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1921年(大正10年)に[[鈴木泉三郎]]が[[伊藤晴雨]]をモデルとして発表。大正時代から現在にいたるまで繰り返し上演される近代戯曲の代表作。英語版オーディオドラマにも。
[[画像:SatsukiNobuko2.jpg|250px|thumbnail|[[五月信子]]演ずる『'''[[火あぶり]]'''」の「富山くに」。「[[世界の刑罰性犯変態の研究]]」より。]]
[[画像:Hiaburi.jpg|250px|thumbnail|「'''火あぶり'''」'''シアターΧ'''の名作劇場第13回公演より。]]
==概要==
==概要==
劇作家である[[鈴木泉三郎]]が[[伊藤晴雨]]をモデルとして、1921年(大正10年)に早稲田大学紀要(''要確認'')に発表した作品。責め場を含む戯曲で、戦前・戦後に上演されていた<ref name="sonokoro">[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) '''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195311/01/079.html p82]</ref>。
劇作家である[[鈴木泉三郎]]が[[伊藤晴雨]]をモデルとして、1921年(大正10年)に早稲田大学紀要(''要確認'')に発表した作品。責め場を含む戯曲で、戦前・戦後から現在にいたるまで繰り返し上演<ref name="sonokoro">[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) '''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195311/01/079.html p82]</ref>。
==歴史==
==歴史==
1921年(大正10年)、早稲田大学紀要(''要確認'')に発表。
1921年(大正10年)、早稲田大学紀要(''要確認'')に発表。


1923年(大正12年)、この年に白洲次郎が高橋義信、[[五月信子]]らと設立した'''先駆座'''が、戦前のいつか、[[火あぶり]]を上演した模様<ref name="Uramado1961_4">『'''晴雨画伯を偲んで'''』[[裏窓]]1961年(昭和36年)4月号, p176-183.</ref>。
1923年(大正12年)、この年に高橋義信、[[五月信子]]らが設立した'''先駆座'''が、戦前のいつか、[[火あぶり]]を上演した模様<ref name="Uramado1961_4">『'''晴雨画伯を偲んで'''』[[裏窓]]1961年(昭和36年)4月号, p176-183.</ref>。


1925年(大正14年)、[[プラトン社]]から発行された『'''[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016944 鈴木泉三郎戯曲全集]'''』(プラトン社, 1925)に『[[火あぶり]]』が収録。
1925年(大正14年)、[[プラトン社]]から発行された『'''[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016944 鈴木泉三郎戯曲全集]'''』(プラトン社, 1925)に『[[火あぶり]]』が収録。
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1948年(昭和23年)、[[山岸康二]]がレビュー劇場『静岡歌舞伎座』で松浦泉三郎の「[[火焙り]]」を上演していたのを記憶しているが、これは[[鈴木泉三郎]]作品と同一かもしれない。
1948年(昭和23年)、[[山岸康二]]がレビュー劇場『静岡歌舞伎座』で松浦泉三郎の「[[火焙り]]」を上演していたのを記憶しているが、これは[[鈴木泉三郎]]作品と同一かもしれない。


1953年(昭和28年)6月4日、[[伊藤晴雨]]が[[市川鈴本]]で『'''責めの劇団'''』の第1回公演で『[[火焙り]]』を上演<ref name="eshi"></ref><ref group="注">[[濡木痴夢男]]はこの公演を観ている。</ref>。
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2001年(平成13年)7月17〜22日、'''シアターΧ'''の名作劇場第13回公演(東京)で『[[火あぶり]]』が上演。演出:川和孝。
2004年(平成16年)4月、'''劇団うずめ劇場'''が[[鈴木泉三郎]]・[[三島由紀夫]]・作、藤沢友・演出『[[火あぶり]] 班女』を北九州市折尾ウテルスホールで上演。
2015年(平成27年)12月20日、[[Kinbakunomicon]]のオーディオドラマとして「'''[http://www.wallflowercodex.com/kinbakunomicon/01.html Burned Alive]'''」が英語放送。
2017年(平成29年)2月4日、劇団未来ワークスタジオで開催された日本演出者協会関西ブロック主催『日本の近代戯曲を読む!』で『[[火あぶり]]』(演出・増田雄)が上演。


