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'''たなか きんいち''' 1947年(昭和22年)1月13日- | '''たなか きんいち''' 1947年(昭和22年)1月13日- | ||
== | ==概要== | ||
写真家。多くの[[ピンク映画]]で緊縛も担当。日本写真芸術学会会員、新写真派協会会員。 | 写真家。多くの[[ピンク映画]]で緊縛も担当。日本写真芸術学会会員、新写真派協会会員。 | ||
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1969年(昭和44年)、東映制作所<ref group="注">当時、東映撮影所の中に、「東映制作所」と「東映テレビプロダクション」があり、「東映制作所」は「キーハンター」「プレイガール」「柔道一直線」等を、「東映テレビプロダクション」刑事物ドラマを制作していた。</ref>の嘱託カメラマンとして『プレイガール』『柔道一直線』等の番宣用スチールを撮影。1970年(昭和45年)末まで<ref name="私信" group="注"></ref>。 | 1969年(昭和44年)、東映制作所<ref group="注">当時、東映撮影所の中に、「東映制作所」と「東映テレビプロダクション」があり、「東映制作所」は「キーハンター」「プレイガール」「柔道一直線」等を、「東映テレビプロダクション」刑事物ドラマを制作していた。</ref>の嘱託カメラマンとして『プレイガール』『柔道一直線』等の番宣用スチールを撮影。1970年(昭和45年)末まで<ref name="私信" group="注"></ref>。 | ||
1970年(昭和45年)秋、[[東京三世社]] | 1970年(昭和45年)秋、[[東京三世社]]の『[[PINKY]]』の取材で、[[木俣尭喬]]監督の『(調査中)』を取材<ref group="注">19xx公開。「プロダクション鷹」作品。[[珠瑠美]]主演。製作助手が和泉聖治。</ref><ref name="私信" group="注">私信</ref>。これ以降、[[ピンク映画]]のスチールを手伝うようになる<ref group="注">助監督が撮っていたスチールがお粗末なので、自由な取材を交換条件に、ポスターと劇場用写真を無料で撮影することになった。以後、1980年代の中頃まで、多くの監督の800本近い[[ピンク映画]]を手伝ってきた。</ref><ref name="私信" group="注"></ref>。 | ||
1971年(昭和46年) | 1971年(昭和46年)、高校時代の写真部先輩と二人で事務所を設立し、[[ピンク映画]]のスチール写真を主に撮影。1987年(昭和62年)まで。 | ||
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1987年(昭和62年)、[[S&Mスナイパー]]に『掟破りの銀幕スター』の連載をきっかけに、[[S&Mスナイパー]]のメインカメラマンとなる(終刊まで)。 | 1987年(昭和62年)、[[S&Mスナイパー]]に『掟破りの銀幕スター』の連載をきっかけに、[[S&Mスナイパー]]のメインカメラマンとなる(終刊まで)。 | ||
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[[小説SMセレクト]]で『緊縛百景』シリーズを連載。これをもとに『緊縛紀行』が作られる。 | [[小説SMセレクト]]で『緊縛百景』シリーズを連載。これをもとに『緊縛紀行』が作られる。 | ||
2002年(平成14年)頃、サイト「'''Sadistic Monkey'''」でSM緊縛写真を配信。 | |||
2007年(平成19年)11月、[[S&Mスナイパー]]11月号で『'''[[田中欣一]] 緊縛写真家という仕事'''』特集。 | |||
2010年(平成22年)6月より、[[観音スタジオ]]にて「'''Kin's Bar'''」を開始。第1回には[[早乙女宏美]]、[[志摩紫光]]が参加。 | |||
2010年(平成22年)9月20日-10月2日、『[[田中欣一]]×[[金井清顕]] 第2回「二人展」』於[[ヴァニラ画廊]] | |||
2014年頃まで緊縛撮影会が続いていた。 | |||
==作品== | ==作品== | ||
===写真集=== | ===写真集=== | ||
* | *『'''DOMINA-工藤ひとみ写真集'''』(大陸書房, 1992) | ||
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4883212041?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4883212041 | *[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4883212041?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4883212041 『'''浮世草子―朝吹ケイト緊縛写真集'''』] (北欧書房, 1995)(緊縛:[[明智伝鬼]])<ref group="注">目黒にあった日本家屋で撮影をした。[[荒木経惟]]もしばしば使った場所。私信。</ref> | ||
