伊藤晴雨
いとう せいう、1882年(明治15年)3月3日 - 1961年(昭和36年)1月28日
活動内容
絵師。写真家。緊縛師。風俗考証家。舞台装置家。演劇評論家。昭和SMの開祖。明治15年に生まれ、幼い頃から芝居や物語の責め場に強い関心をもち、恋人や妻をモデルに緊縛写真や責め絵作品を制作。大正末期にはおりからのエログロブームに取り上げられ、世間の注目を集める。1928年(昭和3年)にはわが国初の緊縛写真集『責の研究』を発刊するが発禁となる。戦前の粹古堂書店より『美人乱舞』などの作品集を出し、アーティストとしての全盛期を迎えるが、第二次世界大戦で中断を余儀なくされる。
別名
Seiu Ito, 伊藤一(本名)
略歴
1882年(明治15年)3月3日、東京市浅草区に生まれる。
1890年(明治23年)頃、8歳で光琳派の野沢堤雨に弟子入り[1]。9歳で芝居の折檻シーンや女の髪の臭いに執着する性癖が発現。
1891年(明治24年)6月、母[注 1]から中将姫の雪責めの物語を聞かされたのが雪責めへの憧れとして青年時代まで残る[1]。
1892年(明治25年)頃、両親と共に観に行った本所寿座の『吉田御殿、招く振袖』の責め場が強く印象に残る[1]。
1894年(明治27年)頃、父が彫金師だったために12歳で象牙彫刻師のもとへ丁稚奉公。
1895年(明治28年)頃、13歳の頃から責め絵などを集め出す[1]。
1896年(明治29年)、芝居の看板描きをはじめる[1]。
1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での「日清戦争・夜討之仇譚」の看護婦の拷問シーンを観て感銘をうける[2][注 2]
1905年(明治38年)頃、23歳で絵描きになるべく彫刻師修行を辞め京都へ移り、様々な職業を転々とするが身体を壊し東京に戻る。
1907年(明治40年)頃、25歳から新聞の挿絵や評論を書く。
1908年(明治41年)頃、27歳で包茎手術を行ない一度目の結婚[注 3]。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。
1916年(大正5年)、34歳でお葉をモデルに責め絵を描く
1919年(大正8年)、37歳で最初の妻と離婚。開盛座(伊藤晴雨が同座の看板を描いていた)の女役者佐原キセ(帰世子)と結婚[1][注 4]。
1919年(大正8年)12月、佐原キセをモデルに自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀[1][注 5]。
1923年(大正12年)2月10日、カメラマン鈴木雷水と下高井戸の坂本牙城[注 6]の借りていた農家付近で雪責めの撮影[1]。
1923年(大正12年)、関東大震災。伊藤宅は焼け残る[1]。『いろは引・江戸と東京風俗野史』を出版。[注 7]
1924年(大正13年)、サンデー毎日6月1日号に佐原キセとの責め写真が紹介され、変態のレッテルを貼られる[1]。
1926年(大正15年)、梅原北明の變態資料12月25日号に佐原キセをモデルにした『臨月の夫人の逆さ吊り写真』が無断掲載。月岡芳年の「臨月の女性の逆さ吊り[注 8]」と共に。
1927年(昭和2年)12月、『いろは引・江戸と東京風俗野史 第一巻』を弘文館より刊行。
1928年(昭和3年)、日本最初の緊縛写真集『責の研究』を発刊。発禁。
1931年(昭和6年)、三人目の妻が精神を病み闘病、借金に追われるようになる。
1932年(昭和7年)、粹古堂書店より『美人乱舞』発刊。
1932年(昭和7年)、『いろは引・江戸と東京風俗野史 第六巻』を城北書院より刊行し完結。
1945年(昭和20年)、東京大空襲で家財一切を焼失。
1947年(昭和22年)5月、猟奇第4号に『虐げられる日本婦人』。
1951年(昭和26年)、4月より1954年(昭和29年)1月までの喜多玲子との書簡交換が記録に残っている[3]。
1953年(昭和28年)6月4日、市川市鈴木演芸場で「責めの劇団」の第1回公演[注 9]。7月11日文京区東片町中村座で第2回公演[注 10][注 11]。
1953年(昭和28年)、上田青柿郎編集の讀切ロマンスの臨時増刊『悦虐恍惚図』が監修:伊藤晴雨で発刊。
1954年(昭和29年)、須磨利之と実際に会う[注 12][4][5]。
1955年(昭和30年)、写真家の川口博が動坂[注 13]の伊藤宅を訪れ、交友が始まる[1]。
1956年(昭和31年)頃、この頃から辻村隆と交流がある[6]。
1960年(昭和35年)、挿絵画家としての功績に対し出版美術連盟賞を受賞。
1961年(昭和36年)1月27日、死去。
1966年(昭和41年)、団鬼六脚本の『猟奇の果て』[注 14]は伊藤晴雨をモデルとしている[7]。
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ12月号、および翌1月号の2回に分けて団鬼六『私本 伊藤晴雨物語』。
