濡木痴夢男
ぬれき ちむお、1930年(昭和5年)-
活動内容
緊縛師、文筆家、編集者。
別名
Chimuo Nureki, 飯田豊一(本名)、青山三枝吉(奇譚クラブ、風俗奇譚)、藤木仙治(奇譚クラブに映画スチールを提供、サスペンスマガジン)、藤見郁(奇譚クラブ、風俗奇譚、SM奇譚、裏窓、SMセレクト他)、飯田豊吉(裏窓に官能サスペンス)、赤木恵介、市川国彦、影村一鬼、白鳥大蔵、塔婆十郎、藤木仙冶、真木不二夫(奇譚クラブの「黄色オラミ誕生」で有名)、目黒天平、矢桐重八(奇譚クラブにエッセイ)、豊田一狼、北園透一郎、松平荘司、南村蘭、ホーハンター、若杉薫、早蕨亮太、曲二十八、豊幹一郎、稲田乾二[注 1]
略歴
誕生〜青年時代
1930年(昭和5年)、浅草に生まれる。3代続いての浅草育ち。
1945年(昭和20年)、亀有駅近くにある鶴亀劇場で市川福之助という女形歌舞伎役者の弟子となる。本所緑町の寿劇場を拠点とていた「花形歌舞伎一座」は、空爆による寿劇場の焼失を機に、鶴亀劇場を拠点とする「新生花形歌舞伎」(座頭:坂東鶴蔵、坂東竹若)を設立。寿劇場の立女形であった市川福之助も参加。バックには鶴亀劇場と白鬚劇場(どちらも映画館を改造した小さな芝居小屋)をもつ大川芸能社。この頃、濡木は浅草から千葉県松戸市に移っている[1]。
奇譚クラブ時代
1953年(昭和28年)頃、東京のデザイン会社から名古屋に派遣。アパレル関係の宣伝雑誌[注 2]を制作。この頃奇譚クラブを知る[2]。
1953年(昭和28年)、『悦虐の旅役者』が奇譚クラブ11月号に採用[注 3]。ペンネームは青山三枝吉。
1953年(昭和28年)頃、 鈴本演芸場での『火あぶり』の公演時に、伊藤晴雨を目撃。
1954年(昭和29年)、奇譚クラブ3月号が発禁処分。真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(八木静男挿絵)の内容が問題となり発売4日後に発禁[2]。
裏窓時代
1957年(昭和32年)、赴任先の名古屋から東京に戻る。戻る少し前に松坂屋の本屋で『裏窓』を見つけ、喜多玲子の名を見つける[2]。
1957年(昭和32年)12月、『青い顔の男』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』に掲載[注 4]。その後、奇譚クラブと裏窓に並行して投稿。
1958年(昭和33年)、『血まみれ観音像』が飯田豊吉のペンネームで『裏窓』1月号に、『血まみれマリー』が藤見郁のペンネームで5月号に掲載。
1958年(昭和33年)、須磨から執筆依頼され、『地獄の乳房』を5月号〜9月号に連載。これを機にプロに転向。
1958年(昭和33年)頃、須磨と共に「緊縛プレイ」の実践。相手は、深井俊彦が支配人をつとめる新宿ミュージックホールの踊り子[注 5]。
1959年(昭和34年)、吉田に依頼され、『乳房に火をつけるな』を藤木仙治の名前で奇譚クラブ100号突破懸賞として投稿[注 7]。
1960年(昭和35年)、吉田に奇譚クラブの東京進出と編集長の打診を受ける。
1961年(昭和36年)、裏窓1962年(昭和37年))1月号から須磨の後を継いで編集長に。
1964年(昭和39年)、裏窓1965年(昭和40年))1月号で裏窓が廃刊。サスペンスマガジンをへと続く。
1968年(昭和43年)、奇譚クラブへの投稿再開。
1970年(昭和45年)、須磨と共に虻プロを立ち上げあぶめんとの編集長に。社長は須磨[2]。同年9月にあぶめんとは廃刊。
緊縛師時代
2000年代
エピソード
- 1982年(昭和57年)、豊幹一郎[注 1]として、バンビデオにSMドキュメント作品[注 8]。
- アートビデオの初期作品『淫狼の牙』、『セーラー服縄奴隷』などでは、緊縛師ではなく男優として出演している[注 8]。
代表作
書籍
- 濡木痴夢男『緊縛の美・緊縛の悦楽 』(河出書房新社, 1995)
- 秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)
- 濡木痴夢男『実録 縛りと責め』 (河出書房新社, 2001)
- 濡木痴夢男『性の秘本 責めと愉悦』(河出書房新社, 2003)
- 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
- 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」とその周辺』(河出書房新社, 2006)
- 濡木痴夢男『緊縛★命あるかぎり』(河出書房新社, 2008)
映画
参考資料
- ↑ 濡木痴夢男『濡木痴夢男のおしゃべり芝居』
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 中原るつ『濡木痴夢男ののう1つの顔』 濡木痴夢男『緊縛★命あるかぎり』(河出書房新社, 2008)のあとがき。]
注釈
- ↑ 1.0 1.1 豊幹一郎、稲田乾二は緊縛が濡木痴夢男、カメラが枷井克哉、カメラアシスタントが不二秋夫の合体プロジェクト名。「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体(日本緊縛写真史より)。
- ↑ 中原は『緊縛★命あるかぎり』のあとがきで、日本発のPR誌と位置づけ。
- ↑ 喜多玲子の挿絵を強く希望していたが、須磨利之が離脱したあとだったためにかなわず。代わりに都築峰子が挿絵。
- ↑ 「東京に戻る列車の中で執筆」とある(「緊縛命ある限り」あとがき中原るつ)。
- ↑ 「ときどき深井自身もその「緊縛プレイ」に参加した。」(おしゃべり芝居、20回)
- ↑ 須磨に連れられ団氏の自宅を訪問。新橋とか、銀座の酒場でも、数回ごちそうになった。「縄」に対する関心がないことがわかり、行きたがる美濃村の誘いを断りがち。
- ↑ 「吉田に依頼」にあるように出来レース。四馬孝の絵をつけることを提案されたが拒否して自作コラージュ。
- ↑ 8.0 8.1 『マンボウ資料館』より。