ユーモアグラフ
ゆーもあぐらふ
概要
一水社の出していた『笑の泉』の別冊として1959年(昭和34年)の終わりに『新グラマー画報』として創刊。1960年(昭和35年)2月号から『ユーモアグラフ』の名に落ち着くが、やがて『ユーモア画報』と改題し、1963年(昭和38年)末に一時休刊。1965年(昭和40年)12月号から、発行元をパン・フォト・プレス続いて、光彩書房へと変へて復刊。復刊後はピンク映画の女優がモデルとして頻繁に登場している。1970年代初めまでの10余年続いた。
発行年・出版社
パン・フォト・プレス:(1965年(昭和40年)12月号〜 No.69 1967年(昭和42年)4月号まで確認)
光彩書房:(1967年(昭和42年)9月号)〜1970.09まで確認
発行人・編集人
編集人:田部昶(1964年(昭和39年)4月号)
編集人:しもかわのりなお、発行人:たなべひさし(1966年(昭和41年)6月号)
発行人:たなべひさし(1967年(昭和42年)4月号、10月号)
編集兼発行人:しもかわのりなお、(1968年(昭和43年)5月号)
主な出来事
1958年(昭和33年)12月号(要確認)、『別冊笑の泉 新グラマー画報』として一水社から創刊[注 1]。
1959年(昭和34年)10月号、『別冊笑の泉 まんがショック ぐらまあショック』という表紙。
1959年(昭和34年)11月号、『別冊笑の泉 NUDE PHOTO』という表紙。
1960年(昭和35年)1月号、『別冊笑の泉 漫画ショック』という表紙。
1960年(昭和35年)2月号、『別冊笑の泉 ユーモアグラフ』として名称が固定。
1961年(昭和36年)8月号、『笑の泉発行』『ユーモアグラフ」の表記となる。
1962年(昭和37年)頃、『ユーモア画報』として引き続き一水社から。
1962年(昭和37年)、3月号は『ユーモアグラフ』一水社とある。
1962年(昭和37年)、5月号は『ユーモアグラフ』一水社で通巻42号。編集人:田部昶
1963年(昭和38年)末、休刊。12月号が通巻60号になっている。
1965年(昭和40年)12月号、復刊第1号。通巻64号。パン・フォト・プレス『ハダカになった女優たち(1) 緑魔子』。松尾みき、牧和子、奈加公子、麻木正美のピンク女優。「THE NEW HUMOR GRAPH」と裏表紙に。
1966年(昭和41年)2月号、『ハダカになった女優たち(2) 野川由美子』。パン・フォト・プレス。カメラ:植木俊雄、花沢正治、長野純、石田紘一、久保田茂、長井国雄、小村順二、小林靖
1966年(昭和41年)3月号、通巻66号。『ハダカになった女優たち(3) 内田高子』。パン・フォト・プレス
1966年(昭和41年)4月号、香取環、藤田リカのグラビア。美研出版や三星社書房の「医学カード<性のデザイン篇>」の広告。パン・フォト・プレス
1966年(昭和41年)6月号、新高恵子、林美樹、桂奈美、扇町京子のグラビア。美研出版や三星社書房の「医学カード<性のデザイン篇>」の広告。パン・フォト・プレス
1967年(昭和42年)4月号、映画デビュー前後の谷ナオミがグラビアに出ている。村山明美の名前で。撮影:石塚和保。パン・フォト・プレス
1967年(昭和42年)6月号、編集人:しもかわのりなお、発行人:たなべひさし。光彩書房。五十嵐リサ、鵬アリサなど。4月1日より光彩書房に社名変更したとの案内。
1967年(昭和42年)9月号、通巻80号。編集人:しもかわのりなお、発行人:たなべひさし。光彩書房。モデル:横井和子、宮川佳子、外野玉藻、K・みなみ、太田紀子、牧見和子、西村昌江、内村浜美、金森美和、カメラ:中田影三、渡辺信也、村上謙三、小村順二、水辺英夫
1967年(昭和42年)10月号、谷ナオミの名でグラビアに登場。4月号の村山明美は今人気のピンク映画女優谷ナオミと同一人物だと解説。光彩書房
エピソード
- 一水社時代は記事が中心の雑誌。グラビアも豊富で凝った撮影が多い。
- 名前の出てくる写真家は、吉田潤、石川洋司、大久保滋、藤沢修、望月良平、石田紘一、長島国雄、小村順二、長井友夫、久保茂、植木俊雄。
- 一水社時代のモデルには「あすなろぐるーぷ」という所属が記されている。
- 1961年(昭和36年)頃、季節風書店から『世界ユーモア画報』が出版されている。
- 1966年(昭和41年)6月号の裏表紙には「The New Humor Graph」とある。
引用文献
注釈
- ↑ 初期の名前は安定していなかったようだ。