==トピック==
==トピック==
*伊藤晴雨の没後、裏窓で企画された[[伊藤竹酔]]+[[大橋月皎]]+[[佐藤倫一郎]]+東喜代駒+[[高橋鐵]]による座談会<ref name="Uramado1961_4"></ref>では、[[火あぶり]]が話題となっている。それによると、「高橋義信と五月信子のやった<ref group="注">大正末の「先駆座 」のことか?</ref>」「大阪の角座で先生がかぶりつきで見ていた」「[[大橋月皎]]が喋ったねたを[[鈴木泉三郎]]が脚色した。[[伊藤晴雨]]の最初の夫人の竹夫は、[[伊藤晴雨]]が通っていたKという新聞記者の女中だった。Kさんの手が着いていたのをいただいた。それと一緒にたくさんの古書をもらう。」
*伊藤晴雨の没後、裏窓で企画された[[伊藤竹酔]]+[[大橋月皎]]+[[佐藤倫一郎]]+東喜代駒+[[高橋鐵]]による座談会<ref name="Uramado1961_4"></ref>では、[[火あぶり]]が話題となっている。それによると、「高橋義信と[[五月信子]]のやった<ref group="注">大正末の「先駆座 」のことか?</ref>」「大阪の角座で先生がかぶりつきで見ていた」「[[大橋月皎]]が喋ったねたを[[鈴木泉三郎]]が脚色した。[[伊藤晴雨]]の最初の夫人の竹夫は、[[伊藤晴雨]]が通っていたKという新聞記者の女中だった。Kさんの手が着いていたのをいただいた。それと一緒にたくさんの古書をもらう。」
*「[[世界の刑罰性犯変態の研究]]」の中の[[伊藤晴雨]]が編集した「責め研究篇」の中に[[五月信子]]が演じる「火あぶり」の富山くにの写真が出ている。
*「[[火あぶり]]」で[[水谷八重子]]を[[伊藤晴雨]]が縛ったという記述がある<ref name="ziken">『'''責め絵画家![[伊藤晴雨]]の死とマニヤ族'''』[[事件実話]]1961年(昭和36年)3月14日号。p116-122</ref>。
 