1969年(昭和44年)、東映で団鬼六を中心として、伊藤晴雨の伝記映画の製作の話がかなり進んでいたようだが、最終的には実現しなかった。
1977年(昭和52年)、『発禁本「美人乱舞」より 責める!』(製作:日活、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、出演:宮下順子)
1978年(昭和53年)、自由劇場にて、玉井敬友の『奇伝・伊藤晴雨』。
1996年(平成8年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』(朝日ソノラマ)。
2002年(平成14年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。
エピソード
- 高橋鐵は伊藤晴雨を「お江戸の熊楠」と呼んだ[8]。
- あだ名は「ビクテン」。興が乗ってくると額の青筋がビクビクと動いた[1]。生粋の江戸っ子で義理人情に厚かった[1]。
- 弟子に佐藤倫一(建築造型美術研究家)[1]。
- 「万朝報」時代の新聞記者仲間が中村金六[1]。・
- 女優栗島すみ子(水木流家元の水木歌江)を縛ったことがある[1]。
- 『演芸画報』に舞台スケッチと共にエッセイ、レポートを掲載していた[9]。
- 喜多玲子こと須磨利之と3年にわたり書簡を交換していた[8]。
- 濡木痴夢男は『いろは引・江戸と東京風俗野史』を愛読し、ここから題材を得て、浪曲台本『人情深川夫婦甘酒』を書いた[9]。
- 上田青柿郎は伊藤の流れをくむ緊縛師。
- 月岡芳年の『奥州安達が原ひとつ家の図』を参考に妻を吊して写真にする。
- 辻村隆は奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」で「私が伊藤老と交渉があったのは、ほんの晩年数年」「老はかなり衰弱しておられ」とある。また、東映の団鬼六脚本による伊藤晴雨の映画化がどうも延期されそうだとも書いている。
交友関係
- 沢田正二郎(新国劇)
- 曾我廼家五郎(1887-1948, 喜劇役者)
- 市村羽左衛門(歌舞伎)
- 尾上梅幸(歌舞伎)
- 辰巳柳太郞(新国劇)
- 喜多村緑郎(新派)
- 水谷八重子(新派)
- 長谷川伸(文筆家)
- 江戸川乱歩(文筆家)
- 岩田専太郎(画家)
- 式場隆三郎(画家)
- 宮尾しげ(画家)
- 喜多玲子(画家)
- 古今亭今輔(落語)
代表作
- 伊藤晴雨『いろは引・江戸と東京風俗野史 全6巻』(弘文館、六合館、城北書院, 1922-1932)
- 伊藤晴雨『責の研究』(私家版,1928)
- 伊藤晴雨『責の話』(1929.9)
- 伊藤晴雨『論語通解』(私家版, 1930)[1][注 15]
- 伊藤晴雨『女三十六気意』(1930, 粹古堂書店)
- 伊藤晴雨『美人乱舞』(1932, 粹古堂書店)
- 伊藤晴雨『虐げられたる日本婦人』猟奇 1947年(昭和22年)5月号
- 藤沢衛彦・伊藤晴雨『日本刑罰風俗図史 上・下』(1948)
- 伊藤晴雨『泥絵殺人譜』妖奇 1948年(昭和23年)7月号
- 伊藤晴雨『責の研究』(1950.5)
- 伊藤晴雨『責の四十八手』(粹古堂, 1951.1)
- 伊藤晴雨『黒縄記』(1951.9)
- 伊藤晴雨『女体の縛り方十五種』風俗草紙1953年(昭和28年)9月号
- 伊藤晴雨『「責めの劇団」について』KK通信1953年(昭和28年)第13号
- 伊藤晴雨『吊り責めさまざま』風俗草紙1954年(昭和29年)1月
- 伊藤晴雨『非小説 性液』奇譚クラブ1954年(昭和29年)2月
- 伊藤晴雨『新版・美人乱舞』(粹古堂, 1954)
- 伊藤晴雨『責め物美人伝』奇譚クラブ1958年(昭和33年)1月, p62
- 伊藤晴雨『晴雨流女の縛り方』風俗奇譚1961年(昭和36年)4月号
晴雨を扱った書籍
- 斎藤夜居『伝奇伊藤晴雨』(豊島書房, 1966)
- 団鬼六『奇譚伊藤晴雨伝』(三崎書房, 1972)
- 梅原正紀『近代奇人伝』(大陸書房, 1978)
- 城市郎『活字のエロ事師たち6』(1984, 雨亭文庫)
- 団鬼六『伊藤晴雨物語』(河出文庫, 1987)
- 福富太郎・編『伊藤晴雨 自画自伝』(新潮社, 1996)
- 『伊藤晴雨・晴雨秘帖』(二見書房, 2002)
- 川口博『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』(新潮社, 1996)
- 団鬼六『外道の群れ―責め絵師伊藤晴雨をめぐる官能絵巻』(1996, 朝日ソノラマ)
- 『美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌』(弓立社, 1997)
- 団鬼六『異形の宴―責め絵師伊藤晴雨奇伝』(2000, 朝日ソノラマ)
- 団鬼六『伊藤晴雨ものがたり(責め絵師一代記)』(2000, 二見書房)
晴雨を扱った雑誌
- 『悦虐恍惚図』讀切ロマンス1953年(昭和28年)の臨時増刊。監修:伊藤晴雨。