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4883213447?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4883213447 | *[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4883213447?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4883213447 『'''緊縛紀行―田中欣一写真集'''』](北欧書房, 1997) | ||
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813020682?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813020682 | *[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813020682?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813020682 『'''SEX CINE‐MATRIX―the earlist works of Kin‐ichi Tanaka The“Pink”era'''』]([[大洋図書]], 2007) | ||
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===映画=== | ===映画=== | ||
『花の女王蜂性狂乱!』(渡辺護監督、大蔵、1975)、『残酷縛絵伝奇』([[ | 『花の女王蜂性狂乱!』(渡辺護監督、大蔵、1975)、『残酷縛絵伝奇』([[山本晋也]]監督、[[新東宝]]、1976)、『谷ナオミ 縛る!』([[渡辺護]]監督、[[新東宝]]、1977)、『少女を縛る!』([[渡辺護]]監督、[[新東宝]]、1978)、『日本の拷問』([[高橋伴明]]監督、[[新東宝]]、1978)、『鞭と緊縛』([[高橋伴明]]監督、[[新東宝]]、1979)、『地獄のローパー 緊縛・SM・18才<ref group="注">地上45mもの高さでクレーン車に吊られシーンは[[早乙女宏美]]が自ら持ち込んだ企画。</ref> 』([[片岡修二]]監督、国映、1986) など、総計百数十本の[[ピンク映画]]で緊縛を担当。1971年以降の[[ピンク映画]]におけるほとんど全ての緊縛を担当している([[にっかつ]]直属作品<ref group="注">[[にっかつ]]は、その後期には、一部の作品を独立系プロ([[ピンク映画]]会社)に外注していた。『ザ・折檻 』([[伊集院剛]]監督、[[雄プロ]]、1985)などがその例。</ref>の緊縛には関与していない)。 | ||
また、『(襲)処女タレント』(伊藤秀裕監督、[[にっかつ]]、1984)、『トルコの48時間』([[中村幻児]]監督、[[にっかつ]]、1984)、『下半身症候群』([[中村幻児]]監督、[[にっかつ]]、1984)、『ニャンニャン娘』([[中村幻児]]監督、[[にっかつ]]、1984)、『先生、私の体に火をつけないで』([[廣木隆一]]監督、[[にっかつ]]、1984)、『ザ・折檻 』([[伊集院剛]]監督、[[雄プロ]]、1985)、『オーガズム・真理子』(加藤文彦監督、[[にっかつ]]、1985)、『聖熟女』([[廣木隆一]]監督、[[にっかつ]]、1988)など約800本の[[ピンク映画]]でスチール担当。 | |||
==エピソード== | |||
*[[百花苑]]、目黒や本郷にあった古い日本家屋などを撮影によく使った<ref name="shishin">[[田中欣一]]、私信 to U</ref>。 | |||
== 引用文献== | |||
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==注釈== | ==注釈== | ||
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== お役たちweb== | |||
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*[http://www.kt-world.jp/ 田中欣一の世界] | *[http://www.kt-world.jp/ 田中欣一の世界] | ||
*[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10409794078.html 映画における緊縛指導 〜その8〜 田中欣一] | *[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10409794078.html 映画における緊縛指導 〜その8〜 田中欣一] | ||