==登場人物==
==登場人物==
*津村有年、45才の画家
*津村有年、45才の画家
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*木村火葉、津村の内弟子、25才。
*木村火葉、津村の内弟子、25才。
==あらすじ==
==あらすじ==
舞台は小石川の津村の自宅で、津村が妾のおくにを柱に細い鎖で縛り付け、その姿を写生している場面から始まる。なぜ売れないのに縛った女性ばかりを描くのかというおくにの質問に、女は縛られた時が一番美しいと答える有年。そこでに重吉とみつが訪れ、みつの母が病気になったので、みつを津村が養女としてひきとってくれないかと相談。津村はすげなく断り、重吉は薄情者とののしり帰る。内弟子の火葉が作品の原稿料をもらって戻ってくる。津村は火葉の一部をおくにに渡すようにと言うと「亡くなった奥さんには一銭もわたさなかったのに、おくにさんには渡すのですね」「今の女に惚れているからだ」「今のやつはもともとモデル上がりの己の情婦だ」といった会話。そこにおくにが入ってきて、津村に風呂にいっておいでと送り出す。残った火葉におくにが色仕掛け。いい雰囲気になったところに津村が突然帰ってくる。状況を察した津村は二人を折檻。いつか現場を抑えてやろうと思っていたんだ、と吐き捨てる。何が悪いと開き直った火葉を追い出す津村。二人になった津村は、「よし本式に縛りあげてやろう」とおくにを[[後手縛り|後ろ手]]に縛り上げ、庭の樫の木に縛りつける。さらに手拭いで口を縛る。「かうして縛りつけるのも惚れていればこそだ」。髪の毛を乱し、さらに小刀で頬を切る。「死んだ嬶(かかあ)は師匠と間男をしてやがった。それを己はしらねえ風をして暮らして来た」「女と云うものはまつたく縛り上げて置くより仕様がないものだ」「火をつけてやろうか」と炭俵や木端を持ち出し「己が一代の名画にしてやる」と火をつけんとする時に、庭の隅からそっとでてきた火葉が津村にとびかかかり、津村が他終えれて幕。
舞台は小石川の津村の自宅で、津村が妾のおくに(富山くに)を柱に細い鎖で縛り付け、その姿を写生している場面から始まる。なぜ売れないのに縛った女性ばかりを描くのかというおくにの質問に、女は縛られた時が一番美しいと答える有年。そこでに重吉とみつが訪れ、みつの母が病気になったので、みつを津村が養女としてひきとってくれないかと相談。津村はすげなく断り、重吉は薄情者とののしり帰る。内弟子の火葉が作品の原稿料をもらって戻ってくる。津村は火葉の一部をおくにに渡すようにと言うと「亡くなった奥さんには一銭もわたさなかったのに、おくにさんには渡すのですね」「今の女に惚れているからだ」「今のやつはもともとモデル上がりの己の情婦だ」といった会話。そこにおくにが入ってきて、津村に風呂にいっておいでと送り出す。残った火葉におくにが色仕掛け。いい雰囲気になったところに津村が突然帰ってくる。状況を察した津村は二人を折檻。いつか現場を抑えてやろうと思っていたんだ、と吐き捨てる。何が悪いと開き直った火葉を追い出す津村。二人になった津村は、「よし本式に縛りあげてやろう」とおくにを[[後手縛り|後ろ手]]に縛り上げ、庭の樫の木に縛りつける。さらに手拭いで口を縛る。「かうして縛りつけるのも惚れていればこそだ」。髪の毛を乱し、さらに小刀で頬を切る。「死んだ嬶(かかあ)は師匠と間男をしてやがった。それを己はしらねえ風をして暮らして来た」「女と云うものはまつたく縛り上げて置くより仕様がないものだ」「火をつけてやろうか」と炭俵や木端を持ち出し「己が一代の名画にしてやる」と火をつけんとする時に、庭の隅からそっとでてきた火葉が津村にとびかかかり、津村が倒れて幕。


== 引用文献==
== 引用文献==
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== お役たちweb==
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*[http://www.theaterx.jp/about/message.php シアターX]
*[http://uzumenet.com/net/ 劇団うずめ劇場]
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1921年(大正10年)に鈴木泉三郎伊藤晴雨をモデルとして発表。大正時代から現在にいたるまで繰り返し上演される近代戯曲の代表作。英語版オーディオドラマにも。

五月信子演ずる『火あぶり」の「富山くに」。「世界の刑罰性犯変態の研究」より。
火あぶりシアターΧの名作劇場第13回公演より。

概要

劇作家である鈴木泉三郎伊藤晴雨をモデルとして、1921年(大正10年)に早稲田大学紀要(要確認)に発表した作品。責め場を含む戯曲で、戦前・戦後から現在にいたるまで繰り返し上演[1]

歴史

1921年(大正10年)、早稲田大学紀要(要確認)に発表。

1923年(大正12年)、この年に高橋義信、五月信子らが設立した先駆座が、戦前のいつか、火あぶりを上演した模様[2]

1925年(大正14年)、プラトン社から発行された『鈴木泉三郎戯曲全集』(プラトン社, 1925)に『火あぶり』が収録。

戦前、飯塚与一郎[注 1]が、牛込呉松町の自宅で私演している[1]

1940年代後半?、空気座東横デパートの劇場で上演したとある[3]

