鬼六談義
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団鬼六が1964年(昭和39年)から1974年(昭和49年)まで、奇譚クラブと、続いてSMキングに不定期に書いていた随筆。当時のSM事情を知る貴重な情報源
1964年奇譚クラブ連載
1965年奇譚クラブ連載
1966年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)2月号『鬼六談義 日本三文映画』
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 SとMは花ざかり』
- 白表紙になったが、主流派の生き残りとして頑張っていきたい。
- 『花と蛇』は1月のうち、悪魔的になった日に一挙にかいてしまう。
- 東京のやはりマニア誌を発行している所よりアルバイトとして12冊単行本を出した。
- SMものは、ひょっとすると、ブームになるかもしれぬ。そんな気がする。
- 4つのペンネームを使って月1本映画の脚本を書いている。SMを織り込んだ作品は団、花巻の名前。
- 最近作は『魔性の女(花巻)』(松井康子)、『猟奇の果て(団)』(山吹ゆかり)、『裸の仁義(花巻)』(裸の仁義)
- 愚作『花と蛇」が昨年一番ヒットした。
- 『猟奇の果て』は伊藤晴雨をモデルにした。
- 会ったことは無いが、青木順子や山原清子を映画に使ってみたい。
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)11月号『鬼六談義 三文マニヤ文士』[注 1]
- 3年間つきあった愛人のM子が結婚するため、別かれることになり寂しい気分。
- 8月号の『サジズムとは何か』をやんわい批判。「わざとむつかしく、ややっこしく書くことがKK誌における最近の流行」。「文学とか芸術にうるさく拘泥する読者は相手にする必要はない」「自分が助平という事にいろいろむつかしい理屈をつけたがるのは当節の流行」
- 「続・花と蛇の映画は、サブタイトル『骨まで縛れ』(この奇妙な題名は会社の社長がつけた)」「KK誌連載のものとは何の関係もない」
1967年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)2月号『鬼六談義 三文羞恥論』[注 2]
- 「新宿の安宿の一室で明日の朝までに手渡さねばならぬピンク映画のシナリオを書き飛ばしていた」
- テレビタレントのK君に紹介された女性読者の話。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)3月号『鬼六談義 夜の寒鳥』[注 2]
- 大晦日にヤクザのアパートで夫婦のSMショーを見せられたという、その後もしばしば出てくるモチーフ。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)6月号『鬼六談義 三文SM人生論』[注 2]
- S派、M派の性格分類。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)7月号『鬼六談義 化物の話』[注 2]
- 「十日間で(ピンク映画の)脚本3本というどえらい仕事を強制された」
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)8月号『鬼六談義 カメラ嫌い』[注 2]
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)9月号『鬼六談義 好色の戒め』
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)10月号『鬼六談義 瓢箪の話』[注 2]
- 「現在、外国テレビ映画翻訳の仕事をやっている」とある。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)12月号『鬼六談義 好きな人達』[注 2]
- 熱海での「肉地獄」のロケに奇譚クラブの読者A氏、B氏が招かれた話。辰巳のり子の縛りシーン。撮影隊はT旅館に滞在。
1968年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)3月号『鬼六談義 バラバラの話』[注 2]
- バラバラ殺人事件の参考人となった話。
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)4月号『鬼六談義 男と女の話』
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)5月号『鬼六談義 狐の話』
- ピンク俳優の権利を守る「独立映画俳優協会」が発足(理事長は火石利男)。谷直美や林美樹も来る。協会のためのシナリオを書いた(同号の『残酷・性の贄』か?)
