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2019年7月23日 (火) 08:16時点における版
かやま しげる、1926年(昭和元年)?- 2014年(平成26年)7月25日
概要
緊縛師。実業家。1960年代頃から団鬼六や辻村隆の交遊を通じて昭和SM文化の形成に深く関わった仕掛け人。1970年前後に芳賀書店から出版されていた多くの緊縛写真集の緊縛は賀山茂が担当[1]。辻村隆が奇譚クラブに連載していたSMカメラ・ハントの中で、関東地区で取材されていた一部の作品は、賀山茂がゴーストライターとして担当していたようだ[1]。1979年(昭和54年)には六本木にSMサロン「SAMM」をオープンし、長田英吉、明智伝鬼、桜田伝次郎、早乙女宏美、花真衣、森美貴らによるSMショーを開催。1981年(昭和56年)に「サム・ビデオセンター」を設立し芳友舎、h.m.pへとつなげ、h.m.pの会長職を長く勤める。奇譚クラブ終刊後もしばらく商標権を保持し、1982年(昭和57年)には奇譚クラブの復刊ともいえる復刊奇譚クラブを創刊した。
別名
Shigeru Kayama、芳賀吉孝(本名)、賀山芳男、沙寺巣沈[注 1]
略歴
1950年(昭和25年)頃、「早稲田の学生時代・・映画の撮影場所に入り浸り、劇場にたむろする」生活を送っていたとある[2][注 2]。俳優としもて数本の映画に出演[3]。
1951年(昭和26年)、『奇譚クラブ』に出会う[2][注 3]。
1950年代、奇譚クラブの出版元である曙書房を計3回訪問するが、面談できず[3]。
1950年代、神田の食堂「巽」で自称ブリキ屋の親父[注 4]、上田青柿郎を知り、まもなく、新宿の旧女郎屋での縛りの写真撮影会に誘われる[3]。
1950年代、初参加した上田青柿郎の写真撮影会で戸塚栄作[1]と知り合い、「珍東宝」コンビと名乗る[3]。
1954年(昭和29年)、上田青柿郎の「縛りの撮影会」で緊縛を学ぶ[4]。当時、上田は辰巳出版にいたようだ[2]。
1950年代後半頃、奇譚クラブ主催の大阪太閤園での「山原清子の刺青を完成させるための会」の招待を受け参加。ここで辻村隆と出会い、その日に辻村隆に宿泊。辻村隆夫人を差し出される[3]。
1959年(昭和34年)-62年(昭和37年)、団鬼六と交友を始める[2][注 6]。
1965年(昭和40年)頃、奇譚クラブ主催の「山原清子[注 7]の刺青完成会」に出席[4]。
1965年(昭和40年)頃、辻村隆の誘いで増田夫妻、伊吹真佐子とプレイ[5]。
1965年(昭和40年)頃、辻村隆の紹介で京都の女子大生堤エミ子とパートナーとして交際しはじめる[6]。
1965年(昭和40年)頃、新橋の飲み屋で三崎から通っていた団鬼六と知り合う[6]。
1966年(昭和41年)頃、団鬼六から谷ナオミを紹介される[2]。
1968年(昭和43年)頃、名古屋で左近麻里子とプレイ[7]。
1968年(昭和43年)、辻村隆がTV出演で[注 8]。赤坂の楼外楼飯店で団鬼六、谷ナオミと共に会食[7]。
1968年(昭和43年)、団鬼六の『続・花と蛇 赤い拷問』(ヤマベ・プロ)のロケの見学。谷ナオミ、たこ八郎が出演[8]。
1969年(昭和44年)、芳賀書店から出た団鬼六の『緊縛写真集』の製作に関与。
1971年(昭和46年)、週刊ポストの「梶山季之ポルノ対談39」のゲストとして取り上げられる。
1977年(昭和52年)、SMファン1977年(昭和52年)11月号にサム・ビデオ・センターの広告。
1979年(昭和54年)、六本木にSMサロン「SAMM」オープン[2]。
1980年(昭和55年)、早乙女宏美[2]や森美貴[9]がSAMMに参加。
1981年(昭和56年)、サム・ビデオ・センター設立。
1981年(昭和56年)4月、S&Mスナイパーに沙寺巣沈名で、『ロープ・ハンター』連載開始[注 1]。