1948年(昭和23年)、山岸康二がレビュー劇場『静岡歌舞伎座』で松浦泉三郎の「火焙り」を上演していたのを記憶しているが、これは鈴木泉三郎作品と同一かもしれない。

1953年(昭和28年)6月4日、伊藤晴雨市川鈴本で『責めの劇団』の第1回公演で『火焙り』を上演[3][注 2]

2001年(平成13年)7月17〜22日、シアターΧの名作劇場第13回公演(東京)で『火あぶり』が上演。演出:川和孝。

2004年(平成16年)4月、劇団うずめ劇場鈴木泉三郎三島由紀夫・作、藤沢友・演出『火あぶり 班女』を北九州市折尾ウテルスホールで上演。

2015年(平成27年)12月20日、Kinbakunomiconのオーディオドラマとして「Burned Alive」が英語放送。

2017年(平成29年)2月4日、劇団未来ワークスタジオで開催された日本演出者協会関西ブロック主催『日本の近代戯曲を読む!』で『火あぶり』(演出・増田雄)が上演。

トピック

登場人物

  • 津村有年、45才の画家
  • 富山くに(おくに)、津村の妾。36才。
  • 安田みつ、津村の娘。14才。
  • 安田重吉、みつの伯父、37才。
  • 木村火葉、津村の内弟子、25才。

あらすじ

舞台は小石川の津村の自宅で、津村が妾のおくに(富山くに)を柱に細い鎖で縛り付け、その姿を写生している場面から始まる。なぜ売れないのに縛った女性ばかりを描くのかというおくにの質問に、女は縛られた時が一番美しいと答える有年。そこでに重吉とみつが訪れ、みつの母が病気になったので、みつを津村が養女としてひきとってくれないかと相談。津村はすげなく断り、重吉は薄情者とののしり帰る。内弟子の火葉が作品の原稿料をもらって戻ってくる。津村は火葉の一部をおくにに渡すようにと言うと「亡くなった奥さんには一銭もわたさなかったのに、おくにさんには渡すのですね」「今の女に惚れているからだ」「今のやつはもともとモデル上がりの己の情婦だ」といった会話。そこにおくにが入ってきて、津村に風呂にいっておいでと送り出す。残った火葉におくにが色仕掛け。いい雰囲気になったところに津村が突然帰ってくる。状況を察した津村は二人を折檻。いつか現場を抑えてやろうと思っていたんだ、と吐き捨てる。何が悪いと開き直った火葉を追い出す津村。二人になった津村は、「よし本式に縛りあげてやろう」とおくにを後ろ手に縛り上げ、庭の樫の木に縛りつける。さらに手拭いで口を縛る。「かうして縛りつけるのも惚れていればこそだ」。髪の毛を乱し、さらに小刀で頬を切る。「死んだ嬶(かかあ)は師匠と間男をしてやがった。それを己はしらねえ風をして暮らして来た」「女と云うものはまつたく縛り上げて置くより仕様がないものだ」「火をつけてやろうか」と炭俵や木端を持ち出し「己が一代の名画にしてやる」と火をつけんとする時に、庭の隅からそっとでてきた火葉が津村にとびかかかり、津村が倒れて幕。

引用文献

  1. 1.0 1.1 伊藤晴雨其の頃を語る(六) 責め場の舞台装置法(二) 奇譚クラブ1953年(昭和28年)11月号, p82
  2. 2.0 2.1 晴雨画伯を偲んで裏窓1961年(昭和36年)4月号, p176-183.
  3. 3.0 3.1 濡木痴夢男「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
  4. 責め絵画家!伊藤晴雨の死とマニヤ族事件実話1961年(昭和36年)3月14日号。p116-122

注釈

  1. 日大教授で、劇作家の坪内博士の娘婿にもあたる。
  2. 濡木痴夢男はこの公演を観ている。
  3. 大正末の「先駆座 」のことか?

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