*[http://web.archive.org/web/20020802164314/http://www.sm-online.net/ Wayback] | |||
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2021年5月18日 (火) 09:26時点における最新版
たなか きんいち 1947年(昭和22年)1月13日-
概要
写真家。多くのピンク映画で緊縛も担当。日本写真芸術学会会員、新写真派協会会員。
別名
Kinichi Tanaka、バロン・スコンブ[注 1]、ジョン万一郎[注 2]
略歴
1947年(昭和22年)、埼玉県三郷市に生まれる。
1968年(昭和43年)、日本大学芸術学部写真学科卒業。
1969年(昭和44年)、東映制作所[注 3]の嘱託カメラマンとして『プレイガール』『柔道一直線』等の番宣用スチールを撮影。1970年(昭和45年)末まで[注 4]。
1970年(昭和45年)秋、東京三世社の『PINKY』の取材で、木俣尭喬監督の『(調査中)』を取材[注 5][注 4]。これ以降、ピンク映画のスチールを手伝うようになる[注 6][注 4]。
1971年(昭和46年)、高校時代の写真部先輩と二人で事務所を設立し、ピンク映画のスチール写真を主に撮影。1987年(昭和62年)まで。
1971年(昭和46年)、司書房から発刊されたSMファンの緊縛写真を撮影[注 4]。この頃から、若松孝二、山本晋也、渡辺護、向井寛、高橋伴明のピンク映画の緊縛を担当。
1987年(昭和62年)、S&Mスナイパーに『掟破りの銀幕スター』の連載をきっかけに、S&Mスナイパーのメインカメラマンとなる(終刊まで)。
1987年(昭和62年)、(有)田中欣一写真事務所設立。
小説SMセレクトで『緊縛百景』シリーズを連載。これをもとに『緊縛紀行』が作られる。
2002年(平成14年)頃、サイト「Sadistic Monkey」でSM緊縛写真を配信。
2007年(平成19年)11月、S&Mスナイパー11月号で『田中欣一 緊縛写真家という仕事』特集。
2010年(平成22年)6月より、観音スタジオにて「Kin's Bar」を開始。第1回には早乙女宏美、志摩紫光が参加。
2010年(平成22年)9月20日-10月2日、『田中欣一×金井清顕 第2回「二人展」』於ヴァニラ画廊
2014年頃まで緊縛撮影会が続いていた。
作品
写真集
- 『DOMINA-工藤ひとみ写真集』(大陸書房, 1992)
- 『浮世草子―朝吹ケイト緊縛写真集』 (北欧書房, 1995)(緊縛:明智伝鬼)[注 7]
- 『緊縛紀行―田中欣一写真集』(北欧書房, 1997)
- 『SEX CINE‐MATRIX―the earlist works of Kin‐ichi Tanaka The“Pink”era』(大洋図書, 2007)
緊縛教材
映画
『花の女王蜂性狂乱!』(渡辺護監督、大蔵、1975)、『残酷縛絵伝奇』(山本晋也監督、新東宝、1976)、『谷ナオミ 縛る!』(渡辺護監督、新東宝、1977)、『少女を縛る!』(渡辺護監督、新東宝、1978)、『日本の拷問』(高橋伴明監督、新東宝、1978)、『鞭と緊縛』(高橋伴明監督、新東宝、1979)、『地獄のローパー 緊縛・SM・18才[注 8] 』(片岡修二監督、国映、1986) など、総計百数十本のピンク映画で緊縛を担当。1971年以降のピンク映画におけるほとんど全ての緊縛を担当している(にっかつ直属作品[注 9]の緊縛には関与していない)。
また、『(襲)処女タレント』(伊藤秀裕監督、にっかつ、1984)、『トルコの48時間』(中村幻児監督、にっかつ、1984)、『下半身症候群』(中村幻児監督、にっかつ、1984)、『ニャンニャン娘』(中村幻児監督、にっかつ、1984)、『先生、私の体に火をつけないで』(廣木隆一監督、にっかつ、1984)、『ザ・折檻 』(伊集院剛監督、雄プロ、1985)、『オーガズム・真理子』(加藤文彦監督、にっかつ、1985)、『聖熟女』(廣木隆一監督、にっかつ、1988)など約800本のピンク映画でスチール担当。
エピソード
引用文献
注釈
- ↑ 「制服コレクション」で使用。Romain Slocombeをパロった名前。
- ↑ S&Mスナイパーの『加虐万博館』で使用。
- ↑ 当時、東映撮影所の中に、「東映制作所」と「東映テレビプロダクション」があり、「東映制作所」は「キーハンター」「プレイガール」「柔道一直線」等を、「東映テレビプロダクション」刑事物ドラマを制作していた。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 私信
- ↑ 19xx公開。「プロダクション鷹」作品。珠瑠美主演。製作助手が和泉聖治。
- ↑ 助監督が撮っていたスチールがお粗末なので、自由な取材を交換条件に、ポスターと劇場用写真を無料で撮影することになった。以後、1980年代の中頃まで、多くの監督の800本近いピンク映画を手伝ってきた。
- ↑ 目黒にあった日本家屋で撮影をした。荒木経惟もしばしば使った場所。私信。
- ↑ 地上45mもの高さでクレーン車に吊られシーンは早乙女宏美が自ら持ち込んだ企画。
- ↑ にっかつは、その後期には、一部の作品を独立系プロ(ピンク映画会社)に外注していた。『ザ・折檻 』(伊集院剛監督、雄プロ、1985)などがその例。