1981年(昭和56年)6月20日、SMサロン「SAMM」オープの記事。経営者が賀山茂と明記[10]。
1982年(昭和57年)、「復刊奇譚クラブ」の発刊に関与[注 9]。
1983年(昭和58年)、にっかつ「蛇の穴」の緊縛指導。
1983年(昭和58年)4月4日、第1回 『賀山茂のSM撮影の集い』[11]。
1984年(昭和59年)、芳友社設立。SAMMはメインレーベル。
1994年(平成6年)、ビデオの奇譚クラブレーベルを立ち上げる。
2005年(平成17年)1月、S&Mスナイパー2005年(平成17年)1月号に賀山茂『裸足で歩いたSM道』連載開始。2006年(平成18年)4月号まで。
2005年(平成17年)2月1日、ホームページ『賀山茂の世界』を開始(既に閉鎖)。
h.m.p、芳友舎、銀河映像、ビデオバンク、メディア・ジャック、メディア・ワーク・ステーションからなる『芳友グループ』の会長。
2014年(平成26年)7月25日、永眠。
エピソード
- 長田英吉、早乙女宏美などの数多くの人々を育てている。
- 芳賀書店の芳賀家とは関係なし。
- にっかつの社長に勧められてビデオの製作を始めた[12]。
- ホウショウルビーの馬主としても有名。
- 奇譚クラブの商標権を2008年頃まで保有していた。
賀山茂語録
- 「SMを商売にしちゃダメだよ。SMはあくまでも趣味の世界。じゃないと心のやすらぎにならないでしょ」[12]。
- 「最近はSMに対する考え方が変化を感じます。縛ってイカせる、自己満足のための縛り。SMの原点はサゾマゾの本能がある人たちの喜びを追及するステージなのです。基本的には二人で楽しむシークレットなのです.同好の人が二組で一緒にプレイはあります。観客がいて見ているというのは本物ではありません。ショーとしての存在はマニアの世界にはありません。縛りはプレイの中のワンバージョンで、SMが縛りと考えるのは間違いです。残念です。SMとSEXが同じポジションに居ることはSMマニアの世界にはなかったです。時代とともに変化してきたことは止むを得ませんが、出来れば別次元で考えたいものです。サゾマゾを本能で楽しむ人とお話したいですね。」(Sniper SNSでの2014年3月16日の最後の書き込み。)
- 「馴れ合いで縛る。悪戯する。緊張感がない。これは単なる遊び。プレイは遊びではない。プレイはセッションなのです。セッションは真剣勝負、気持ちと気持ちのせめぎ合い。オッパイを責めるにも、指に全神経を集中する。痛さと快楽のミキシングを追及している・・・」(Sniper SNS, 2013年7月24日)
代表作
映画
- 『団鬼六 蛇の穴』(鬼プロ, 1983.2.25)(配給=にっかつ、企画:奥村幸士、原作:団鬼六、脚本:佐伯俊道、監督:藤井克彦、緊縛指導:賀山茂、出演:志麻いづみ 花真衣 水木薫 松井美世子 中原潤)
- 『くノ一忍叫伝 HOTARU』(銀河映像, 2001)(製作:賀山茂、監督・脚本:石川均 、出演:斎藤志乃 かとうあつき 平賀勘一 森保郁夫 山本竜二 やべきょうすけ)
ビデオ
- 『紫痕』(私家版)
- 『SM淫夫人』(第2作)
- 『女教師・縛り悶絶』(みみずくビデオ, 198?)(監修:SAMM、出演:岡美由紀、佐々木夏子)
- 『花嫁人形』(SAMMビデオ, 1984)(SP-15、監督:賀山茂、出演:森美貴 松尾誠)
- 『二匹の牝犬』(SAMM Video Center)(監督:賀山茂、出演:中堀ひとみ、山野美世子)
- 『浣腸マニア』(SAMM Video Center)
- 『高校生リンチ』(SAMM Video Center)
- 『廃屋 美女残酷責め』(SAMM Video Center, 198?)(出演:松井めぐみ)
- 「眠らない天使たち」
雑誌
- 梶山季之『梶山季之ポルノ対談39 びっくり仰天!ビデオテープで見た"もだえ"』週刊ポスト1971年(昭和46年)12月3日号
