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[[画像:Teitoza.jpg|250px|thumbnail|[[帝都座]]外観。『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)より]]
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[[画像:gakubuchi.jpg|150px|thumbnail|1947年(昭和22年) [[帝都座]]での『'''額縁ショー'''』。'''[[吉田潤]]写真集戦後フォーカス293-夢の輝き-'''(潮出版社, 1983)より]]
[[画像:gakubuchi.jpg|150px|thumbnail|1947年(昭和22年) [[帝都座]]での『'''[[額縁ショー]]'''』。'''[[吉田潤]]写真集戦後フォーカス293-夢の輝き-'''(潮出版社, 1983)より]]
'''ていとざ''' 1931年(昭和6年)ー1972年(昭和47年)。今の新宿丸井本店の場所にあった。映画館として戦前開館。戦後すぐに[[ストリップ]]の原点である『額縁ショー』や、戦後初のSM演劇ともいえる『[[肉体の門]]』が公演。
'''ていとざ''' 1931年(昭和6年)ー1972年(昭和47年)。今の新宿丸井本店の場所にあった。映画館として戦前開館。戦後すぐに[[ストリップ]]の原点である『[[額縁ショー]]』や、戦後初のSM演劇ともいえる『[[肉体の門]]』が公演。
==概要==
==概要==
戦前から1970年代初期まで新宿にあった劇場、食堂を兼ね備えた映画館。その五階にあった[[五階劇場]]では、1947年(昭和22年)に、[[秦豊吉]]の手により、戦後[[ストリップ]]の原点とされる『[[額縁ショー]]』や、戦後初のSM演劇ともとれる『[[肉体の門]]』が公演された。
戦前から1970年代初期まで新宿にあった劇場、食堂を兼ね備えた映画館。その五階にあった[[五階劇場]]では、1947年(昭和22年)に、[[秦豊吉]]の手により、戦後[[ストリップ]]の原点とされる『[[額縁ショー]]』や、戦後初のSM演劇ともとれる『[[肉体の門]]』が公演された。
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1946年(昭和21年)頃、五階劇場を新しくレビュー劇場としてオープンすべく準備。指揮は当時株式会社[[帝都座]]であった[[秦豊吉]]。定員420名。
1946年(昭和21年)頃、五階劇場を新しくレビュー劇場としてオープンすべく準備。指揮は当時株式会社[[帝都座]]であった[[秦豊吉]]。定員420名。


1947年(昭和22年)1月1日、[[帝都座五階劇場]]のオープンとして『ヴィナスの誕生』(18景)<ref group="注">唄(中村哲、田千鶴子)と踊りとコントで構成。この中の12景にボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を模した『額縁ショー』が登場。</ref>が開幕。15日まで。脚本:佐谷功、構成・振付:益田博<ref group="注">[[秦豊吉]]と共に『額縁ショー』のポーズを決めた。当時は動くことは許されなかった。</ref>、ヴィナス役:[[中村笑子]](えみこ)<ref group="注">本名:松本エミ。当時29歳。銀座のおでん屋「お多幸」の娘。日劇ダンシングチーム第一期生。渡米修行の経験有り。戦中は軍隊慰問をおこない、戦後は後輩の指導をおこなっていた。</ref>。一日3回公演で料金は20円<ref name="The"></ref><ref name="warera">[[田中小実昌]]、吉村平吉、[[メリー松原]]、[[正邦乙彦]]、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)</ref>。プロローグ場面で[[甲斐美和]]が金と黒との額縁の中で、花籠を抱いたポーズを四、五秒<ref name="#12234556941">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-12234556941.html cobanobuのブログ「額縁ショウ第一回「ヴィーナスの誕生」」]</ref>。
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1947年(昭和22年)、『額縁ショー』のモデルが[[中村笑子]]から[[甲斐美和]]<ref group="注">=甲斐美春。矢田茂門下のダンサー(井上ひさし『フランス座の世界』より)。当時19歳の踊り子。中村は乳房を隠していたようだが、甲斐は乳房を見せる。数秒間のことだったようだ。</ref>に変わる。<ref group="注">このキャスト変更が『ヴィナスの誕生』中なのか、あるいは、第2回公演なのか不明。</ref>
1947年(昭和22年)、『[[額縁ショー]]』のモデルが[[中村笑子]]から[[甲斐美和]]<ref group="注">=[[甲斐美春]]。[[矢田茂]]門下のダンサー([[井上ひさし]]『浅草フランス座の時間』より)。当時19歳の踊り子。中村は乳房を隠していたようだが、甲斐は乳房を見せる。数秒間のことだったようだ。</ref>に変わる。<ref group="注">このキャスト変更が『[[ヴィナスの誕生]]』中なのか、あるいは、第2回公演なのか不明。</ref>


