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'''おずま かなめ'''、1939年(昭和14年) 1月19日-
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==活動内容==
絵師。文筆家。
 
==別名==
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Kaname_Ozuma Kaname Ozuma]、[[小妻容子]]
 
==略歴==
1939年(昭和14年)、新潟県柏崎生まれ。
 
1950年(昭和25年)、叔父の日本画家・坂井草子に師事。
 
1962年(昭和37年)、上京、戸井版画工房入社。
 
1965年(昭和40年)、栗津画廊にて画業育成の指導を受ける。
 
1965年(昭和40年)、[[奇譚クラブ]]9月号に小妻容子『黒いコートの記憶から』が懸賞入選作品として掲載。
 
1968年(昭和43年)、栗津画廊を辞し、新聞、雑誌などの挿画、表紙画、口絵を描く。
 
1997年(平成9年)、報知新聞、文芸家クラブ大賞、挿画賞受賞。
 
==エピソード==
*[[小説SMセレクト]]、[[SMクラブ]]、[[SM秘小説]]の表紙を描く。
 
==作品==
*[[小妻要|小妻容子]]『妊婦受難二題』[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)1月号, p23
*[[小妻要|小妻容子]]『引き責め』[[奇譚クラブ]]1969年(昭和44年)10月号, p239
*小妻要『女人藍像―小妻要〔刺青〕美人画集』(辰巳出版, 1995)
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4576006533?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4576006533 小妻要『刺青妖艶花―TATTOOing』(二見書房, 2000)]
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4576031287?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4576031287 小妻要『藍の華―Tattoo fantasy』(二見書房, 2003)]
*小妻容子『刺青美浪漫』(マイウェイ出版, 2005)
*小妻容子『小妻容子秘画帖 豊艶の濫り』(大洋図書, 2009)
*『秘禁縄淫画廊』(マイウェイ出版, 2008)
 
==関連文献==
 
==お役たちweb==
*[http://www.ozumakaname.net/ 小妻要オフィシャルサイト]
*[http://www.ozuma-youko.com/ 責め絵師 容子]
*[http://www.awabido.com/home/oduma/oduma.html あわび堂]
 
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2017年10月25日 (水) 21:34時点における最新版

小妻容子中野正人小妻容子 <刺青画>の世界SMクラブ1984年(昭和59年)4月号より。)
小妻容子の名前で奇譚クラブの「告白・手記・体験懸賞」に応募し入選となった『黒いコートの記憶から』の挿絵。奇譚クラブ1965年(昭和40年)9月号より。

おずま かなめ、1939年(昭和14年) 1月19日- 2011年(平成23年)9月27日。1965年頃から奇譚クラブ小妻容子として読者投稿を始め、1970年代から『SMキング』『別冊SMファン』『SM秘小説』などの表紙を含めた精力的な創作活動。刺青・豊満女性画が特徴。元日本出版美術家連盟副会長。

概要

絵師。10代の頃から叔父である日本画家、坂井草子に絵の手ほどきをうける。大学卒業後、デザイン会社に就職し、1965年(昭和40年)から奇譚クラブに責め絵の投稿を始めている。1970年代のSM雑誌ブームで一躍、責め絵師として注目を集め、SMセレクトSMファンSMキング別冊SMファンSM秘小説SMクラブSM奇譚などの主たるSM雑誌に多くの作品を発表した。刺青美人画を得意とし、国内外に多くの支持者をもつ。元日本出版美術家連盟副会長。

別名

Kaname Ozuma 小妻要 小妻容子 小妻容[注 1] 坂井勝利(本名)

略歴

1939年(昭和14年)、新潟県柏崎生まれ。

1950年(昭和25年)、叔父の日本画家・坂井草子(坂井辰次)に師事。

1956年(昭和31年)、上京、中央美術大学院入学

1958年(昭和33年)、肺結核療養のため新潟県柏崎市に戻る。

1959年(昭和34年)、柏崎市の小田印刷デザイン部に入社、画判、版下担当。

1962年(昭和37年)、再度上京。戸井版画工房入社。

1965年(昭和40年)、栗津画廊にて画業育成の指導を受ける。

1965年(昭和40年)、奇譚クラブ9月号に小妻容子黒いコートの記憶から』が懸賞入選作品として掲載。

1968年(昭和43年)、栗津画廊を辞し、新聞、雑誌などの挿画、表紙画、口絵を描く。

1972年(昭和47年)、小妻要画集『女人幻想』(萃擁社)刊行。

1973年(昭和48年)5月21日、鬼プロサン出版の企画による箱根での慰労会[1]。出席者は団鬼六美濃村晃堂昌一小日向一夢千草忠夫安芸蒼太郎小妻容子前田寿安沖渉二古正英生東桂史中島喜美織裳雪夫松井籟子蘭光生天堂寺慎山田彬弘曽我部泰佐藤重臣ネコ、マリ。