- 賀山茂『辻村隆氏との交遊記』復刊奇譚クラブ1982年(昭和57年)3月号
- 賀山茂『縄愛回顧録』別冊S&Mスナイパー1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号
- 賀山茂『縄の魔術師「辻村隆氏」との交遊記 その2 古都より愛をこめて』復刊奇譚クラブ1982年(昭和57年)4月号, p20
- 早乙女宏美『社長の時代』S&Mスナイパー1996年(平成8年)5月号
- 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)1月号から2006年(平成18年)4月号まで。
参考資料
- ↑ 1.0 1.1 1.2 賀山茂 私信 to U
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)1月号
- ↑ 4.0 4.1 賀山茂『縄愛回顧録』別冊S&Mスナイパー1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号まで連載。
- ↑ 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)2月号
- ↑ 6.0 6.1 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)3月号
- ↑ 7.0 7.1 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)4月号
- ↑ 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)5月号
- ↑ 森美貴 私信 to U
- ↑ S&Mスナイパー1981年(昭和56年)9月号
- ↑ 別冊S&Mスナイパー1983年(昭和58年)6月号
- ↑ 12.0 12.1 「早乙女宏美『社長の時代』S&Mスナイパー1996年(平成8年)5月号
注釈
- ↑ 1.0 1.1 Ugo独自判断
- ↑ 「浅草ロックで楽屋遊びをしていた或る日の或る小屋で「松旭斎天勝」のマジックショウが上演されており、その中のワンシーンで美女ががんじがらめに縛られ・・・私は毎日そのシーンだけを見に行きました。思えばその頃から奇人・変人の道に入ったのでしょう。」とある。ここでの「松旭斎天勝」は年代的に初代(1986-1944)ではない。
- ↑ 賀山茂『裸足で歩いたSM道』S&Mスナイパー2005年(平成17年)1月号では「昭和30年頃」とある
- ↑ この頃上田青柿郎は『讀切ロマンス』の編集をしていた
- ↑ 賀山は辻村との出会いを、「山花清子の刺青完成会」の場であるとも書いていることがあり、話が合わない。
- ↑ 『賀山茂の世界』では1959年(昭和34年)となっているが、2011年(昭和23年)、Webスナイパーの団鬼六追悼インタビューでは「新橋駅前の旧闇市の飲み屋で・・・ある日、隣で2、3度顔を見たことのある男から「よく会いますね」と声を掛けられて意気投合、これが高校教師時代の団鬼六だった。1962(昭和37)年頃のことである。」「三崎のうまい魚で一杯やろうということになって、三崎で酒を飲み交わした。団さんは、深酒するとすぐに寝ちゃうんだ。それから急速に仲良くなって、思いつくとそのまま水戸黄門のような旅に出かけた。金も持たない、予定なし、めくらめっぽうにね。団さんは風呂が好きで温泉のあるところに出掛けることが多かったな」 とある。
- ↑ 1964年(昭和39年)12月号のカメラハントに登場
- ↑ 上京おそらく1968年(昭和43年)9月24日放映の11PMのこと
- ↑ 3月創刊。(株)きたん社。港区六本木2-4-5-402。発行人:森田公治、編集:風俗史料保存会(東京都中央区銀座1-22-10ストークビル501)
つながり
団鬼六 辻村隆 吉田稔 長田英吉 明智伝鬼 谷ナオミ 早乙女宏美 武いさを 花真衣