1947年(昭和22年)2月11日、第2回公演『ラ・パンテオン』(20景)でルーベンスの「アンドロメダ」の『額縁ショー』で[[甲斐美和]]が乳房を見せる。
1947年(昭和22年)2月11日、第2回公演『ラ・パンテオン』(20景)でルーベンスの「アンドロメダ」の『[[額縁ショー]]』で[[甲斐美和]]が乳房を見せる。


1947年(昭和22年)5月30日、最初の演劇公演として劇団東童による『春の目ざめ』<ref name="The"></ref>。
1947年(昭和22年)5月30日、最初の演劇公演として劇団東童による『春の目ざめ』<ref name="The"></ref>。
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1947年(昭和22年)8月1日-15日、「空気座」による『[[肉体の門]]』公演。
1947年(昭和22年)8月1日-15日、「空気座」による『[[肉体の門]]』公演。


1947年(昭和22年)9月4日、『東郷青児アルバム』で『額縁』の中からモデルが抜け出し踊るシーン。他にも原京子が後期に『額縁ショー』に出演<ref name="The"></ref>。
1947年(昭和22年)9月4日、『東郷青児アルバム』で『額縁』の中からモデルが抜け出し踊るシーン。他にも原京子が後期に『[[額縁ショー]]』に出演<ref name="The"></ref>。


1947年(昭和22年)、演劇公演『春香伝』。
1947年(昭和22年)、演劇公演『春香伝』。
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1948年(昭和23年)2月1日〜3月2日、『'''踊る[[益田隆]]'''』公演<ref name="hikaruhosie">[[細江光]]『'''戦後の谷崎潤一郎--新資料に寄せて'''』(甲南女子大学研究紀要, 1999)</ref>。
1948年(昭和23年)2月1日〜3月2日、『'''踊る[[益田隆]]'''』公演<ref name="hikaruhosie">[[細江光]]『'''戦後の谷崎潤一郎--新資料に寄せて'''』(甲南女子大学研究紀要, 1999)</ref>。


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1948年(昭和23年)10月2日、[[帝都座五階劇場]]が閉場<ref group="注">閉場の理由としては[[秦豊吉]]の公職追放解除とのかねあいに加え、興業としての収益がそれほどではなかったことが指摘されている。</ref>。この頃は株主としての日活の力が強くなっており、日活名画館として外国映画を上映するようになる<ref name="The"></ref>。帝都座ショーのスタッフは[[新宿セントラル]]に移る<ref name="#12234556941"></ref>。


1972年(昭和47年)、新宿日活劇場(旧・帝都座)を27億8500万で丸井に売却
1972年(昭和47年)、新宿日活劇場(旧・帝都座)を27億8500万で丸井に売却


==エピソード==
==エピソード==
*額縁ショーで出演したモデルは中村笑子、甲斐美和、片岡マリ、原京子の4人のみ<ref name="The"></ref>。
*1947年(昭和22年)1月1日の『ヴィナスの誕生』公演で額縁の中で乳房を見せたモデルは[[甲斐美和]]説と[[中村笑子]]説がある(上記参照)。
*額縁ショーは『名画ショー』『活人画』とも呼ばれた。
*[[額縁ショー]]に出演したモデルは[[中村笑子]]、[[甲斐美和]]、[[片岡マリ]]、[[原京子]]の4人のみ<ref name="The"></ref>。
*[[額縁ショー]]は『名画ショー』『活人画』とも呼ばれた。


==参考資料==
==参考資料==
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*[http://www.asahi-net.or.jp/~ia6t-tkhs/tetoza.htm 新宿・帝都座]
*[http://www.asahi-net.or.jp/~ia6t-tkhs/tetoza.htm 新宿・帝都座]
*[http://www.shinjuku-ohdoori.jp/index.html 新宿大通り]
*[http://www.shinjuku-ohdoori.jp/index.html 新宿大通り]
*[https://x.com/saijoasakusa/status/1821514304795099378 西条昇の浅草エンタメ散歩] ←昭和22年2月の新宿・ [[帝都座]] 五階での〝[[額縁ショウ]]〟の生写真。額縁の中でトップレスでポーズを取るのは[[甲斐美和]](美春に改名)、額縁左手前の歌手は[[眞田千鶴子]]。

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帝都座外観。『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)より
1947年(昭和22年) 帝都座での『額縁ショー』。吉田潤写真集戦後フォーカス293-夢の輝き-(潮出版社, 1983)より

ていとざ 1931年(昭和6年)ー1972年(昭和47年)。今の新宿丸井本店の場所にあった。映画館として戦前開館。戦後すぐにストリップの原点である『額縁ショー』や、戦後初のSM演劇ともいえる『肉体の門』が公演。