- 最近はピンク映画のシナリオにももっともらしいストーリーが要求されるようになってきた。
- これまで50本ぐらいのシナリオを書いた。以前は月1本だが今は月3本。
- 武智鉄二の映画は下手な説法めいたものが画面に顔をのぞかせるので好きになれない。ただ、『黒い雪』裁判でピンク映画も芸術だとごまかしやすくなったので恩恵は受けた。
- 最近は乳頭も映画で見せることが出来る。
- 武田有生の『多情な乳液』の脚本を書いた(ヤマベプロ作品。辰巳典子主演。)
- 新高恵子、可能かず子、城山路子などの演技力のある女優はやめてしまった。
- 新高恵子の義理で、寺山の芝居を末広亭に見に行った。陳腐な三文芝居に芸術の匂いをつけて人をたぶららかすもの。アングラマニアさえたぶらかすアングラ劇団、と手厳しい。天井桟敷第3回公演、「大山デブ子の犯罪」新宿末広亭(1967年6月)のことか?あるいは、その後同所で再演していたのかもしれない。
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)6月号『鬼六談義 酒場の話』[注 2]
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)8月号『鬼六談義 残酷な話』
- 『花と蛇より 肉の飼育』(ヤマベプロ, 1968)の上州川原湯温泉のロケの話。サブタイトルは配給会社の部長がつけた。谷直美、祝マリ、宮瀬健二など。監督は松原次郎。松原は古い人なので、昔のように乳首を見せないで撮ろうとする。もうその必要はない。
- 「花と蛇シリーズ(私の仕事しているプロダクションがつけた)。」「縛り映画は相当な興行収入」
- ピンク女優の数が激減していることを指摘。東映の「徳川女刑罰史」のことを書いている。ピンク映画会社が五社に女優の貸し出しを封じようとして相談している。
- 「強引に依頼されて、銀座と渋谷の映画館で興行されているピンク芝居の脚本を月三本も書かされている。」
- 小森白にはまったくそのけ(SMマニア)はない。縄をかけるのはよく知っている助監督だが、彼もそのけはない。
- 映画のロケの時は、社長の好意で個室を与えられ、そこで執筆をしている。時間のある女優を呼び出し、緊縛写真を撮影している。
- 「花と蛇」の愛読者が緊縛女優志願に来たので、京マコとして『肉体手形』(ヤマベプロ, 1968)に役を付け足す。京マコと滝リエはM性がある。
- 京都に行く。辻村隆を東映のプロジューサー、監督に紹介。『徳川女刑罰史』が8月20日よりクランクイン。また、伊藤晴雨の映画化の打ち合わせ。企画会議でパスしたので今年か来年かにクランクイン。伊藤晴雨のことを調べるために斎藤夜居に教えをこわなければ。
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)10月号『鬼六談義 どさ回りの話』[注 2]
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)11月号『鬼六談義 秋の風』
- 「一年ばかり前に・・翻訳アテレコの仕事も・・人間を三人も四人もつかってそれで儲けがあるのかないのか・・面倒くさくなって解散してしまった。」
1969年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)3月号『鬼六談義 一皮むけば』
- 憧れていた酒場の女Kの自宅に行ってがっかりした思い出。
- 『徳川女刑罰史』を見た感想は「あの種の映画は当たるのだという面白さ」
- 静子夫人が山本富士子、珠江夫人が新珠三千代。
- 伊藤晴雨の話がT映画会社の3月以降の企画作品。
- 親しい松井康子が「神々の果てしない欲望」に出演。
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号『鬼六談義 或る女優の話』[注 2]
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)7月号『鬼六談義 蓮華草の話』[注 2]
- 「海の見えるこの土地に移り住んでもう5年」とある。
- 「石井輝雄(ママ)が・・・助監督連が結束し」とボイコット事件のことが書いてある。
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)9月号『鬼六談義 奇妙な性の話』
1970年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1970年(昭和45年)3月号『鬼六談義 人妻の話』[注 2]
- 「今年(おそらく1969年)は・・・ピンクプロを作ってみたものの」とある。
- 「テレビにまで出てしまった」とある。「談志に応援を頼んで出演」とある。
- 一緒に出演した昭和女子大学の白石先生。
1971年奇譚クラブ連載
1973年SMキング連載
- SMキング1973年(昭和48年)1月号『鬼六談義 生首』[注 3]
- 生首マニアKさんの話。
- SMキング1973年(昭和48年)2月号『鬼六談義 珍小説から珍出版』[注 4]
- SMキング1973年(昭和48年)3月号『鬼六談義 羞恥責の』[注 4]
- SMキング1973年(昭和48年)4月号『鬼六談義 浣腸の話』[注 4]
- SMキング1973年(昭和48年)5月号『鬼六談義 SM雑誌考』[注 3]
- SMの基礎知識を普及する雑誌としてSMキングを始めてみた。
- SMキング1973年(昭和48年)6月号『鬼六談義 マニア好みの女』[注 4]
- SMキング1973年(昭和48年)8月号『鬼六談義 苦闘の一年』[注 3]
- 酒場経営を3年間やったとある。
- SMキング1973年(昭和48年)9月号『鬼六談義 悦虐趣味のたたり』
- SMキング1973年(昭和48年)10月号『鬼六談義 快楽の原点』[注 4]
- SMキング1973年(昭和48年)11月号『鬼六談義 秋風の季節』[注 3]
- SMキング8月号、9月号が発禁処分になったとある。
1974年SMキング連載
- SMキング1974年(昭和4年9)1月号『鬼六談義』