「伝統芸能の中の責め」の版間の差分
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1717年(享保2年)、「'''八百屋お七'''」の事件を文楽にした紀海音『'''八百屋お七恋緋桜'''』がヒット。 | 1717年(享保2年)、「'''八百屋お七'''」の事件を文楽にした紀海音『'''[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877227 八百屋お七恋緋桜]'''』がヒット。 | ||
1730(享保5年)、狂言の絵入台本集『'''狂言記 拾遺篇'''』に紹介されている『'''棒縛り'''』では太郎冠者が[[天秤棒担ぎ縛り]]にされ、次郎冠者は[[後手縛り]]に。 | 1730(享保5年)、狂言の絵入台本集『'''狂言記 拾遺篇'''』に紹介されている『'''棒縛り'''』では太郎冠者が[[天秤棒担ぎ縛り]]にされ、次郎冠者は[[後手縛り]]に。 |
2012年8月23日 (木) 09:38時点における版
出来事
1603年(慶長8年)、歌舞伎の元祖とされる女性役者出雲阿国が京都で評判。能舞台で踊りなどを披露。これが女歌舞伎となり広まる。
1678年(延宝6年)、京都で初代坂田藤十郎が人気。
1685年(貞享2年)、江戸市村座で初代市川團十郎 が大ヒット。金平浄瑠璃の影響をうけた「荒事」。
1686年(貞享3年)、井原西鶴が『好色五人女』で「八百屋お七」の事件[注 1]を取り上げる。
1703年(元禄16年)、近松門左衛門が竹本義太夫のために書いた、文楽作品『曽根崎心中』が大ヒット。
1704年(宝永元年)頃、「辻講釈」が公許の常設小屋で上演される「講釈」(後の講談)が生まれる。
1715年(正徳5年)、近松門左衛門の人形浄瑠璃『国性爺合戦』が大ヒット。すぐに歌舞伎に移植。「義太夫狂言」の始まり。
1717年(享保2年)、「八百屋お七」の事件を文楽にした紀海音『八百屋お七恋緋桜』がヒット。
1730(享保5年)、狂言の絵入台本集『狂言記 拾遺篇』に紹介されている『棒縛り』では太郎冠者が天秤棒担ぎ縛りにされ、次郎冠者は後手縛りに。
1732年(享保17年)、文楽『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責」で傾城の阿古屋に、琴・三味線などの楽器を弾かせて責める、風変わりな責め。
1740年(元文五年)、並木宗輔作『鶊山姫捨松』の三段目『中将姫雪責の段』
1746年(延享3年)、竹田出雲・三好松洛・並木千柳の文楽『菅原伝授手習鑑』で老女方の覚寿が苅屋姫を杖でせっかん。
1765年(明和2年)、多色刷りの浮世絵「錦絵」が誕生。
1772年(安永元年)、新内『明烏夢泡雪』。
1778年(安永7年)、歌舞伎『金門五山桐』[注 2]の「能舞台折檻」で姫が後手縛り。
1783年(天明3年)、近松半二の文楽『伊賀越道中双六』の「円覚寺の段」で縄で捉えるシーン。
1826年(文政9年)、歌川國貞の『繪本 開談夜之殿』[注 3]を発表。
1854年(安政〜文久)頃、梅亭金鵞(金鵞大人、吾妻雄兔子、吾妻男一丁, 1821-1893)の作による『發花杖』が記録に。
1865年(慶応元年)、河竹黙阿弥『魁駒松梅桜曙微[注 4]』で欠皿こと楓姫が継母とその実子の紅皿がにイジメぬかれる。
引用文献
注釈
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つながり
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