概要

戦前から1970年代初期まで新宿にあった劇場、食堂を兼ね備えた映画館。その五階にあった五階劇場では、1947年(昭和22年)に、秦豊吉の手により、戦後ストリップの原点とされる『額縁ショー』や、戦後初のSM演劇ともとれる『肉体の門』が公演された。

場所・施設

  • 場所は現在の新宿丸井本店。
  • 地下2階、地上7階の鉄骨鉄筋コンクリート建築物。近代ルネッサンス様式。敷地面積345.87坪。1階から4階が映画館で、5階はダンスホール。地下にはレストラン[1]
  • 2階・3階に喫茶室「森永キャンデーストア」、地下には銀座のモナミの出店、大食堂「モナミ」があった[2]

別名

帝都座 帝都座五階劇場 五階劇場

歴史

1931年(昭和6年)、株式会社帝都座日活映画の封切館として開館[1][注 1]

1940年(昭和15年)、ダンス禁止令施行に伴い5階のダンスホール閉鎖。新しく吉本興業の演芸場としてオープン。

1940年(昭和15年)11月、秦豊吉が東京東宝劇場の第3代社長となり、帝都座も東京東宝劇場の経営下となる[1]

1946年(昭和21年)頃、五階劇場を新しくレビュー劇場としてオープンすべく準備。指揮は当時株式会社帝都座であった秦豊吉。定員420名。

1947年(昭和22年)1月1日、帝都座五階劇場のオープンとして『ヴィナスの誕生』(18景)[注 2]が開幕。15日まで。脚本:佐谷功、構成・振付:益田隆[注 3]、ヴィナス役:中村笑子(えみこ)[注 4]。一日3回公演で料金は20円[1][3]。プロローグ場面で乳房を露わにした[甲斐美和]]が金と黒との額縁の中で、花籠を抱いたポーズを四、五秒[4]

1947年(昭和22年)、『額縁ショー』のモデルが中村笑子から甲斐美和[注 5]に変わる。[注 6]

1947年(昭和22年)2月11日、第2回公演『ラ・パンテオン』(20景)でルーベンスの「アンドロメダ」の『額縁ショー』で甲斐美和が乳房を見せる。

1947年(昭和22年)5月30日、最初の演劇公演として劇団東童による『春の目ざめ』[1]

1947年(昭和22年)8月1日-15日、「空気座」による『肉体の門』公演。

1947年(昭和22年)9月4日、『東郷青児アルバム』で『額縁』の中からモデルが抜け出し踊るシーン。他にも原京子が後期に『額縁ショー』に出演[1]

1947年(昭和22年)、演劇公演『春香伝』。

1948年(昭和22年)、薔薇座公演『堕胎医』。

1948年(昭和23年)2月、『思い出のアルバム 第一集』で、片岡マリ[注 7]が額縁から抜け出し、乳房を露出したまま踊りまわった[5]

1948年(昭和23年)2月1日〜3月2日、『踊る益田隆』公演[6]

1948年(昭和23年)10月2日、帝都座五階劇場が閉場[注 8]。この頃は株主としての日活の力が強くなっており、日活名画館として外国映画を上映するようになる[1]。帝都座ショーのスタッフは新宿セントラルに移る[4]

1972年(昭和47年)、新宿日活劇場(旧・帝都座)を27億8500万で丸井に売却

エピソード

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
  2. 新宿・帝都座
  3. 田中小実昌、吉村平吉、メリー松原正邦乙彦、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
  4. 4.0 4.1 cobanobuのブログ「額縁ショウ第一回「ヴィーナスの誕生」」
  5. 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)
  6. 細江光戦後の谷崎潤一郎--新資料に寄せて』(甲南女子大学研究紀要, 1999)

注釈

  1. webでは1932年としているものもある。
  2. 唄(中村哲眞田千鶴子)と踊りとコントで構成。この中の12景にボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」を模した『額縁ショー』が登場。
  3. 秦豊吉と共に『額縁ショー』のポーズを決めた。当時は動くことは許されなかった。
  4. 本名:松本エミ。当時29歳。銀座のおでん屋「お多幸」の娘。日劇ダンシングチーム第一期生。渡米修行の経験有り。戦中は軍隊慰問をおこない、戦後は後輩の指導をおこなっていた。
  5. 甲斐美春矢田茂門下のダンサー(井上ひさし『浅草フランス座の時間』より)。当時19歳の踊り子。中村は乳房を隠していたようだが、甲斐は乳房を見せる。数秒間のことだったようだ。
  6. このキャスト変更が『ヴィナスの誕生』中なのか、あるいは、第2回公演なのか不明。
  7. 元バレリーナ。肉色のパンツに薄いピンクのベールのみ。
  8. 閉場の理由としては秦豊吉の公職追放解除とのかねあいに加え、興業としての収益がそれほどではなかったことが指摘されている。

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