- 『特集 伊藤晴雨の人と作品』風俗奇譚1960年(昭和35年)12月号
- 『伊藤晴雨追悼特集』画報風俗奇譚1961年(昭和36年)4月臨時増刊号[注 16]
- 斎藤夜居『晴雨と責め写真』奇譚クラブ1969年(昭和44年)12月号, p92
- 『特集:伊藤晴雨』芸術生活 1971年(昭和46年)3月号, 芸術生活社
- 『責めの美学 伊藤晴雨の緊縛指導』(エド・プロダクツ, 不明)
- 『幻の責め絵師 伊藤晴雨』芸術新潮 1995年(平成7年)4月号, 新潮社
晴雨を扱った映画
- 『猟奇の果て』 (ヤマベプロ, 1996.2)(製作:山邊信夫。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
- 『発禁本「美人乱舞」より 責める!』 (日活, 1977)((製作:結城良煕、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、脚本:いどあきお、出演:宮下順子)
- 『およう』 (松竹, 2002)(製作:横畠邦彦、監督:関本郁夫、脚本:団鬼六『外道の群れ』、出演:熊川哲也 渋谷亜希 竹中直人 里見浩太朗 三田和代)
晴雨を扱った演劇
- 『奇伝・伊藤晴雨』玉井敬友のシアタースキャンダル。1978年(昭和53年) 於 自由劇場。
- 『お葉といふ女~晴雨と夢二「晴雨編」』外波山文明の椿組(はみだし劇場)。1998年12月 於 下北沢 OFF・OFFシアター。(原作:団鬼六「下道の群れ」)緊縛指導;長池士、出演;筒井真理子、たこ八郎)。
参考資料
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 川口博『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』(新潮社, 1996)
- ↑ 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)
- ↑ 『伊藤晴雨書簡』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
- ↑ 美濃村晃『巨星落ちたり-妖美画家 伊藤晴雨伝』美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌(弓立社, 1997)
- ↑ 秋田昌美・濡木痴夢男・不二秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)
- ↑ 奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」
- ↑ 奇譚クラブ1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 SとMは花ざかり』
- ↑ 8.0 8.1 小田光雄古本夜話3 SM雑誌の原点としての伊藤晴雨より。
- ↑ 9.0 9.1 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
注釈
- ↑ 継母と思われる( 『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』より)。
- ↑ 男優が女装で演じていた。
- ↑ 包茎だったため28歳まで童貞だったが本物の女を知って落胆するなど、性に対する憧れが先行するタイプだった。
- ↑ 1893-5年(明治26-8年)頃の生まれと思われる。後に浮気をして晴雨のもとを去る。
- ↑ この作品の一部は後に斎藤昌三の『』で発表される。
- ↑ 当時、伊藤晴雨宅に居候していたようだ。
- ↑ 1932年(昭和7年)に6巻で完結。今なお、時代考証の名著として知られる。
- ↑ 「奥州安達が原ひとつ家の図」と思われる。
- ↑ 濡木痴夢男はこの公演を観ている。演目は鈴木泉三郎脚本の「火あぶり」(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある(「奇譚クラブの絵師たち」より)。
- ↑ 江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場、とある。入場料300円。
- ↑ KK通信1953年(昭和28年)第13号
- ↑ 当初、伊藤晴雨は喜多玲子を本物の女性画家だと信じていた模様。また、最後まで須磨利之を喜多玲子の主人と思っていた「ふり」をしていたという説もある。
- ↑ 「都立駒込病院の正門前路地の突き当たり」なので、現在の文京区千駄木5丁目あたりか?
- ↑ (1996.2)(製作:ヤマベプロ。監督:岸信太郎、脚本:団鬼六、出演:山吹ゆかり)
- ↑ 新派の女優の緊縛写真や秘画を集めた作品。警察に没収。
- ↑ 責め絵、責め写真に加え、伊藤晴雨 『責め絵の研究』『吊り責めさまざま』、野村佳秀『責め絵の道一すじに生きた鬼才』、古今亭今輔らの座談会を含む。