されている。そこには「演劇活動を毎月定期公演として持ち」「撮影会は、舞台が終わってから会員希望者にのみ」「S・M愛好会『オサダ・ゼミナール後援会』も発足し、会員数は三十人前後、三十代から五十代の男性がほとんど」とある。
- 1980年(昭和55年)夏頃、早川佳克は佐渡魔造に連れられ大塚で開催されていた「長田ゼミナール」に参加し、そこで観客として来ていた関和子と知り合う。商社の役職だった夫を病気で失った直後[11]。
- BIZARRE MAGAZINE(日)1999年(平成11年)No.47にオサダ・ゼミナールが紹介。
- 花真衣の思い出によると「長田さんのショーは喜多郎の音楽で始まり、雷が鳴ると首輪をつけたM女を引きつれた長田さんが登場。最後は回転磔台に拘束し、長田さんが少し離れたところから叫びながら近づき、鞭でメチャクチャ叩いて終わる。」[3]
引用文献
- ↑ 館淳一 Facebook, 2015/1/7
- ↑ 2.0 2.1 長田英吉『私のSM遍歴』SMマニア1996年(平成8年)8月号〜12月号
- ↑ 3.0 3.1 花真衣私信 to U, 2012.2.7
- ↑ 川上譲治『さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
- ↑ 葵マリー『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)
- ↑ 6.0 6.1 長田一美web
- ↑ SMスピリッツ1988年(昭和63年)5月号
- ↑ S&Mスナイパー1997年(平成9年)8月号
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 STRIPwikiより
- ↑ 『年末狸吊り寒中水責めーSM緊縛師のドン「長田英吉」の職人芸』FOCUS 1987年(昭和62年)1月2・9日合併号。
- ↑ 早川佳克淑女録3『女王たらし①和江』