1974年(昭和49年)6月、『SMキング』6・7月合併号から表紙を担当。

1976年(昭和51年)4月、『別冊SMファン』の表紙を担当を描き始める。

1982年(昭和57年)4月、『SM秘小説』の創刊号からの表紙を担当。

1984年(昭和59年)4月、SMクラブ4月号に中野正人によるインタビュー記事[2]

1986年(昭和61年)、中央区銀座ロイヤルサロンギンザに於いて個展開催。

1986年(昭和61年)、小妻要沢登みよじ西村春海堂昌一沢鬼レオの日本出版美術家連盟会員と合同で「艶5人展」を開催[3]

1987年(昭和62年)1月、S&Mスナイパー1987年(昭和62年)1月号の四方雅人新訳本朝画人伝 第四回 正統 小妻要』に取り上げられる。

1987年(昭和62年)4月21-26日、ロイヤルサロンギンザにて『出版画実術家連盟8人展<艶>』。小妻要小悪征夫堂昌一沢登みよじレオ澤鬼西村春海日影眩前田寿安

1987年(昭和62年)、小妻要沢登みよじ堂昌一西村春海レオ澤鬼で「艶5人展」発足[注 2]

1991年(平成3年)11月17日、抜弁天スタジオ緊美研第70回例会。モデル:佐伯リカ小妻容子室井亜砂二が出席[4]

1997年(平成9年)、報知新聞、文芸家クラブ大賞、挿画賞受賞。

2009年(平成21年)、ヴァニラ画廊に於いて個展。『刺青美女・縄の情念と柔肌の

2009年(平成21年)9月18日〜11月28日、風俗資料館にて『小妻容子秘画帖~豊艶の濫り~

2010年(平成22年)1月、初代彫蓮とボディーペイントショーコラボ制作。

2010年(平成22年)8月26日ー9月18日、ロサンジェルス「Known Gallery」にて"OZUMA KANAME & HORIYOSHI III - IREZUMI BIJIN"が開催。

2011年(平成23年)9月27日、永眠。

2012年(平成24年)9月25日~10月7日、画廊浅草ブレーメンハウスに於いて『小妻容子追悼絵画展』。

2013年(平成25年)5月3日~5月14日、京都・京町家ぎゃらりぃほりかわに於いて『小妻容子三回忌原画展』。

2015年(平成27年)3月10日-31日、六本木ナイトギャラリーCROWにて『小妻容子 vs 志摩紫光 責め画展』開催。

2015年(平成27年)5月5日~5月17日、ギャラリー新宿座にて『一人称二人展(小妻要小妻容子原画展)』

2017年(平成29年)5月28日〜6月11日、アビリティ巣鴨駅前スタジオにて『小妻容子七回忌原画展

5月31日には志摩紫光神浦匠によるトークショー。

2019年(令和元年)9月15日〜30日、芳賀書店本店にて『小妻画伯追悼原画展

23日には初代彫蓮のライブボディーペインティング。27日には志摩紫光小出英二芳賀英紀によるトークショー。

2022年(令和4年)9月15日〜28日、心斎橋ギャラリーA stairにて『小妻容子 小妻要 追悼原画展 刺青美人

18日にはLoft PlusOne Westにて『刺青美人原画展開催記念ライブ 【芸術ハードコア】』対談:志摩紫光木佐貫真照藤本修羅(MC 大黒堂ミロ)、緊縛ライブ:上条早樹×上条響、映画「ITECHO」劇場未公開シーン初上映。

エピソード

  • ダンス教師をやっていたことがある[5]
  • 柏崎市の印刷会社時代に、地元のヤクザの女に手を出し半殺しにされる。逃げるように再上京[5]
  • 奇譚クラブへ投稿した初期の絵からも分かるように、太った女性に対する嗜好があったようで、独自のスタイルを確立した後も、しばしば豊満な女性の責め絵を描いている、
  • 2012年からの「原画展」は志摩紫光が中心にプロデュース。

作品

奇譚クラブに読者投稿した初期の作品

その他の雑誌

画集

ギャラリー

関連記事

引用文献

  1. SMキング1973年(昭和48年)8月号に紹介記事
  2. 中野正人小妻容子 <刺青画>の世界SMクラブ1984年(昭和59年)4月号
  3. Wikipediaより
  4. 秋田昌美KINBAKU OF YO OZUMA』in BIZARRE MAGAZINE(日)1992年3月号
  5. 5.0 5.1 四方雅人新訳本朝画人伝 第四回 正統 小妻要S&Mスナイパー1987年(昭和62年)1月号

注釈

  1. SMフェニックスの本文・目次にこの名前が使われている。
  2. ロイヤルサロンギンザにてその後毎年開催。
  3. ヤック翔龍社の活動時期から類推

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